079
「ねえ悟志君!私もういやっどんどん体形も崩れてきてて…」
「落ち着いて、ね?」
「やだやだ。もういやなの。お腹の中の子供どうにかしてよ」
「でも、妃花はもう中絶できる時期を過ぎてる」
人の声が聞こえてうっすらと目を開ける。
何か、とても嫌な夢を見た気がするが覚えていない。
目を開けて見えた天井は確か医務室のものだったはず、と考えて「ああ、確か食堂で…」ととても小さな声で呟く。
「そんなっ。どうにかできないの?私、私京一郎君に無理やりっお、おかされ…それに結婚までっ」
「落ち着いて、ね?俺が傍にいてあげる。子供のことも…今中絶したら妃花の体が危険だよ。だから我慢して」
「でもっでもお腹の中で動いてっ気持ち悪いわ!」
聞こえてくる声に心臓がどくどくと早鐘を打つ。
母親が、授かった子供の死を願うなどあってはならない、あっては、いけないことなのだ。
手がどんどんと冷えていき、全身の血の気が引いていくのがわかる。
「胎動が始まったんだよ」
「いやっいやよ。怖い悟志君」
「大丈夫。でも本当に妃花の体が心配なんだ。だから自分を傷つけるようなことを言わないで」
「でもっもし本当に京一郎君の子供だったら、私もうっ死んじゃいたい」
「調べてみようか?」
「っ!い、いいの。そんなことしなくていい」
「でも不安なんだろう?無理やり犯された京一郎の子供で、挙句の果てに妃花は戸籍上は京一郎の妻だ。子供までできたらあいつは絶対に妃花を離さないかもしれない」
「ひっいやよ。いやっ悟志君助けて」
「いいよ。幸い京一郎はうちの病院に入院してるからね。このままずっと病院に閉じ込めておいてあげる」
「本当?ああ、あとでその書類を作って持ってきてあげる」
「嬉しい。……ねえ悟志君、抱きしめて」
「いいよ。お望みのままにお姫様」
彩愛はガンガンと痛む頭に手を置く。冷え切ったてが余計に頭痛を悪化させる気がしてすぐさま離す。
なんていう話を医務室でしているのだろうか。
飯近様と一緒だった時にあんなに穏やかだった賀口様の言葉とは思えない。
それにしても、彩愛にまで聞こえてくる声で話すなんて、それもこんな非常識な会話をするなんて信じられない。
保険医はどこにいるのだろう。枕元にあるコールボタンを押すとしばらくして足音が聞こえカーテンが開かれる。
「皆森様、お加減はいかがでしょうか」
「頭痛と、血の気が引いたような全身の冷えを感じます」
「頭痛はどんな感じですか?後頭部が痛みますか?前頭部が痛みますか?」
「えっと……こめかみから額にかけて、でしょうか」
「なるほど」
言いながら保険医が何かカルテのようなものに書き込んで彩愛を見てくる。
手にしていたボードをベッドサイドの棚に置き、彩愛の額に手を当ててくる。
同じ冷たい手でもこの手は気持ちがいい。
「熱はないようですね。……ああでも本当に手が氷のように冷たくなってますね。…………もし動ける、いえ、抱えて移動しても大丈夫でしょうか?」
「はい」
彩愛が小さく頷いたのを確認して、保険医は彩愛にボードを渡し、持っておくようにと言って彩愛をゆっくりと横抱きにする。
カーテンをくぐり分かったのは彩愛がいたベッドは部屋の中央付近にあるもので、おそらく賀口様達がいるのはカーテンの閉められている三つ離れたベッドだろう。
今こうしていても先ほどよりずいぶんと小さくなったが声がする。
保険医はそのまま部屋を出て、歩いていく。
「どちらに行くのでしょうか?」
「一階の医務室です。空きが出来ましたので移動いたしましょう」
「先ほどはいっぱいだったんですの?」
「夏休み中の疲れが出た方や、熱中症になった方が何名かいらっしゃいました」
「そうですの」
医務室は学園全体で一つしかないが、その分ベッド数は多くなっている。
一階二階は一般用のベッド、三階は急患用の簡易医療施設とその患者用のベッドがある。
一階の医務室に行くと、そこはすべてのカーテンが開けられている。
保険医は窓際のベッドに彩愛を寝かせ、布団をかけた後に隣のベッドからもう一枚布団を持ってきてかけてくれる。
「あの、先生。飯近様の奥方は…」
「ご心配なく。少しお腹がはってしまったようですが出血もないので安静にしていれば問題ありませんよ」
「そうですの」
それを聞いてほっとする。
「本来なら別の部屋にすべきでしたのに、同室にしてしまい申し訳ありません」
「いえ、かまいませんわ。ベッドが埋まっていたのでしたら仕方がありませんもの。ところで今はいつごろでしょうか?」
「ちょうど初等部の授業がすべて終わるころですね。ご家族の方へは連絡済みです、すでにお迎えの方がいらしていますが、このままご帰宅なさいますか?」
「え、ええ……そうですわね」
「かしこまりました」
保険医はそう言ってベッドを離れていく。
家族に心配をかけてしまったと、彩愛は心苦しく思う。
お母様の体調はまだ悪く、ベッドから起き上がれない状態だ。
お父様はお母様につきっきりで、弟には乳母がつきっきりになっている。
それでも使用人たちの神経がピリピリしているのは事実だ。
負担をかけてしまった。ずっとそうならないようにしていたのに、これでは台無しだとため息が出る。
『何を憂う?我が姫』
「まあ、火の神…」
ふいにベッドに腰掛ける存在の気配を感じたとおもったら、真っ赤な波打つ髪を三つ編みにした雄々しい火の神が座っている。
『我が姫はいつも他人のことばかり。わがままを言ったかと思えばそれもまた微妙なものだ』
「そうでしょうか」
『そうだとも。我が姫はもっと我がままになればよい。水の神が羊水の頃より守っていた我が姫は謙虚すぎるのだ』
「そんなことありませんわ。史お兄様を縛ってしまうようなことを言ってしまいましたもの」
『ふん。それがあやつの望み故気にすることはない。所有印など残して、我らへの牽制でもしているつもりか』
「所有印?」
『ああ、我が姫は気にすることはない。いくら所有印をつけようとも治癒の神にかかればすぐに消える』
そういえば治癒の神の姿が見えない。彩愛が具合が悪くなったり怪我をした場合すぐさまやってくるのだが。
『あやつは加護を与えておらぬ人の子に力を使ってのこの部屋を開けた後、彩愛の症状は精神的なものだから出番がないと言っておった』
「精神的?」
『母が子を否定する言葉に反応したのであろう』
「っ……そう、かもしれませんわ。私が習った常識とはあまりにも違うので、驚いてしまって」
『……そうだの。体が冷えておるゆえな、我が来たのだ』
そういえば先ほどから布団の中が程よく暖かくて気持ちがいい。
『迎えが来るまでこうして傍におる故、今しばし休むといい我が姫』
そう言って火の神の手が彩愛の目の上に置かれる。
暖かい火の神の神力がじんわりと入り込んできて気持ちがいい。
そうしていつの間にか彩愛は眠りの世界にいざなわれた。