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休日のレッスンの合間、着替えのため部屋に戻ると珍しい方がいらっしゃった。
「治癒の神、お珍しいこと」
『うむ、息災のようだな』
「ああ、先月はお力を貸していただきありがとうございます。お礼が遅れて申し訳ございません」
『よい。気にするでない』
そう言って治癒の神は彩愛を自分が座っているソファに手招きする。
誘われるがままにソファに座ると抱えあげられて、ソファの端のほうに移動させられる。
首をかしげながらも居住まいを正す彩愛の膝に、ソファに横になった治癒の神の頭が乗せられる。
「あら、まあ」
『すまぬの、母御の心を治癒してやれず』
「しかたがありませんわ。だって心は流石の治癒の神にも治すことは出来ないのでしょう?」
『ああ、病や外傷なら治せるがの。寿命や心は我にはどうしようもない。彩愛の母御にしてやれることと言えば、体調をよくすることぐらいだ。それも心が病に侵されれば意味はない』
「そうですの」
『死や再生、生命を司るものであればまた違うだろうが、心はどんな神であっても扱いづらい』
治癒の神はそう言って深くため息を吐く。
『今も昔も、思うようにいかないものだ』
「昔ですの?」
『お前に初めて会った、彩愛と出会う前のことだ』
何か不思議なことを言われた気がするが、彩愛は何も言わず治癒の神の深い緑色の髪を撫でる。
「私自身は治癒の神がいなければ、いろいろ大変なことになっていたのではないでしょうか?」
誘拐されかけたときの怪我や、はやり病などなど、8年しか生きていないが良家の長子としていろいろなことがあった。
『私にできることがあれば、出来る範囲の中であればどのようなことでもしてやろう。彩愛は我らの最愛なのだから』
「ありがとうございます」
『我も彩愛を愛しておるぞ』
その声と共に、彩愛の髪を手に取り唇を落とす神を振り返れば、そこには美の神がいた。
『何をしに来た』
『美しい髪飾りが出来たのでの、彩愛に贈ろうと思うて参った』
『変なことはしておらぬだろうな』
『今回は火の神が見張っておった故、何もできなんだ』
「見張ってなければ何かする気でしたの?」
『魅惑の効果を付属させ、男性を虜にさせるような香りをつけ、彩愛をより美しく見えるような効果をつけようかと思っておった』
なんというものをつけようとしていたのかと思わずため息を吐いてしまい、治癒の神の顔にかかってしまう。
「申し訳ありません、治癒の神」
『構わぬ。美の神の頭のおかしさはいつものことじゃ』
『ひどいの』
美の神はそう言って彩愛の髪をほどき、南天の髪飾りを加えながら複雑に結い上げる。
「……美の神、そのような効果をつけた装飾品や香水などは以前おつくりになったことはございますの?」
『ずっと昔に作ったことがあったの。だが気に入らなんだ故捨てたか下賜したの』
「それはどういったものですの?」
『爪紅じゃな。色味が気に入らなんだ』
爪紅、確か飯近様の奥方は妊娠前はいつもマニュキアを塗っていなかっただろうか?
色まではよく思い出せないが、統一してピンク系統だったはずだ。
「色はどのような色ですの?」
『淡い桃色にする予定だったのじゃが調合をまちごうてな、濃い色になったの』
「誰かに差し上げたとか、そういったことは?」
『なんじゃ?彩愛はあのような色が良いのか?お主には淡く美しい桃色が今はよく似合うぞ』
「いえ、そうではなくて…」
『それにあれは300年ほど前じゃ。はたして残っておるのかの』
300年前。それならば、飯近様の奥様が手に入れているわけがないと彩愛はほっとする。
『厄介なものなうえ対処も適当とはの。お前その頃は花街の女どもを気に入ってみておっただろう』
『うむ。確かその時加護を与えていた娘が欲しいと言って作ったのじゃが……ああ、そうじゃ。あの時のかむろにやったのじゃった』
「花街のかむろですの。それなら今残っている可能性は確かにありませんわね」
彩愛の言葉にそういえば、と美の神はまた思い出したように言う。
『あの狂った美の持ち主の妻になった女。あれがしておった爪紅にそういえば我の力を感じたの』
さらりという美の神に彩愛は愕然とする。
『まあ、我はあのような醜悪な者めほとんど目にも入れたくない故、気のせいかもしれぬがの』
もし本当に美の神の作った爪紅を飯近様の奥方が持っているのなら、昨年度から起きている様々なことは、美の神のせいなのかもしれない。
そう考えると、彩愛は頭が痛くなってくるような気がした。