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「悟志君?…悟志君!」
飯近様の奥方は賀口様の姿を見ると、飯近様の腕にもたれかかるようにしていた腕を抜き、賀口様へとふらふらとした足取りで近寄り触れようとする。
「きゃっ」
ドサリという音を立てて飯近様の奥方が倒れる。
賀口様が触れようとし手伸ばされた腕を、力を込めて払いその体を強く押したためだ。
「痛い…悟志君どうして?悟志君どうしてこんな意地悪するの?私ずっと悟志君を待ってたのよ。ほら、もう妊娠してないから前みたいなスタイルに戻ったでしょう?話したいことがいっぱいあるの。あのね」
「煩い」
「え…?」
「京一郎が愛している女だから少し遊んでやっただけで我が物顔か?これだから頭のおかしい女は厄介だな」
「なにいってるの?」
「君は鏡を見ないのか?今の姿がスタイルがいい?醜いの間違いだろう」
「意味が」
「ああ、日本語も理解できなくなったか?やっぱり精神科に移して正解だったな。待遇も君にふさわしいものだっただろう?」
「………あの女たちや男たちが言ってたのは本当の、ことなの?」
「当たり前だろう?そうでなければうちの病院であんな待遇になるわけないだろう」
「…っ!ふざけんじゃないわよ!この私をあんな目に合わせてただで済むと思ってるの?」
「思ってるけど何か」
倒れ座り込んだままの体勢で飯近様の奥方が顔を紅潮させ叫ぶ。
「今の君に何がある?美貌もない、処女でもない、ブクブクと太った体に老婆のようにガサガサな肌。親との縁も切り、篠上との縁を切り、子供との縁を切り、家を売り払い、貯金もない君が何を言っているのかわからないな」
「は?」
「君自ら書類にサインと拇印を押したんじゃないか。コピーもスキャンデータも確認したじゃないか。あの時のことはしっかりとボイスレコーダーにも部屋の監視カメラにも写ってる」
言われたことがわからないのか、飯近様の奥方が顔を歪める。
飯近様に婚姻届けを半ば詐欺のように提出されたのに、またよく確認せずにサインをしたのだろうか。
「……はあ?なにてくれてんの?そんなのにサインなんかしてないし!だましたわけ?この私にこんなことして、こんな目に合わせて…サイテー。もういらないわよ。あんたなんか死ねばいいのに!」
そう叫ぶ飯近様の奥方をクスクスと賀口様は笑ってみる。
そんな賀口様をじっと見ていながら何かを考えていた飯近様の奥方の表情がふいに笑顔になる。
「あーそっか。ふふふ、そうよね。史様ルートだもん、他の人が私から離れていくのは仕方がないわね。ねえ史様私を抱き上げて?それで手のひらにキスして手首やうなじや首筋にキスマークをいっぱい残すの。史様の所有印をいっぱいつけて」
「は?」
「遠慮しないでくださいよ。このドレス、私ちゃんと着てきたでしょう?史様のものになったっていう証でしょう」
「賀口様。この女を精神科に収容したのはいい判断だったな」
「そうでしょう?苦労したんですよ、いろいろと」
「そうだろうな」
あら、と彩愛は思う。賀口様へのとげが随分と消えているように見える。
飯近様の奥方の迫力で賀口様へのとげが飛んで行ってしまったのだろうか。
「ねえ無視しないで?」
そう言って立ち上がりゆらゆらと史お兄様に近づいてくる飯近様の奥方の向こうに、狂っているような美しい笑みを浮かべる飯近様が見える。
「近寄るな」
私の肩に添えている手と反対側の手で近づいて抱き着こうとした飯近様の奥方を払ったからかはわからないが、彩愛の少し斜め前に倒れこんでくる。
史お兄様は彩愛を連れて一歩下がり、冷たい視線を飯近様の奥方へ向ける。
「お前のような女を誰が選ぶ?お前のような女に誰が触れたいと思う。俺の婚約者は彩愛だけだ」
「彩愛……史様可哀そう。このガキのわがままを聞かせられてるんですよね。知ってるんです神様にいって史お兄様を無理やり自分の婚約者にしたんでしょう?このガキのことを妹としか思ってないのに無理やり婚約させられて本当に可哀そう」
「お前何を言っているんだ?」
「大丈夫ですよ。そのガキはすぐに史様の前からいなくなりますよ。だってそのガキは神様への供物になって死ぬんですから」
ざわり、と会場の空気が揺れた。




