001.小説家、転生
――――完。
パソコンのモニターが照らす俺の顔は、第三者から見れば酷い有様だろう。
職業、小説家。桜庭恵一の人生の大半は、たった一本の作品によって支えられてきた。
『平民騎士の英雄譚』。創作活動に憧れた少年が、その後の20年間の全てを懸けて創り上げた作品。
ありきたりな作品だ。ありきたりな登場人物だ。だからこそ、人の心を動かしたのだろう。
自慢にはなってしまうが、この作品は大人気だ。
最初は自己満足で、自分のホームページで公開していた。
それが書籍化され、コミカライズされ、アニメ化され。そして映画化もされた。
おかげで、俺は俺の作品の世界を創り上げることに生涯を捧げることができたのだ。
完。文末のその文字を見ていると、俺の感情に関係なく一筋の涙が落ちてくる。
涙腺に連結された鼻腔から、同様に鼻水も垂れてきた。
俺の手で、『平民騎士の英雄譚』、その主人公エルトセムの行く末を書き上げられた達成感。
そして、湧き上がる空虚な喪失感を押し出すように、鼻を噛む。
もう3日は寝ていない。今すぐにでも泥の様に寝たかったが、部屋のデジタル時計は9時1分を示す。
1時間後に担当編集との打ち合わせが控えていた。
熱中しすぎるのは悪い癖かもしれない。本来なら、現時点で担当には完結までの原稿は渡さないのだ。
故に、これは俺の自己満足でしかなかった。
腹が減った。近所に、美味いラーメン屋があるらしい。
あまり外出しない俺が、書籍と漫画どちらも作画してくれている神原さんに聞いた情報。
靴を履き、部屋を出る。太陽の光は、容赦なく俺の目を突き刺した。
ヨロヨロと歩き、歩道に出る。
正面を向いていると目が痛いから、下を向いて歩く。
とおりゃんせのメロディが流れる。俺は歩き始めた。
違和感。
誰も歩き始めていない。そもそも、ここの歩行者信号は青になってもとおりゃんせは流れない。
慌てて振り返ると、携帯電話を耳に当てながらこちらを指差す女子高生。
紛らわしいな、着信音かよ。
それが俺、桜庭恵一としての最後の思考であった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
遠くから聞こえる音に、少しだけ意識が浮上した。
耳に水が詰まった時みたいに、遠くから響く音。
ザリザリ、ザーザー。そして規則正しく鳴るドンドンという小さな音。
全てが心地よかった。これが、死後の世界か。
目は開かない。体の感覚も不明瞭で、ただぼんやりと意識が介在するだけ。
確かに心地良い。涅槃に至る程のことをした覚えはないが、極楽浄土というものなのだろうか。
その感覚に身を任せ、意識はまた暗闇へと消えていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さて、この俺の独白を聞くことができるとすれば、きっと俺という物語を観覧している神なる存在なのだろう。俺は小説家なので、その神たちのことは信愛を込めて『読者』と呼ばせてもらう。
そのうえで、聡明な読者諸君であれば、俺の身に何が起きているのかはご理解頂けたであろう。
俺は、涅槃に至ったわけでも、極楽浄土へ逝ったわけでもない。
あの心地よい空間は、母の胎の中だった。
それも、桜庭恵一としての母ではない。過去に戻ったとか、そういうのではないのだ。
あれから少し時は飛んで、今俺は母の腕に抱かれる小さな命となっている訳だが、生まれるときは、それはもう筆舌に尽くし難き苦痛が伴った。
あの頭の圧縮率……おそらく頭蓋は拉げ、生まれた直後の俺の頭は細長い形をしていたと思う。
まだ己の姿を見たことはないが、若干見るのが怖い。
安らかな虚無に存在したかと思えばどんどんと感覚は鋭敏になるし、グニュグニュと体外へ押し出される動きに、抵抗もできず排出されてしまった。楽園を追放されたのだ。
まぁ、俺も痛ければ母も痛かったであろう。痛いで済むのかもわからない。
母は強し、母は偉大なり。身に染みた。前世では孝行する前に亡くなってしまったが、今世の母の言うことはしっかり聞いて、しっかり孝行する。
首も据わっていないうちから随分とビッグマウスを叩いているが、孝行せねばならぬ理由は尊敬以外にも当然としてある。
果たして、俺がここに存在する理由が何なのか。
桜庭恵一としての意識が、本来生まれるはずだった子の意識を上書きしてしまったのか?
自分ではどうしようもないことに対する罪悪感。贖罪の意味もあるのだ。
俺は、俺を抱く母の顔を見上げて努めて笑顔を作る。この母に孝行するのだ。
聡明なる読者諸君の中に、俺がこの世界へと転生した理由を知る者がいるのなら。
どうか、俺の意識がこの体の持ち主から奪ったものではないと。
そう囁いてほしいのだ。




