後日談 001 磯部和臣
キッチンから漂ってくる焦げた匂いにまたかと苦笑する。
かつては煩い、はしたないと思っていたドタバタという音も今ではすっかり心地いい音に変わった。
「和臣~!」
「はいはい」
読んでいた新聞を置いてキッチンに向かう。
「ごめんなさい」
しょぼんと肩を落とす麗奈の背後には焦げた鍋。
なにかのコンポートを作ると言っていたが、火加減でも間違えたのかもしれない。
「あの、今日のおやつはなしになってしまったわ」
学園にいたときでは絶対に見ることが出来ないその姿に、学園を離れてよかったと思えてくる。
「なら久しぶりに外に食べに行こう」
そう提案すると少し視線を泳がしてから、いいの?と聞いてくる。
「たまにはちょっと贅沢しよう」
アパートメントを購入してもらって、学校の学費だけはお互いの親が一括で払ってくれたが、生活費の支援はない。
幸い麗奈を慕ってついてきた子達や、俺や麗奈を個人的に応援してくれる人たち同じアパートメントに住んでいるので何かあればいつでも聞けるし手も貸してくれる。
だが、麗奈は今までの生活を一変させ貯蓄を作らなければいけないと言って家事を友人から習うようになった。
味の良しあしはわかるし、お茶ぐらいなら淹れられるが、調理はしたことがない麗奈からそんな言葉が出てくるとは思わず、耳を疑って拗ねられたことも今では懐かしい。
確かにデリバリーを毎日したりコックや使用人を雇っては、いくら家賃収入があるとはいえ自分たちが今までのようなレベルで生活をすればあっという間に家賃収入のお金は尽きてしまう。
掃除も洗濯も初めての俺と麗奈は四苦八苦し、時に色移りや色落ちして手洗いの失敗、ちゃんと掃除できていない場所やシーツの交換の大変さ、ものの手入れの大変さを二人で実感した。
支度をして外に出れば、母国とは違う街並みが広がる。
麗奈のお気に入りの、以前に比べれば随分と質は落ちたが、今の俺たちにとっては少し値の張るカフェに行く。
季節のフルーツのコンポートを使ったシフォンケーキと紅茶を頼んだ麗奈の横で、紅茶とナッツを使ったシフォンケーキを注文する。
「はあ、私って不器用だったんだってしみじみ思い知らされるわ」
「確かに、こうして庶民になってみればわかるけど、住む世界っていうのは分けられてるもんなんだな」
「そうね。でもなんでかしら、私は今の生活が楽しいわ」
「そう?」
「ええ。なんていうか、前はいつだって人の目があって、人を思惑を先読みして行動して、言ってしまえば緊張しっぱなしだったんだもの。しかもあの子が学園の秩序を乱して、なんていうか頭でははしたないってわかってたのに、体が動いちゃうっていうのかしらね、きっと八つ当たりもあったんだと思うわ」
その言葉にドキッとする。
「八つ当たりって、篠上様の?」
「ええそう。だって和臣だって知ってるでしょう?私があの人と婚約したのは7歳。それから10年私は篠上家の跡取りの妻として相応しくあるようにって毎日毎日勉強させられて、友達ともほとんど遊べなくて、少しでもできなければ『京一郎の婚約者のくせに不出来だなんて』って篠上様のお母様に言われたり、『お前は虫よけだから余計な期待はするな、でも僕に恥をかかせるな』って篠上様に言われて」
「そうだったな」
泣いているのを見つけたときは信じられなかった。
プライドが高く高飛車で、自他ともに礼儀に厳しく、弱みを見せないと言われている麗奈が音楽堂の隅で泣いていた。
婚約者として数年頑張っても認められないむなしさに、思わず泣いてしまったと儚く笑った麗奈に手を差し伸べずにはいられなかった。
不貞と少なくない声は上がっていたが、それでも麗奈の支えになりたいと思った。
「だからね、気に入らなかったんですの。私を婚約者の座から追い出したくせに何にもできない、なんにもさせない佐藤妃花と篠上様、そしてその取り巻きが。私の10年は何だったのかって思ったら、八つ当たりしてしまいましたのね」
運ばれてきたシフォンケーキを切り分けクリームをつけて口に運ぶ麗奈に、そうなのかと納得する。
「でも、流れてきた噂ではその篠上様は家と縁を切り庶民に落ち、佐藤妃花は子を産んだものの醜く変貌し取り巻きは離れ、今では篠上様に囲われているそうじゃないか。ほかにも野宮様と飯田様以外の取り巻きになった男子は廃嫡されたり家自体が没落したりさんざんだそうだからな」
「神の怒りに触れたって聞きましたわ」
産んだ子供もいつの間にか行方知らずになっているという。
佐藤妃花はいったい何がしたかったんだろう。
将来有望な生徒を堕落させ、母国の経済を混乱に落とした。
「皆森様が、水上様の正式な婚約者として発表があったという話は知ってまして?」
「新聞に載ってたな、偉大なる神の寵児婚約って」
俺との時にはなかったけど、と苦笑する。
あの二人が相思相愛なのははたから見ていれば分かった。幼いからと自分の気持ちを抑える水上様と、自分の思いの意味を理解していない皆森様。
俺の両親という邪魔者が入らなければもっと早くに婚約できていただろうに。
「こっちの新聞に大きく取り上げられてるのは、きっとユングリング一族のおかげですわね」
「ああ、そうだな」
こっちに来て初めて知った事実。
皆森様は神の寵児、最愛の子、今代最高の聖女、神の巫女、神の調停者など、複数の呼び名を持っている。
母国の皆森家の影響ではない。北欧のユングリング一族の影響だ。
ユングリングの、その総帥夫婦の溺愛する娘というだけでも影響が大きいのに、幼い体に複数の神の加護を受けている。
外見の神秘的な、成長を重ねるほどに儚くもあでやかになる美しさに人気は止まるところを知らず、王族よりも人気があるのではと言われている。
むしろ王族のほうから、皆森様に面会を求めたり縁を結ぼうとしているとも噂されている。
あわよくば王家に取り込み、それでなくとも友好的な関係を結べば王家にも神の加護が受けれるかもしれないという思惑か、それとも純粋に皆森様を想っているのか。
「水上様は大変だろうな」
「ああ、養子縁組の話ですのね」
「ん?」
「え?」
あれ?と麗奈は首をかしげる。
「聞いてませんの?皆森様、初等部を卒業したらユングリングへ養女に入り、中等部の間は北欧に留学し、その後は皆森様の意思で学園に戻るか北欧の学園にそのまま滞在するか決めるという話ですわ」
「知らなかった。でも、それだと確かに水上様は大変だろうな」
皆森様との婚約発表の時挨拶をさせてもらったユングリング一族の方々を思い出す。
こちらを値踏みし、失望したような視線、あざけるような視線は軽くトラウマになるかと思った。
あの一族と長い付き合いになるのだと思えば、水上様に同情してしまう。
「でも水上様も外戚とはいえユングリングの血族ですし、書類手続きや住居の確保など諸々手続きはあるでしょうけど問題ないかもしれないわ」
そういえば、水上様の御婆様は北欧の大貴族の出身という話を聞いたことがある。あの目の色と髪の色は祖母譲りだと笑って言っていた。
「なあ麗奈」
「なに?」
「すっごい今更なこと言ってもいいか?」
「ええ、もちろん」
「庶民の目線から見ると、上流階級って大変だな」
「まあ」
俺の言葉に麗奈は確かに、とクスクス笑う。
「強がりに聞こえるかもしれないけど、庶民に落ちたほうがのんびりできるし」
「そうね。毎日のお稽古事に社交、情報戦に噂のコントロール合戦、流行を追って毎日神経をとがらせてた毎日だったけど、今こうして庶民の目線で見ると信じられない毎日だったわよね」
「そうだな」
「今更毎日誰かに監視されて日々を送れって言われてもお断りしたいわ」
「同じく」
それぞれ食べ終えて、麗奈がレジで紅茶の茶葉をかい終わるのを待って手をつないでアパートメントに帰る。
青い空の下、それでも同じ空の下にいるというのに、今までとは変わってしまった生活に不便はあれど不満はない。
「麗奈」
「なに?」
「夕飯は焦がさないでくれよ?」
「もうっ!がんばるわよ。でも最悪ごはんとお味噌汁だけを覚悟してね!」
笑いながら言う麗奈の笑顔に、この選択は間違ってなかったと自然と笑みが浮かんだ。




