後日談 004 野宮俊介(後編)
翌日も初等部の『王花の間』に向かう。
「いらっしゃいませ、野宮様」
微笑まれて招き入れられる。まだ水上様は来ていないらしい。
「ありがとうございます皆森様。早速始めても?」
「ええどうぞご自由に」
そういうと皆森様はすぐに友人方との会話に戻る。
彼らは皆森様と話しながらも、こちらへの警戒を忘れない。
友人として、護衛として集められた中で残った3人。
まだ10歳にも満たないのに、その頭の中には中等部までの講義内容が詰め込まれている。
もうしばらくしたら高等部の講義内容に入るというのだから、恐ろしい。
ただ、流石にまだ性教育のようなものは受けていないらしい。もっとも、勇人様は家を継ぐための勉強で幾分知識を詰め込まれているようだが。
スケッチブックを開いて色鉛筆を走らせる。
昨日のようなスケッチではなく、構図をいくつか描いていく。
祈りをささげる姿、ガラスでできた幾数枚の羽根に舞い踊る花。
「んー」
何かが違う気がして紙をめくって次の構図を描く。
踊るように手を広げ、手の袖・肘部分から風に舞い上がるレース。広がるスカートは花のようで、足元には水紋が広がる。
「んー」
紙をめくって次の構図を考える。
舞い散る花弁は氷に包まれ、大きな鳥籠の中こちらを見る姿。鳥籠を覆う蔦は風に揺れ、波紋をいくつも浮かべる水の上に落とされた牡丹。
「ああ、いいんじゃないか?」
「は?っと、水上様」
「悪いな集中してるところ」
「いえ」
「史お兄様、お邪魔してはいけませんわよ」
「わかったわかった」
いつの間にか来ていた水上様は、そう言って皆森様の隣に座る。
すぐさま給仕によって差し出されるのは紅茶。流石に俺のようにマグカップでがぶ飲みなんてはしたないことはしないか。
「お仕事はよろしいんですの?」
「ミカルに押し付けてきた」
「まあ、いけない方ですわね」
「たまにだよ。ミカルだって俺に仕事を押し付けてることがあるんだからお互い様だ」
「まあ、お二人がそれで納得しているのなら、いいですけれども」
クスクスと笑いあう姿はこの部屋にふさわしい。
今思い出しても、どうしてあんな女に溺れたのか。
春休みが終わったころには、俺は大分妃花の呪縛から抜け出していた。
そして、妃花の結婚と妊娠を知り完全に理性が戻った。
そしていまだに抜け出せないやつらに同情した。
この状態でもまだ離れないのなら、もう手遅れだ。
俺は妃花達から距離を置いて美術室で絵に没頭していた。
文芸会用の絵を仕上げなければいけない。
アクリル絵の具を混ぜ色を作っていく。モチーフは祈りを捧げる蕾。
まだがく弁に守られた蕾はやっと半分ほどその花弁を見せ始める。
そんな蕾をいくつも付けた枝が後姿の少女にに寄り添う。
祈るように首を垂れる少女の顔はわからない。
ただ、その艶やかな黒髪と、真っ白なドレスが印象的な少女。
その絵は文芸会で高い評価を受けた。売ってほしいという話もあったが、まだ未熟だからと断った。
そのころ音楽堂でまた妃花の歌が聞こえなくなる事件が起きていたらしいが、また美の神がしたのだろうと思っただけだった。
そのあとのクリスマスパーティーの騒動も、また迷惑なやつが来たとしか思わなかった。
神の顕現には流石にびっくりしたけど。
「野宮様、教えていただきたいところがございますの」
「どこ?」
「ここの陰影のつけ方が難しくて」
「ああ、これは…」
文芸会の後、腫れもの扱いでもそれなりに話しかけてくる生徒が出てきた。
絵をたしなみとして学ぶ子女も多い。
教師が他の生徒と話している時など、美術室でスケッチを描いたりデッサン画を描いている俺に声をかけてくる。
以前はよくあった光景だが、妃花に一時溺れたせいでなくなっていた光景。
少しずつ俺の生活はこうして元に戻っていくんだろう。
紙をめくって次の構図を考える。
森の中の泉に眠るように浮かぶ姿。水面に髪が揺れ泉に落ち花弁を風が揺らす。
胸の上で組まれた手。泉の淵には真っ赤なリンゴを持った手。
「んー」
紙をめくって次の構図を考えようとしたところで以前のようにマグカップに入った珈琲を乗せたトレイが差し出される。
「あ、どうも」
受け取って描いた構図を見直しながら珈琲を飲む。
どれも悪くはないが、いまいちな気がする。
飲み切ったところで当たり前のように差し出されたトレイにマグカップを置いて首をひねる。
何かが足りない。
指でトントンとスケッチブックを叩く。
「行き詰ってるようだな」
「しー。お邪魔をしてはいけませんわよ」
「はいはい」
その声にスケッチブックから顔を上げる。
西日が斜めに差し込み、皆森様を浮かび上がらせる。
すぐさま紙をめくって構図を描く。
ワルツのようにスカートをもち、相手の腰に手を回す。
髪は結われず動きに合わせて舞い、無垢な中に艶を宿した目で相手を見つめる。
花の絵柄が銀糸で描かれるホワイトからライトグレーへとグラデーションになるドレスは裾にたくさんの煌めく粒と羽根がつけられ、首元には翠の石のネックレス。
周囲は光の差し込む水中。水泡の中にはほころびかけている蕾を映し出す。
燕尾服を纏う相手の顔は見えず、ただしっかりとその手を握っている。
ああ、これがいいと頷けば水上様に呼ばれる。
「満足のいくものが描けたのか?」
「はいおかげさまで。あとは家でキャンパスに描こうと思います」
「今下絵を見せていただくことはできますでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
ページを開いて差し出せば、受け取った水上様もそれを横から覗き込んだ皆森様も息をのむ。
「きれいですわ」
「ああ、きれいだ」
呟いて水上様はスケッチブックを返してくる。
「完成が楽しみだ」
「ありがとうございます」
「本当に、楽しみにしていますわ」
「励みになります」
俺は深く礼をしてから部屋を出て急ぎ足で自宅へと戻ることにした。
完成した絵は文芸会で初披露され、昨年の絵よりも高値で買いたいという人がいたが、俺は絵を学園に寄付し、中央校舎の踊り場に飾られることになったその絵にいつの間にか『聖女の恋』という名前が付けられたり。
その後、なぜか美の神に加護を貰ったり、ユングリング家にスカウトされて皆森様の留学に合わせて渡欧したりと、なかなかに波乱万丈な人生になるなんて、その時は絵のことしか頭になかった俺には予想することさえできなかった。