003 6月
『水面に浮かべた花弁は行く先はどこ
波に揺られ海へ流れつくのだろうか
それともいつこの岸辺に着くのだろうか
風よいたずらに吹かないでおくれ
波よ穏やかであっておくれ
力なき花弁は少しのことで沈んでしまうのだ
神よ どうかお守りください
その力は弱くとも
その美しさは儚くとも
神よ どうかお守りください』
音楽堂に彩愛の穏やかな歌声が響く。
ステンドグラスの光が彩愛を彩り神秘的な空気を作り出している。
ピアノとチェロ、ヴァイオリンの調べは彩愛の歌声を高め音楽堂へと広がっていく。
文芸会本番。彩愛達は練習の成果を遺憾なく発揮する。
集まった人々は彩愛の歌声に、それに添えられる調べに酔いしれる。
いつもの制服とは違い、薄くやわらかな布が幾重にも重なり薄桃色のグラデーションを作り出し、裾が花びらのように広がるプリンセスラインのドレスに身を包んだ姿は7歳とは思えない品格と貫録を持っている。
歌い終わって一拍をおいてのスタンディングオベーション。完璧な笑みを浮かべ、美しいカテーシー後に舞台袖に下がる。
そこでも拍手で迎え入れられ、彩愛達は先ほどとが違った子供らしい照れた笑みを浮かべる。
「流石ですね」
「ありがとうございます梨花お姉様」
彩愛達の一つ前に演奏した高等部のご令嬢で、以前より付き合いがある月影家の令嬢ためお姉様と呼ばせてもらっている人物だ。
現在高等部に在籍している生徒の中では一番格の高い家の息女でもある。
「あれほど素晴らしい演奏であれば神もお喜びになるでしょう」
「ふふふ」
話をしているうちに次の演奏の準備が整ったらしい。
誰もが彩愛の次の演奏であることに同情をするが、舞台の上に上がった生徒は晴れやかな、自身に満ち溢れた表情を浮かべている。
演奏の楽器はピアノとチェロにヴァイオリンと歌と構成が彩愛達と同じものになっている。
始まった演奏はさすが年季が違うというべきか、耳障りの良い滑らかな音が広がっていく。
だが、続く歌声は安っぽいメッキのされた装飾品のようでせっかくの演奏を台無しにしている。
確かに普通であれば上手といえるのかもしれないが、いかんせんこの文芸会は格式の高い家の子女が趣味という名のプライドのぶつけ合いの場である。
メッキ物は場違いなのだ。
「梨花お姉様、彼女が噂の方ですか?」
「ええ、佐藤妃花様です」
「そうですか」
自分の婚約者の浮気相手だというのに、梨花はその顔に笑みすら浮かべている。この様子では婚約者との関係は家のほうでほぼ決着がついているのだろう。
そんな話をしているとふいに歌声が途切れる。
歌はまだ続くはずだと舞台のほうを見てみればまだ歌い続けているようで首をかしげる。
『我が美しい姫の耳に耳障りなものをこれ以上聞かせるのは忍びない』
ふいに聞こえた声に苦笑が漏れる。随分と過保護なことだ。
歌声が聞こえないので耳に聞こえるのは滑らかな楽器の演奏音のみ。
それに耳を傾けながら舞台袖から見える観客席を見てみれば婚約者の磯部和臣と吉賀麗奈、そのほかにも飯田家・野宮家・賀口家の子息が固まって座っており舞台をにらみつけるように見ている。
彼らの確執は吉賀麗奈と篠上京一郎の婚約破棄を機に深いものになっているという。
しかも佐藤妃花が吉賀派の子息に秋波を送っているというのだから、吉賀麗奈はさぞかし面白くないのだろうし、佐藤派の子息も気が気ではないだろう。
「ふふ」
思わず笑いがこぼれてしまう。
吉賀麗奈はちゃんとわかっているのだろうか、恋人ナイトとして扱っている磯部和臣にはすでに彩愛という婚約者がいることを。
磯部和臣はわかっているのだろうか、婚約者は吉賀麗奈ではないということを。
「どうかしましたか?」
「いえ、ただ…。イミテーションは磨けば本物になるのかと思いまして」
「おかしなことをおっしゃるのね。イミテーションはどんなに本物に近くなってもイミテーションのままですわ。ただ、イミテーションとして価値を高めることはできるかもしれませんけどね」
「そうですわね」
これ以上演奏を聴いても過保護な保護者が何かしてくるかもしれないので彩愛は梨花に退席を伝え友人たちと控室へ戻った。