辿る記憶、蘇る記憶
八日目
目覚め
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
アオイは飛び起きた。呼吸は荒く、全身から冷や汗が噴き出している。遊園地の喧騒と、キラーの足音がまだ耳に残っているような気がした。
恐る恐る自分の身体を確認すると、左足に、フェンスに引っかかったような赤い擦過傷ができていた。
だが、俺は覚醒できた。
急いでヘッドギアを外し、ベッドから降りる。部屋を出て共有スペースへ向かうと、そこにはすでにユウキ、ケンタ、サクラ、そしてアヤカの姿があった。皆、俺と同じように疲労困憊の表情だが、その目には安堵の色が浮かんでいる。
「みんな、無事か!?」アオイが声をかけると、ユウキが大きく頷いた。
「ああ!なんとかなったな! 」
「マジで危なかった……」ケンタも息を吐いた。
サクラも、まだ少し震えながらも、安心した顔で微笑んだ。「みんなを無事でよかったです!」
アヤカが冷静な口調で言った。「やはり、遊園地全体が私たちにとって既知の領域であり、キラーがその記憶を利用して私たちを閉じ込めようとしていたのでしょう。遊園地そのものから脱出し、完全に知らない領域であるあの小屋へ逃げ込んだことで、覚醒できたのだと思います」
全員が無事に覚醒できたことに、安堵の空気が共有スペースに満ちた。しかし、同時に、カズキを失ったこと、そしてこの治験の真の危険性を改めて突きつけられたことで、重い雰囲気が漂っていた。
アオイは、ふと共有スペースを見回した。今までなら、もう少し多くの被験者がいるはずだ。しかし、今日の朝は、明らかにその数が少ない。普段見かける顔のいくつかが、そこにはなかった。
「なぁ……気のせいか? 今日、やけに人が少なくないか……?」アオイが呟くと、ユウキがはっとした顔で周囲を見渡した。
「本当だ……。昨日までいたあのオッサンとか、あの女の人とか、見当たらないぞ……」
ケンタが顔を青ざめさせた。「まさか……昨夜の夢で、脱出できなかった奴らが、大勢いたってことか……?」
誰もが言葉を失った。カズキだけではない。多くの被験者が、キラーの手に捕らえられ、二度と目覚めることのない眠りについたのだろう。生き残った彼らの顔に、新たな恐怖と、底知れない不安が広がった。
残された日数は、あと2日。この悪夢は、一体どこまで俺たちを追い詰めるのだろうか。そして、本当にあと2日で、この全てが終わるのだろうか。
日中
共有スペースに集まった被験者の数は、昨日よりもさらに少なくなっていた。その事実が、カズキを含め、どれだけの人間がこの治験の犠牲になったかを物語っていた。アオイたちは皆、疲労困憊の表情で、互いの無事を確認するように顔を見合わせる。
「本当に、あと2日で終わるのか……?」ケンタが弱々しい声で呟いた。彼の目の下には、治験開始当初よりもはるかに濃い隈ができていた。
「終わらせるしかないわ。そうでなければ、ここにいる意味がない」アヤカの目は、恐怖を押し殺したような、強い光を宿していた。その腕に残る生々しい傷跡が、彼女の決意を物語っている。
昨日、遊園地での激しい追跡戦を生き残ったことで、アオイたちの間に、ある種の連帯感が生まれていた。しかし、同時に、キラーがどれほど執拗に、そして巧妙に彼らの記憶を狙っているのかを痛感させられた
アオイは、他の被験者たちの顔をちらりと見た。皆、自分たちと同じように憔悴しきっている。中には、まるで魂が抜けたかのように、ぼんやりと一点を見つめている者もいた。彼らの多くもまた、夢の中で深い傷を負い、それでもなお、この危険な治験を続けるしかなかったのだろう。
「次の夜は……何が待っているんだろうな」ユウキが不安げに言った。
「何が来ようと、生き残るだけだ。あと2日だ」アオイは、自分に言い聞かせるように呟いた。高額な報酬という目的が、彼らを突き動かす唯一の理由だった。
残された日数は、あと2日。
夜
八日目の夜。アオイはベッドに横たわり、ヘッドギアを装着した。昨日までの悪夢の記憶が脳裏をよぎり、全身の筋肉が強張る。だが、この試練を乗り越えるしかない。
次に意識が浮上した時、アオイは、薄暗く寂れた古びた商店街に立っていた。
ここは、先日アオイとサクラが共に脱出に苦戦した「忘れ去られた幼い頃の町」だ。アスファルトのひび割れ、色褪せた看板、遠くから聞こえるような子供たちの声。その全てが、知っているはずのない「懐かしさ」を訴えかけてくる。
「また、ここか……」
アオイは周囲を見回したが、どこにもキラーの気配がない。冷たい空気も、足音も、あの異様な存在感も。何もない。まるで、時間が止まったかのような、静かで、しかしどこか安らかな場所だった。
その時、背後から声がした。「アオイくん……?」
振り向くと、そこにいたのはサクラだった。彼女もまた、困惑した表情で周囲を見回している。
「サクラ! キラーの気配がない……。これって……?」
サクラは首を傾げた。「そうですね……。私も、あの冷たい視線を感じません。一体どうしたんでしょう?」
二人は顔を見合わせた。キラーが現れない。これは、治験が突然終わったのか、それとも、新たな罠なのか。不安がよぎるが、キラーが現れないのならば、この奇妙な状況を有効活用できるのではないか。
「サクラ。キラーが出てこないのなら、いっそ、この機会に、お互いの忘れ去られた記憶を探してみないか?」アオイが提案した。
サクラは、ハッとした顔でアオイを見た。「記憶を……?」
「ああ。この町は、俺たちの幼い頃の記憶の場所だ。キラーに追われている時は、そんなこと考える余裕もなかったが……。もしかしたら、この夢は、俺たちの失われた記憶を取り戻すために用意されたものなのかもしれない」
サクラの瞳に、かすかな希望の光が宿った。「そうですね……。私も、もっとこの町について知りたいです。お母さんのこととか……」
二人は、ゆっくりと商店街の奥へと歩き始めた。荒廃した商店街の様子は、どこか心をざわつかせるが、キラーがいないという安心感があり、ゆっくりと足を進ませた。
錆びついたシャッターが降りたままの八百屋、色褪せた暖簾がかかる蕎麦屋。どの店も、かつては活気があっただろうに、今はただ寂れている。アオイは、店のガラスに映る自分の顔を眺めた。幼い頃の面影は、もうほとんど残っていない。
「ねぇ、アオイくん。あそこの時計台、覚えてる?」サクラが指さしたのは、商店街の中心にある、古びた時計台だった。時計の針は、ちょうど正午を指したまま止まっている。
アオイは首を傾げた。「うーん……見たことはあるような、ないような……。なんだか、靄がかかったみたいに、はっきりしないな」
「私、この時計台の音、聞いたことがある気がするんです。優しい音色で、お昼を知らせてくれる音……」サクラは、目を閉じて、その音を思い出そうとするかのように、耳を澄ませた。
その時、アオイの脳裏に、微かな光景が閃いた。まだ幼いアオイが、その時計台の下で、母親と手を繋いで見上げている姿だ。母親が、アオイの頭を優しく撫でながら、「この時計台はママが生まれるずーっと前からあるのよ」と話していた。その光景は、一瞬にして消え去ったが、確かにアオイの脳裏に刻み込まれた。
二人は、さらに商店街の奥へと進んだ。住宅街に入ると、同じような古い家屋が立ち並んでいる。その中で、一際目を引く、瓦屋根の大きな家があった。家の前には、手入れされていない庭が広がり、雑草が生い茂っている。
「アオイくん……私、この家、知ってる。隣に、大きな桜の木があったはず……」サクラが、何かを思い出すかのように、その家をじっと見つめた。
アオイも、その言葉に誘われるように、その家を見た。確かに、記憶のどこかに、この家と、その隣にそびえ立つ巨大な桜の木があったような気がする。しかし、その桜の木は、今はもう、枯れ果てた姿で、枝が不規則に折れ曲がっているだけだった。
アオイは、その家の庭に足を踏み入れた。踏み荒らされた庭の中はどこか寂しく、そして懐かしかった。
そこで、アオイの脳裏に、一瞬だけ、微かな光景が閃いた。
それは、まだ幼いアオイが、その庭で両親と手を繋ぎ、満開の桜を見上げている、とても暖かな記憶の断片だった。
「この記憶は……?」
アオイは、その記憶の断片を必死で掴み取ろうとした。その記憶のなかには同い年くらいの女の子とその母親らしき人がいた。花見でもしていたのだろうか。一緒に談笑している光景が浮かんできた。
この町は、俺たちの幼い頃の記憶の場所だ。そして、この家と桜の木。これらは、全てアオイの記憶と繋がっている。「桜の木…サクラ…?もしかして...!」
その時、サクラが、商店街の奥にある小さな児童公園のブランコを見つめていた。そのブランコは、錆びついていて、ひび割れている。
「アオイくん……。私、このブランコで、よく男の子と一緒に遊んでた気がする……」
サクラの言葉に、アオイの疑問が確信に変わりつつあった。そのブランコは、アオイにも見覚えがあった。小さな女の子がブランコに乗っている後ろ姿。そしてそのブランコを小さい俺がおしている光景。
その記憶の断片が、アオイの脳裏で鮮明に再生された。
同じ頃、別の被験者たちも、キラーのいない夢の中で、それぞれの「忘れ去られた過去」と向き合っていた。
ユウキとケンタは、昔遊んでいた河川敷の夢を見ていた。キラーの追跡がないことに戸惑いながらも、二人は自然と、彼らが子供の頃に埋めたタイムカプセルを探し始めた。
「あったぞ! ここだ!」ユウキが、土の中から錆びついた金属の箱を見つけ出した。その箱は、土と埃にまみれていて、開けるのに苦労した。
中には、幼稚園の頃に描いた絵や、手紙、そして、ユウキとケンタ、そして、もう一人の友達との写真が入っていた。その写真を見て、ケンタの顔色が変わった。「こいつ……タカシじゃないか! 俺、あいつのこと、すっかり忘れてた……!」
その瞬間、二人の脳裏に、事故で亡くなった友人の記憶が鮮明に蘇った。タカシは、いつも笑顔で、三人でよく秘密基地を作ったり、川で魚を捕まえたりしていた。しかし、ある日、交通事故で突然この世を去ってしまった。その時の悲しみとショックで、二人はタカシに関する記憶を無意識のうちに封印していたのだ。タカシの笑顔が、目の前で鮮やかに蘇り、二人の胸を締め付けた。
アヤカは、自身が育った孤児院の夢を見ていた。キラーの気配がないことに安堵しながらも、彼女は、なぜ自分が孤児院に預けられたのかという、自身の最も深い過去を探し始めた。彼女は、古い建物の中を、まるで幽霊のようにさまよい、資料室へと向かった。
資料室の奥、埃を被った棚の中に、一枚のアルバムを見つけた。それは、孤児院の子供たちの写真が収められたものだった。ページをめくっていくと、まだ幼いアヤカが、一人の女性に抱かれている写真に目が釘付けになった。その女性の顔は、アヤカの記憶にはなかった。しかし、その顔は、アヤカ自身と酷似していた。そして、その女性の傍らには、どこか見覚えのある男性の姿があった。
「この人が……私のお母さん……? じゃあ、この男性は……」
写真の裏には、走り書きで「アヤカへ、ごめんなさい」と書かれていた。その言葉が、アヤカの脳裏に、自分が孤児院に預けられた理由と、母親の苦悩の記憶を鮮明に蘇らせた。母親は、病で余命がわずかだったこと。そして、その男性は、自分の実の父親であり、父親は母親の余命を受け入れられれずに、無理心中をはかったのだ。アヤカは一命を取り留めたが、両親は助からなかった。身寄りがなくなったアヤカは孤児院に預けられた。その全てが、鮮明な映像となってアヤカの脳裏に流れ込んだ。
その瞬間、視界が、激しいノイズと共に砂嵐のように歪み始めた。