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「ねえお願い。私がんばるから」
彩愛達が音楽堂に向かう途中、もはや聞きなれた甘えるような声に顔を見合わせる。
進行方向の横にある生け垣を見れば、そこには飯近様の奥方と賀口様がいた。
生け垣の都合というか、身長の都合でこちらのことにはまだ気が付いていないらしい。
彩愛達は気配を殺して足を進める。
「ね、文芸会で去年みたいに舞台に立ちたいの。京一郎君は入院中だけど、ねえ悟志君お願い」
「いいよ。先生には伝えておくよ。ああ、君の歌声がまた聞けるなんて夢のようだ」
「ふふ、やっぱり悟志君は頼りになるわ」
ちょうど彩愛達が横を通るときに、くぐもった声と濡れた音が聞こえてきて思わず足を止めてしまう。
「ん…去年みたいに、みんなで出ましょう、ね」
「いいよ、金田達にも声をかけよう。妃花を独占できないのは悔しいけどね」
「あっん、でも私が今真っ先に頼ったのは悟志君なのよ」
「ふふ、嬉しいな。飯近のことは任せてくれ、もっと入院期間を延ばしておくから」
「嬉しい。あの人ってば勝手に婚姻届けなんかだして、ひどいんだもの」
「ああ可哀そうに。俺がもっと病院のものに強く言っておけばよかったね」
「悟志君は悪くないわ。悪いのは彼なんだから」
その後も笑い声を衣擦れの音や濡れた音が聞こえてきたので彩愛達は顔を合わせて頷き合うと、先ほどと同じように気配を殺して急ぎ足で音楽堂に向かった。
音楽堂に入ったところで、ほっと息を吐きだし、背後を振り返る。
幸い気が付かれたり追われたりはしていないらしい。
「はあ、まったく信じられませんわ」
「本当ですわ」
「いや、それよりも気になることを言ってなかったぁ?」
「飯近様の入院を長引かせる、といっておりましたわね」
「そうですわね…」
それが本当であれば問題である。
報告をしたほうがいいのだろうか。
「飯近様のご両親にお伝えしたほうがいいのでしょうか?」
「でも、養父母とはいっても名前だけで住まいは別とも聞いていますわ」
「まあ…」
「実のご両親に譲られたマンションの一室で奥方と住んでいると聞きますわ」
「でもその奥方があの様子では…」
彩愛達ではどうすることも出来ないと結論付け、そろってため息を吐く。
「飯近様の奥方は妊娠しているというのに、どうしてほかの方に秋波を送るのでしょうか?」
「結婚が気に入らないということでは?」
「確かに、騙し討ちのような婚姻では納得できないこともあるだろうが…」
「でもお子まで成していながら」
彩愛達は貞淑であれ、そして伴侶に尽くすべきと教育をされているため飯近妃花の行動が理解できない。
「そうですわ」
「どうなさいましたの美琴様」
「あのような方が以前習った遊女というものなのではなくて?」
「あの花街にいるという?」
「えっと確か、複数の殿方のお相手をするご職業の方ですわね」
「なるほど。それであれば納得できる」
「確か殿方に癒しを与えるご職業でしたわね」
「我が学園の卒業者にもそのご職業に就いた方がいらっしゃるとか」
「そうですわ。確か太夫という身分になられたとか」
きっと飯近妃花様もその職業を希望し、今からその修行をしているのだろうと彩愛達は納得する。
それであれば夫や妊娠していても別の異性に秋波を送っても仕方がない。
やはりこの学園に来るからには勤勉なのだろうと彩愛達は結論付けた。




