第90話 ヴェノム・ヘアリーキャタピラー
レベルアップすると決めた俺は第四階層まで来ていた。第四階層までなら新宿ダンジョンでもある程度戦ったことがあるから慣れたものだ。
第一階層から第三階層までは順調そのもの。スライムやゴブリンといった見慣れた敵を倒しながら、着実に階層を進んできた。
第三階層までの岩壁に囲まれた洞窟の景色から一変し、第四階層は森林が広がっている。新宿でも見慣れた景色だ。木々の間から差し込む光、土の匂い、葉が風に揺れる音。確かに見覚えのある環境だが、その中に一つ、見慣れないものを発見した。
それは岩に文字が彫り込んである、いわゆる碑文だった。
《この先落とし穴に注意》
思い切り日本語で書いてある。
誰が彫ったのだろうか?迷宮の真理が書かれているのかと思って期待したのに、これじゃただの注意書きじゃないか。まあ、親切な人が後続の探索者のために残してくれたのかもしれない。
とりあえず落とし穴がないか、足元を気にしながら進むことにした。
少し進むと、足元に落ち葉が広がっていた。
落とし穴があったら落ち葉で隠れているかもしれない。そう思い、俺は木刀で足元の落ち葉を払いながら慎重に進んだ。
すると、落ち葉を払っても地面が見えない場所があった。
俺は立ち止まり、もう少し丁寧に落ち葉を払ってみる。すると、地面に丸まったキャタピラーが埋まっていた。
「っ!」
俺は慌てて木刀を突き刺し、キャタピラーを倒した。
巣なのか、罠なのか。気づかずに進んでいたら噛みつかれてしまったかもしれない。キャタピラーも毒を持っている。かまれたら厄介だ。
親切な碑文に感謝し、俺はその先も落とし穴……いや、キャタピラーの罠に注意しながら進んだ。
スマートウォッチに表示されている地図を見ると、階層主の部屋までの道はこの先まっすぐだ。順調に進めばすぐに到着できるだろう。
そう思っていると、脇道にまた碑文を見つけた。
《この先頭上注意》
なんだか気になる。階層主への道から外れてしまうが、少し寄り道をしてみることにした。
細い道を進むと、頭上からオレンジ色の蛾が飛んできた。
「危ない!」
俺は慌てて木刀で叩き落とした。地面に落ちた蛾は動かなくなる。
こいつは確かポイズンモス――毒蛾だ。鱗粉を浴びせられたら毒を受けるところだった。碑文の「頭上注意」とはこのことか。
碑文の内容に納得すると、俺は元の道に引き返した。階層主の部屋はこっちではないし、これ以上寄り道をしても仕方がない。
それにしても、誰がこんな親切な碑文を残してくれたのだろうか。日本語で書かれているということは、そう古いものではないはずだ。
まあ、おかげで助かったのは確かだ。俺は碑文に感謝しながら、階層主の部屋へと向かった。
ほどなくして、階層主の部屋にたどり着いた。
森を抜けた先にあった岩壁に、人工物の扉がついている。この扉の中がそうだ。
予習して知っている第四階層主は、ヴェノム・ヘアリーキャタピラー。毒のある毛虫だ。体長2メートルくらいあるらしい。
まあ、キュアポーションを二個持っているので、二回までなら刺されても大丈夫だろう。
俺はそんな安易な気持ちで、第四階層主の部屋へと入って行った。
広い部屋の真ん中に、巨大な毛虫が現れる。写真で見て外見は知っていたけど、実物を見るとやけに大きく見える。しかし怯えることなく、俺は木刀を構えて向かっていった。
木刀で突きを入れると、ヴェノムキャタピラーはもだえるように体を動かして痛がる。毛は木刀より短いから、刺される前に攻撃を当てれば問題なく倒せるだろう。
ヴェノムキャタピラーが波打ちながら向かってくる。俺は避けながら攻撃を当てる。この繰り返しをするだけだ。
そんな攻防を何回か繰り返していた時、俺の攻撃でヴェノムキャタピラーの毛が折れて飛んできた。
慌てて手で払う。その瞬間、手に強い痺れが走った。
「痛っ!」
握力を失い、木刀が手から滑り落ちる。間髪入れず、ヴェノムキャタピラーが波打ちながら突進してきた。
俺はとっさに後ろへ飛びのき、転がるように距離を取る。
毒だ。毒を受けた!
急いで腰のポーチからキュアポーションを取り出そうとするが、右手が言うことを聞かない。痺れて指先の感覚がない。左手でポーチに手を伸ばす――その動作すら遅い。体の反応速度が落ちている。
ヴェノムキャタピラーは俺を狙って再び迫ってくる。
逃げなければ!
俺は立ち上がろうとして、足がもつれて転倒した。膝を地面に打ちつける鈍い痛み。毒が全身に回り始めている。足にも痺れが広がっているのが分かる。
「くそっ……!」
這うようにして距離を取る。視界の隅で、巨大な毛虫が迫ってくるのが見えた。あと数秒で追いつかれる。
震える左手でようやくポーチの蓋を開ける。痺れて感触が良く分からない。指先に何も感じない。キュアポーション――どこだ。焦りで呼吸が荒くなる。
ヴェノムキャタピラーの巨体が視界を覆う。もう目の前だ。
指先が何かに触れた。グミのような感触。これだ。
俺は残った力を振り絞ってキュアポーションを掴み、口元へ運ぶ。手が震えてうまく口に入らない。もう一度。ようやく口の中に放り込む
その瞬間、ヴェノムキャタピラーが俺に覆いかぶさろうとしてきた。
体を横に転がす。巨体が俺のいた場所に落下するドスンという音。間一髪だった。
キュアポーションの効果が急速に全身に広がる。痺れが引いていく。指先の感覚が戻る。足に力が入る。
俺は跳ね起き、落とした木刀の場所へ全力で走った。木刀を掴み、振り返る。
ヴェノムキャタピラーは体勢を立て直し、こちらの様子を窺っていた。
息が上がっている。心臓が激しく鳴っている。汗が目に入って視界が滲む。
まずい。本当に死ぬところだった。
こいつは一対一で戦うべき相手ではなかった。これまでなんだかんだ階層主戦では勝ってきたので、油断していた。毒というギミックの恐ろしさを、俺は完全に甘く見ていた。
このまま戦いを続けたとして、キュアポーションは残り一個しかない。もう一度毒を受けたら、今度こそ逃げられないかもしれない。
……悔しいが、今回は俺の負けだ。
俺は木刀を構えたまま、じりじりと後退した。ヴェノムキャタピラーは動かない。俺が逃げることを察したのか、追ってこなかった。
入口に手が届く距離まで下がり、俺は一気に扉から飛び出した。




