皇帝の帰還 ―2
その男は、中庭から校舎へ続く道、そのど真ん中に立っていた。
身を包む学院制服の下はズボンなので、男という認識でいいはずだ。
纏う、黒赤のローブは三年生のもの。
スラッとした長身でありがながら、同時に遠目にも屈強さを感じる体つきでもあった。
他に目を引く特徴的な部分といえば、無造作に短く切り揃えられた真っ黒な頭髪。サレナのそれと同じ、この学院においてはかなり珍しい方の色だった。
そんな男が往来の真ん中に立ち止まり、顔を少し上げてぼんやりと何かを眺めているようであった。
もしかしたら、中庭に咲き乱れる花を愛でていたのかもしれない。だとするならば、中々風流な人物と言えるだろう。
しかし、そんな風流をゆっくりと味わうにはいささか場所と時が悪かった。
何故ならば、その道をちょうど先ほどの不良生徒達がサレナ達から遠ざかるべく苛立たしげに歩いていたからだった。
不良生徒達はサレナ達を避ける選択をしつつも周囲への威嚇もやめてはおらず、そのせいで自分達の行く先にそんな男が突っ立っていることに気づけなかったらしい。
もっとも、気づいていたところで男のことをわざわざ避けて通りはしなかっただろうから、そのトラブルは必然的に発生するものであったといえる。
また、庭を風流に眺めたままの男の方も、それに夢中になりすぎていたせいなのか、不良生徒達が近づいていることを感知出来ていなかったようだ。
当然起こるべくして、不良生徒達の先頭を行く一人と、立ち止まって庭を眺めていた男の衝突事故は起こった。
「――っつ!?」
よそ見をしたまま正面から男にぶつかった不良は呻きつつ、衝撃で後ろへと二、三歩たたらを踏んだ。
「…………!?」
一方、歩行速度とはいえ体の側面へ不良生徒がまともに突っ込んできたはずだというのに、男の方は倒れるようなこともなく一歩ほど後ろに下がった程度でそのまま踏みとどまった。
「ってぇな!! おい、テメェ!! どこに目ぇつけてんだ!?」
ぶつかった不良生徒が瞬間的に怒りを沸騰させ、男を怒鳴りつける。
自分がよそ見をしていたせいでもあるというのに、まるでそのことを悪いとすら思ってもいない、一方的な剣幕であった。流石、堂に入った突っ張りぶりである。
「…………? もしかして、それは、俺に言ってくれてるのか……?」
対する男は怒鳴られた後で何かを確認するように周囲を見回してから、最後に不良生徒の方へ向き直って首を傾げ、そう尋ねた。
相手の恫喝にまったく怯えも竦みもしていない、涼やかさすら感じられるような落ち着き払った態度であった。
「テメェ以外の誰がいるってんだよッ!! あぁ!? 喧嘩売ってんのかゴラァ!?」
そんな男の態度をこちらをナメたものだと解釈したらしい不良生徒は益々ヒートアップし、即座に男の胸ぐらを掴み上げる。
流石に不良として突っ張って生きることを決めただけあって、その生徒は体格も良く、ゴツゴツとした厳つい体つきでいかにも力自慢といった感じだった。
しかも、ローブの色が黒青であるところを見るとこれでまだ一年生なのだから驚きである。
魔術士よりもよほど向いている職業が他にあるのではないだろうか。
男の体格もそれなりであったが、流石にこの不良生徒相手では見劣りするものがあった。
その比較した印象通りに、胸ぐらを掴まれた男は大した抵抗も出来ずに相手の力に振り回されるがままのように見えた。
結局その場で少し背伸びをする形になり、足がそうやって地面についていなければそのまま首を締め上げられてしまいそうだった。
あわや、一触即発の暴力沙汰寸前。
いや、もう、ちょっとばかりは踏み越えちゃってるかも。
さて、サレナは視線を移してその事態に気づいてからこっち、最初からそこまでをまったくの他人事のようにぼんやり眺めていた。
男は全然見も知らぬ誰かであったし、わざわざ仲裁してやる義理も義務もない。
双方だけで穏便に決着がつくことを薄く期待しながら見物していたわけだが、流石にこうなると「マズいなぁ、そろそろ止めないとヤバいかなぁ」とも思い始める。
他の三人も何事かが起きていることには気づいたようだし。
だが、そんな暢気なサレナをも一気に焦らせるような展開になるのはここからであった。
「――いや、気を悪くしたなら謝ろう。ただ、確認しておきたかっただけなんだ。"驚きのあまりに"ってやつだ。そして、逆だな。俺は売るつもりなんてなかったし、むしろ喜んで買わせていただく側だよ」
男は胸ぐらを掴まれ、ほとんど締め上げられているような状態だというのに、まったく苦しさなど感じていないような普通の声でそう言った。
そして、自分の胸ぐらを掴んでいる不良生徒の手首に自らの手を添えると、握手をするような緩やかさで握る。
「……はぁ? 何を言っ――」
まるで意味のわからない男のそんな言葉に、締め上げを継続しつつも不良生徒は不可解そうな声を上げる。
だが、そこでようやく、その不良生徒の恫喝をニヤニヤと嫌らしい笑顔で楽しそうに眺めているだけだった他の不良生徒の一人がそれに気づいた。
学院のそういった不良達は、不良達なりのコミュニティを築いている。
そして、そこには学年を問わず誰でも所属出来るようであった。
現にその不良生徒達も、男を締め上げている一年生の他はローブの色から察するに三年生と二年生であった。
先輩が後輩を従えて連れ回していた途中、そんなところだったのだろう。
そして、何かに気づいたのはその内の三年生の不良生徒だった。
締め上げられている男の顔を見て、突然そいつは雷に打たれたような表情になった。
さらに、その顔色は極寒の地へ放り込まれたかのように蒼白となっている。
「おい! やめろ、今すぐそいつ――いや、その人を放せ!!」
それから即座に、疑問の声を上げようとしていた一年生不良のその言葉に被せて遮るようにしてそう叫んだ。
しかし、何もかもが遅かったらしい。
その三年生不良が男の正体に思い当たるのも。
一年生不良が先輩の言葉に従うのも。
サレナが割って入る決断をするのも。
その全てが。
「嬉しいじゃないか。いや、まさか――この学院でまだ俺に喧嘩を売ってくれるような、親切な人間がいるだなんて、思いもしなかったぞ」
男は本当に嬉しそうにそう言うと、緩やかに握っていた相手の手首を、ぎゅっと握り締めたようだった。
「――――ッ!? ぎゃあああああああぁぁぁ!?」
同時に、一年生不良の悲鳴が突如として中庭に響き渡る。