願いを叶える屋台
人の狂気が溢れた瞬間を見たことがある人はそう多くないだろう。
俺はその瞬間を見た。
朝礼で隣に立って居た岩本が奇声を上げて支店長に飛びかかったと思えば次の瞬間には見事な右ストレートを入れたのだ。
支店長は一瞬呆気に取られた様だが、すぐに冷静になって岩本を殴り返すと今度は取っ組み合いが始まったのである。
俺を含めて他の連中はその光景に開いた口が塞がらなかったのだが一番最初に我を取り戻したのは同期同僚の神崎だった。
神崎は即座に二人を引き剥がし、周りの同僚がそれぞれを別室に連れて行きその場は収まった。
ただ、ケタケタと笑い声を上げながら引き連れられて行く岩本は完全に正気を失っていた様に見えた。
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仕事上がりに声をかけて来た神崎に居酒屋に誘われ、そこで聞いた話に俺は思わず驚いてしまった。
「うそだろ⋯⋯お咎めなしって」
あれから一ヶ月。
支店長は岩本を訴えなかった。と、言うより訴える事をやめたのだ。
「沢山あったからね。パワハラ、モラハラ、アルハラ、セクハラ⋯⋯ハラスメントのデパートやあ」
指を折りながら神崎はいまいち寒い口調で続ける。
あの事件後、当然と言えば当然の話だが社内はこの話題で持ちきりとなった。
怒り心頭の支店長は岩本を訴えると息巻いていたが会社の総務と法務には支店長から受けたの数々のハラスメントの相談が多くされていたらしく岩本を訴えると同時に全てが表沙汰になると告げられ一気に顔色をなくしたのだとか。
「支店長はあれから人に怯えるようになって移動させられた先で独り言をブツブツ言うだけで使い物にならなくなってるってその部署の子が言ってたわ。岩本くんは⋯⋯精神的に参ってるって診断が出て休職ね」
「確かに支店長のハラスメントは度が過ぎたものがあったし岩本は特にパワハラの標的になっていたけどさ」
「岩本くん、相談窓口に何度も相談してたのよ。彼だけじゃなくハラスメント被害を受けた人はほぼ全員」
「まあ、被害が上がっても会社は「聞く」だけだもんな」
世間や会社がハラスメントを問題視し、相談窓口を設置したり対策を強化してもそんなものは外部、特に株主へのパフォーマンスに過ぎない。
ましてサラリーマンは会社に尽くすもの、役員の言葉は絶対正義、上司には絶対服従をあの手この手で分からせられる。
その洗脳の賜物が先程のハラスメントのデパートと言うわけだ。
「会社もハラスメントの相談を受けていたのに対応していなかったなんて総批判ものよ」
「それでなかった事にするわけだ」
支店長のハラスメント。岩本の暴力。両方大問題。裁判になれば会社の醜聞となりイメージダウンに繋がる。
それを恐れて隠蔽を選んだのか、あるいは最初からそのつもりだったのか。いずれにせよ被害者からしたら堪ったものではない。
「両方会社に残しているのは自主退職を待ってるのよ。ほとぼりが冷める前に騒がれないように。今は呟いて大炎上待ったなしのツールがあるんだから」
そう言ってスマホの画面を見せて来た神崎のお局眼鏡が光った。
「これ、岩本くんのSNS」
「は? これが? 名前も口調も違うだろ」
「馬鹿ね、変えるのは当たり前でしょ。SNSで本名だったりビジネスネーム使うわけないじゃない。そんな事するのは著名人とか芸能人とかベンチャーの社長とか成功した輝かしい生活を羨ましがられたい人種くらいよ」
「その思考はかなり捻くれてるけどね」
「いいから、ほら見て」
そう言って再度差し出された画面を見る限りどう見ても別人が書き込んでいるように見えるがどこで岩本だと分かったと言うのか。
「ここよ。「今日もSの奴から死ねと言われた。お前がお気に入りの女を昇格させようとして推薦した結果目論見が外れて労基がきた鬱憤を俺で解消するな」ね、これ支店長が本林さんを主任にしようとして推薦状書いたけど昇格調査で彼女だけ残業がやたらと多いとかサービス残業してるとか有給消化がされていないとかが発覚して労基が入った時の話でしょ?」
「⋯⋯こんなのよくある話だろ。下っ端サラリーマンは上司の好き嫌いで振り回されるもんだし」
「これだけじゃないわよ」
スイスイと操作する画面に出るわ出るわ愚痴の大洪水。
提出書類を無くされた。自分がいなかった現場のミスを被せられた。いつ辞めるんだ、いつでも辞めさせられるんだと言われた⋯⋯等々。
神崎は「これは支店長がわざと書類を隠した時、これは支店長が本林さんのミスを岩本くんになすりつけた時、これはほとんど毎日岩本くんが言われていた事」だと、まあよく見ている。さすがお局様。
いや、ここまで来ると神崎に恐怖を感じる。
「ストーカーの素質があるんじゃないか」
「失礼ね。そんな事よりちょうど岩本くんが支店長を殴る一日前に呟きが止まって、最後がこれなの」
──仕事の帰りにいい感じの屋台を見つけた。なんかスッキリした。明日俺はヤレル⋯⋯ゼッタイヤッテヤル、ミチズレダ──
ゾクリとした。
最後の意味不明の言葉もだが、最後の書き込みが何故か岩本の声で再生された。
そう言えばあの日、岩本は「やったぞ! 道連れだ」と焦点が合わない目で叫んでいた。ブワッと鳥肌が立ち寒気が走る。
「ま、まあこれが岩本のだとしたら追い詰められていたって証拠になる⋯⋯よな」
「そうね。うん、証拠になる。さて帰ろうか。これ私の分ね」
やけにあっさりと引いた神崎に少し違和感があったが、ビールの残りを一気に飲みきりきっちり割り勘分を渡して来た勢いに流されて俺はただ頷いた。
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「あっ! 野村ちょっとこっち来て」
次の朝。出社すると妙に騒がしく、オフィスに入るなり目元を腫らした神崎に非常階段へと強引に連れ出された。
「これ見て」
突き付けられたスマホの画面に映っていたのは昨夜岩本のものだと見せられたSNS。
なんの書き込みもなくただ真っ暗な写真が投稿されていた。いや、微かに見えるのは二つの人影?
「これなに?」
「⋯⋯支店長と岩本くんだと思う。今朝遺体で発見されたって」
「え!?」
その声が震えているのは気のせいではないはずだ。
神崎が言うには二人は互いの手と足をネクタイで結んだ状態で近くの海岸で遺体となって発見されたらしい。
「早朝から警察と本社の人が来てるのよ」
「そ、それで?」
「二人が揉めていたから揉めた挙句の事故か、まさかの心中かって⋯⋯私、このSNS警察に見せてこようと思って」
「あ、ああ。それが岩本のでなかったらよくある話で終わるけど、岩本のだったら⋯⋯ハラスメントの証拠になって⋯⋯会社も隠せなくなるな」
「こんな会社批判されればいいのよ」
「えっ?」
「何でもない。私、行ってくる」
くるりと背を向けた神崎の不穏な言葉。
誰だって会社に不満はあるものだと常日頃言っている神崎らしくなかった。
「あれ? 野村くんどこ行ってたの」
「ちょっとね」
「ふうん。ねえねえ、支店長と岩本さん心中なのかな」
「いや、俺には分からないな。支店長は岩本をターゲットにしてたし」
「そうだよねえ。支店長岩本さんのこと辞めさせるっていつもいってたもん。あーあ支店長いなくなって私の出世どうなるんだろ。いろんな仕事請け負ってた私を評価してくれたの支店長だけだったのに」
本林の言い方にイラッと来た。
この子はこう言う子だ。会社規定で残業や有給消化が厳しく指導されても自分だけは許されると思っている。
他にも神崎とか事務員がいても絶対に仕事を取られたくないと誰よりも早く来て一番最後に帰る。
それもこれも支店長が気に入っていたから残業が多い、休まないのは有能だと評価されて来たからなのだ。
本林は目立つ仕事は自分のもの。全部を知っていたい、中心にいたいタイプだ。
ただ、それだけ仕事が好きなら勝手にさせておけば良いだけだ。
労基が入ろうとも会社がそうさせているのだから。
「新しい支店長は残業するな有給消化しろってうるさいんだもん」
「まあ、会社の決まりだから」
「あーあ私の頑張りを正当に評価してくれたの前の支店長だけだったなあ」
むくれる本林に苦笑する。
考えが違う相手に何を言っても無駄だ。
結局この日は警察の聞き取りやお客様対応で仕事にならず、あっという間に一日が過ぎた。そして帰り際、また神崎から誘われたのだった。
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誘って来たのに神崎は駅前の店に入らず住宅街へとどんどん進んでいる。
キョロキョロと辺りを見回し、角では覗き込んでから行く方向を悩んでいる仕草。
「なあ、この辺は住宅街だぞ」
「んー。あ、あそこかな。ぼんやりと明るい」
「おいっ」
「今日は屋台にしよう」
神崎が指差した先、空き地の所がぼんやりと明るかった。
それはおでんの屋台。
「おやじさん、ビールと適当に盛り付けて。それから⋯⋯私達の話はお願いするまではただの雑談だから」
「へいっ。お願いをお待ちしてます」
変なやり取りだと神崎を見れば当然だと言う表情でビールのジョッキを掲げ乾杯を促して来た。
「なかなかいい屋台だな。よく知っていたな神崎」
「岩本くんに教えてもらったの」
俺はギョッとして神崎を見返してその笑顔に言葉を失った。
「私、岩本くんと付き合っていたの。年下で後輩だけど一生懸命で真っ直ぐで。ちょっと弱くて。その代わり私が強くなろうって」
「それは気付かなかったな」
「絶対に察せられない様にしていたもの。岩本くん、会社にバレたら私まで支店長に嫌がらせされる。そんなのは耐えられないって」
「そうか⋯⋯。俺に見せたSNSが岩本のものだって知ってた?」
「うん。ごめん。岩本くんが入院してからSNSがあるのを知ったの」
どこを見ているのか神崎は俺の背後を見続けながらその思いを話してくれた。
「復讐を考えたけどただの事務員のそれも長いだけのお局の私にはなにも思いつかなくて。野村にSNSの話をしたのは岩本くんがこんなに耐えていたって事を知って欲しかったからなの」
「岩本が耐えていた事⋯⋯知っていたさ。俺も何もできない、会社なんてサラリーマンなんてそんなもんだって⋯⋯自分がターゲットにならないようにって⋯⋯酷い奴だな俺」
「誰だって自分の身を一番に考えるものよ。私は野村を恨んでなんかいない。だって野村は嫌がらせを受けた岩本くんをいつもフォローしてくれてたじゃない」
それは支店長の嫌がらせがあまりにも酷かったから。表立って庇えない卑怯なやり方だったけれど見ていられなかった。
「昨夜、岩本くんから別れようって。すぐに電話したけれど繋がらなくて。病院の面会時間になったら岩本くんの所へ行こうと思っていたんだけど」
俯いた神崎をどう慰めて良いのかわからない。俺はただひたすらおでんの盛り付けが冷めてゆくのを眺めた。
「今朝、起きた時岩本くんから新しいメールが来てて、支店長を道連れにする。神崎さんは幸せになってくれって」
神崎の涙笑顔がやけに⋯⋯怖い。
「そのメールに空白があって下までスクロールしたらこれが⋯⋯」
岩本からの最後のメール。
俺は見たくないのにこの目は文字の羅列をなぞってしまった。
──俺が願った屋台⋯⋯もし、帰り道、おでんの屋台を見つけてもそこで復讐なんて願わないでくれ。その願いは同じものが自分に返ってくる。
俺は支店長の死を願った──
じんわりと汗が滲む暑さなのに背筋が凍えた。
そんな事があるのか。そんな屋台があるのか。
おでんの湯気の向こう側にいるおやじさんに視線を向けると彼はこちらの会話なんて全く聞こえない様にチビチビとカップ酒を口にしていた。
「こ、この屋台が岩本の言っていた屋台?」
「そうだと思う。私、今日色々調べたの。そしたら今噂になってる願い事を叶える屋台の話が見つかって⋯⋯それは仕事や学校の帰りにしか現れない。普段使わない帰り道を使った時に見つかる。願い事は自分に関する以外の事って」
「屋台が願いを叶えるなんて非現実的な⋯⋯いや、駄目だろ願い事するなって岩本は言っていただろ?」
「私はお願いしたい。支店長は岩本くんが⋯⋯もう一人は私が道連れにするわ──おやじさん、お願いがあるの」
「神崎!」
神崎は決めていたのだ。俺の制止なんて聞くわけがない。
顔を上げニンマリと笑うおやじさんに神崎は願い事を告げた。
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祝福の拍手と祝いの言葉を受けて神崎は幸せそうに微笑んでいる。
そして、もう一人。
それは本林。
しかし、神崎とは反対に貼り付けているかの様な作り笑いの表情だ。
「二人同時に寿退社だ。支店の華が減るのは残念だが旦那様と協力して幸せな家庭を作ってください」
「支店長、今の時代女性は華だとかの例えはハラスメントになりかねませんよ」
「や、これは失言だった。すまん」
「いいえ、嫌な気持ちにはなりませんでした。ここに居た期間、華を愛でてくれた思い出が⋯⋯浮かびませんね」
余裕の笑顔で返す神崎に支店長と同僚達に笑いが起きた。
ふと神崎と目が合う。俺は神崎が嬉しそうな顔をしているだけで良かったと思うように努めていた。
三ヶ月前、不思議な屋台で俺は神崎の本心を聞いた。
信じられないが岩本はその屋台に前の支店長の死を願い、その支店長と心中した。
恋人だった神崎はもう一人復讐したい相手がいるとその屋台で願ったのだ。
「私ね、本林さんを恨んでる。だって、あの支店長と一緒に彼を笑っていたんだもの。それに、本林さんは自分のミスを岩本くんになすりつけた。それなのに支店長と一緒に岩本くんを責めたのよ。仕事の量だって抱え込み過ぎて回らなくても絶対に手放さないから私達が仕事を押し付けているって言われていたわ。ほら、うちの会社って相対評価でしょ。私、岩本くんより全然軽いものだったけれど本林さんを高評価にする為、毎回社内評価最低だったのよ」
屋台のおやじに願いを告げた後、神崎が明かしてくれた胸の内。
常に「会社はそう言うもの」だと言っていたのは自分に言い聞かせていたのだ。
「岩本くんは願った事が自分にも起きるって言っていたわ。本林さんには耐え難い、けれど私は耐えられる願いで復讐するの」
──それが寿退社か。
神崎が願ったのは「本林さんが都会から離れた土地で仕事を辞めて家庭に入ってくれと言う相手と結婚して添い遂げる」。
時代錯誤な考えなのだろうが、神崎は岩本と結婚したら仕事を辞めて自分は時間ができたらパートに出ようと考えていた。
それは極々平凡な願い。
「だって、本林さんは多くの他人に見える形で評価されたいのよ。例え家庭と言う狭い世界で評価されても満足しない。ただ、それを嬉しいと感じる様になれば彼女も幸せになれるかも知れないでしょ」
憎い奴が幸せになる可能性がある復讐で本当に良いのかと聞いた俺に神崎はそう言った。
俺には理解できなかったが彼女がそれで納得できるのなら何も言えなかった。
「耐えられるなんて言ったけど私は岩本くんの最後のお願いを叶えるわ。幸せになる。私は、私を見てくれる。それだけで嬉しいし、幸せなの」
神崎が見せた笑顔が忘れられない。その笑顔に幸せになれよと俺は願った。
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元支店長と岩本の死。会社のハラスメント隠蔽、神崎と本林の寿退社。
会社は暫く大騒ぎだったが時間が経つにつれて皆、日常へと戻っていった。
「お先に失礼します」
俺は仕事の帰り道を普段使わない方角に変えて歩き始めた。
俺は確かめたいと思ったのだ。
普段とは違う風景、見慣れない店。1時間ほど歩いても目的のものは現れない。
「そりゃそうだろな」
支店長は岩本に恨まれ過ぎていた。
神崎は元々実家から見合いの話が来ていたとか、本林も元々付き合っていた地元の奴と結婚したとかだろう。
それぞれの因果が絡まっただけ。
「願い事を叶える屋台なんて無かったんだよ」
何かに縋らなくてはならない程疲れている人々の作り出したオカルトだ。
そんなオカルトを俺は信じようとしていたのだと自嘲しながら向きを変え帰り道を急いだ。
見慣れた風景、もう直ぐマンションが見える曲がり道に差し掛かった時だった。
「⋯⋯え」
マンション前の幹線道路。その反対側に見えたぼんやりとした明かりを灯す屋台に悪寒が走った。
「⋯⋯願い事を叶える⋯⋯」
ふと、頭に取引先の担当者の嫌味な奴が浮かびふらりと俺の足が屋台へと向かう。
暖簾に手を掛けかけて俺はその手を下ろした。
神崎が言っていた願いを叶える屋台の話。
願い事は自分に関する以外の事。それは相手がいて成立する願いである事。
そして岩本は言っていた。
その願いは同じものが自分に返ってくると。
それはまるで願いを叶えると言うより呪いだ──。
「⋯⋯いや、やめておこう」
願い方を間違えたら同じものが俺にも返ってくる。俺には神崎の様な願い方が出来る気がしない。
「あ、もしかしてここじゃない?」
「きっとそうだよ! 早く入ろう」
「ねえ、ユーコの願い事って何?」
「えーそれは聞いてのお楽しみ」
二人の女性が俺の代わりに屋台の暖簾をくぐり俺は振り向きたい気持ちを堪えた。
「あのーここって願い事聞いてくれるとかって言う屋台?」
「へいっらっしゃい」
「えっと、人の彼氏を寝取った女の顔に一生消えない傷が付きますように! あたし、あんたを許さないからね」
「⋯⋯え?」
歩行者用信号が青になる。
その時だ。強風に煽られ俺は思わず信号機にしがみついた。
同時に女性の悲鳴が上がり、風がおさまって辺りを見回すと、俺の目の前についさっき入れ違った二人の女性がどこから飛んできたのか剥がれた看板の下敷きになって倒れていた。
「大変だ女性が巻き込まれた!」
「救急車を呼べ!」
「どこから飛んできたんだコレ」
真っ白になった頭に集まった人の声が響く⋯⋯あの屋台は忽然と消えてしまっていた。