069
彩愛が出番を終えて史お兄様の仕事の手伝いをしていると、賀口様達の出番になった。
漏れぎいた話によると、飯近様の奥方が控室に入った途端その部屋にあった花が枯れ落ちてしまったらしい。
同室のお姉様方が気味悪がって他の控室に移動を希望したので、少しバタバタとしてしまった。
おそらく花の神のいたずらだとは思うが、他のお姉様方が怖がっていたようなので気を付けてもらいたいと考えつつ、舞台に立った賀口様達を眺める。
演奏が始まり、歌が始まるがその声が聞こえてこない。
去年も同じ状況だったので彩愛は特に驚かないが、舞台袖や会場がざわついているのに首をかしげる。
「歌声が聞こえないな」
「あら…」
どうやら聞こえないのは自分だけではなかったらしいと彩愛は目を瞬かせる。
「口が動いているから歌ってはいるんだろうが…。会場にも聞こえていないみたいだな」
「どういたしましょう?神にお願いいたしますか?」
「いや、このままでいいさ」
「そうなのですか?」
「ああ、イミテーションのメッキが剥がれかけたようなもの、聞きたくもないしな」
何気にひどいことを言っているが、彩愛も似たようなことを想っているので特に何も言わず、字幕を表示する掲示板の操作をするミカルお兄様に視線を移す。
「んー、神の意思により歌唱担当の音声が消されています。これでいいか」
いいのだろうか?と心の中で思わず突っ込みを入れてしまう。
「それにしても、神もなかなかすごいことをするな」
「去年もなさってましたわよ?その時は私個人にでしたが」
「……なるほど」
史お兄様は何か納得したようにうなずき、次の演奏者たちの準備を指示する。
賀口様達の演奏が終わるが、拍手はまばらというかほとんどない。
その様子に飯近様の奥方が顔を引きつらせるが、瞬時にかわいらしい笑みを浮かべてお辞儀をする。
だが、と彩愛は目を細める。
何も最敬礼をしろとは言わないが、せめて敬礼はしてもらいたいところだ。ただ軽く頭を下げただけで顔を上げた飯近様の奥様に拍手もまったくなくなってしまう。
今度は顔を引きつらせずに、どこかすねたような表情で彩愛達のいる下手にやってくる。
飯近様の奥様の腰には賀口様の手が添えられている。妊婦を思いやっての行動と思えば素晴らしいが、先日の会話を聞いてしまっては素直に受け止めることはできない。
「水上様!私の歌聞いてくれました?」
「ここは舞台袖だ、騒がしくしないでくれ」
「っ!ご、ごめんなさい。そうですよね私ったら…」
そこでやっと彩愛の存在に気が付いたらしく、笑みを消して睨みつけてくる。
「やだぁ、どうして皆森ちゃんがここにいるの?水上様のお仕事の邪魔しちゃだめじゃない」
そう腰に手を当てて言われると、史お兄様の背中に隠される。
「彩愛は俺の手伝いをしてもらってる。邪魔だというなら君達こそ早く控室に戻ればいいんじゃないか?」
「お手伝いなら私がしますよ」
「妊娠中の体に何かあっては困るのでね。賀口様、連れて行ってくれ」
「もちろん。さあ行こうか、妃花」
「悟志君まって、ちょっ水上様っ私!」
飯近様の奥方は史お兄様に何か言いたそうに手を伸ばすが、賀口様にその手を押さえられつれていかれてしまう。
舞台上では次の演奏者が先ほどのことなの何もなかったかのように演奏を始めた。