恋するあなたに恋してる ―6
結局、また門限ギリギリに寮に戻ることになってしまった。
相部屋のヒースは流石にもう一週間近くも共同生活をしていると慣れてしまったのか、そんな不良娘のサレナの行動を気にも留めなくなっていた。
圧迫感が嫌ということで、主にサレナの気分次第で勝手に開けられることになった仕切りのカーテンは今、全開になっている。
その向こう側のヒースは机に向かって黙々と作業をしているようだった。大方、今日の授業の復習と明日の予習でもやっているんだろう。
自分は仰向けにベッドに寝転んでぼんやりしながら、なんとはなしにそれを見ているサレナは「真面目なことだな」と思う。
あんな姿形と態度をしておいて、実にファッション不良くんなのだった。
……まあ、そんなことはどうでもいいや。
サレナは視線を特に何もない天井へ戻すと、今後の方針についての思案を開始する。
自分はこの世界で一体何をするべきなのか。
……そんなの、決まっているはずだったのに。
もちろん、今でも最初に心に決めたそれは変わっていないとは思う。
カトレアさまと結ばれたい。あの人から、愛されたい。
むしろ、その想いは最初に決めた時よりも今現在の方がより切実で、胸を締め付けられる程に焦がれてしまうものとなっている。
ならば、全部そのために行動して、そのために生きていく。
これまで通り、それでいいじゃないか。
欲望と願望の赴くままに。
"本当の恋"を自覚した今となっては尚更のはずだ。人は心の幸せを求めて生きるべきだ。
そして、差し当たってそのためにやるべきこともサレナにはわかっている。
既にアドニスに恋してしまっているカトレアさまに、彼女の恋心を諦めさせる。
当然、そうするべきだ。
彼女の心を手に入れたいなら、それが既に他の者へ向けられているこの状況は都合が悪いなんてもんじゃない。
ならば、まずはその想いを完全に諦めさせるべきだろう。
そうした上で、彼女の心をどうやって射止めるかについては、また改めて考えていけばいい。
では、そのためには何をどうすればいいのか。その方法も、非常に簡単に思い浮かんでくれた。
アドニスを自分へ惚れさせてしまえばいいのだ。
手段を選ばずに目的を達成するのであれば、それが一番手っ取り早い。
幸い、自分はゲームと同じくこの世界でも非常にアドニスの好みに合致するビジュアルをしているようだ。更にそのおかげか、向こうも最初からある程度の好感をこちらへ抱いてくれているようでもある。
そうなると話は簡単だ、後は性格も彼が好みそうな女の子のそれを演じた上で、積極的なアプローチをかけてやればいい。
そうすれば、程なくアドニスから恋愛感情を向けてもらえるはずだ。その自信は大いにある。
そうして、一旦とはいえアドニスとサレナが結ばれてしまえば、カトレアさまもその秘めたる恋心を諦めてしまうより他ないだろう。
たとえゲームと同じようにカトレアさまが急接近する二人に触発され、奮起し、"恋のライバル"として名乗りを上げてくるとしても、それでも主人公として彼女に勝つ勝算は十分にある。
そして、カトレアさまがそうやってアドニスへの恋心を完全に諦めたと判断した段階で、アドニスを切り捨てる。
そうすれば、晴れてお互いまっさらな状態で、新しく関係を築いていける。
――ハハッ。そこまで考えたところで、サレナは思わず皮肉めいた自嘲の笑いをこぼす。
何という悪女っぷりだろうか。他人の感情を、自分の願望のためだけに散々に振り回して。
しかし、その願いの成就だけを何よりも優先させるのであれば、それが一番有効な手立てだった。
そして、自分はそういう風にして生きるのだと、前世の記憶を取り戻した時に決意したんじゃなかったのか。そうするために、この世界へ生まれ変わったのだと。
それに何より、そんな決意と共に生きてきた"今までの自分"であれば、躊躇なくそれを実行出来ていたはずだった。
心のどこかでこのサレナとしての人生をゲームの攻略だと思ったまま、この世界に生きる他の人間達を"プログラミングされた心"しか持たないキャラクターだと見なしていたような自分であれば――。
「…………」
けれど、結局そうじゃないということを自分はわかってしまった。
いや、本当はこれまでずっと、無意識的にはそれを理解していたのかもしれない。
どこかでその理解に基づいた選択と行動を、これまでもしてきた自覚がないでもない。
しかし、そうだとしてもやはりそれらは、目的に近づくためのある程度の合理性と打算を求めた上でのものだった。
ゲームのキャラクターではない、どこまでも現実に生きている人間の心を自分の都合で弄ぶことに抵抗があるのなら、そんな風にこれまでのような合理性と打算とをすり合わせた、中途半端な行動をすればいい。
……だけど、本当にそれでいいのかな。
サレナはモヤモヤと、頭の中で天使の自分と悪魔の自分が言い争うようなイメージを繰り広げながら自問自答する。
カトレアさまに自分とアドニスが結ばれるところを見せつけることでその恋心を諦めさせて、その後でアドニスを捨てて次は後腐れなくカトレアさまにアプローチを仕掛けていくなんて、本当にそんなことしていいと思っているの?
そんなことをして、カトレアさまの心が自分に傾くと思う? 靡くと思う? 正しく愛してもらえると思う?
この世界に生きる人間はゲームのキャラクターなんかじゃない。ちゃんと傷つくし、悲しむ心を持っているのよ?
天使のサレナはそう主張してくる。
それには、確かにそうだよな、とサレナも素直に頷いてしまう。
ゲームの方でもそうであったとはいえ、いきなり横から出てきた主人公に相手をかっさらわれて手酷く失恋するカトレアさまは大いに傷つくことになるだろう。
アドニスも今のところ倒すべき恋敵であるとはいえ、その心を弄んで、その気もないのに自分に惚れさせた上であっさり切り捨てることには流石に罪悪感も覚えるというものだ。
それに、そんなことをする人間が次に何食わぬ顔で自分に近づいてきたら、カトレアさまは間違いなくサレナに怒り、軽蔑することだろう。
たとえどれだけ上手くやって、その謀略を悟らせなかったとしても、二人の人間の心を自分の目的のために踏みにじって幸せを掴んだ大悪人という十字架を背負って生きることになる。
そればかりは、いくらなんでもサレナには重すぎるものだった。
必然、やはりこの方法は論外ということになろう。
……確かにそうかもしれないね。
悪魔のサレナも、天使のサレナのその主張には素直にそう頷いている。
いや、それでいいのか悪魔よ。
しかし、そこはやはり自分の心の中の悪魔、気を取り直して次にこう囁きかけてくる。
そうは言っても、カトレアさまにアドニスのことを諦めさせるのは、自分の願望を成就させる上での避けては通れない必須条件だぜ?
確かに、積極的にそれを押し進めようと行動することはアウトかもしれないが、だったら間接的にでもいいから、とにかくその方向には動いていかなきゃならない。この世界に転生までしてきて成し遂げたかった目的のためには。
幸い、カトレアさまは自分の恋心をずっと秘めておくつもりらしい。
だったら、その傍で、いつかその想いが潰えて、心変わりを考え始めるかもしれない時をじっと待っていればいい。
悪魔がそう言いながら、醜悪な笑みに顔を歪ませる。
何故ならば、お前はカトレアさまの恋心が、そのままであれば十中八九叶わないものであることを知っているじゃないか、サレナ。
アドニスはカトレアさまの自分への想いにまったく気づいていないし、カトレアさまもそれを示すことには完全に消極的だ。
それでは関係が成立しようはずもない。
それに、カトレアさまは所詮どこまで行っても当て馬のライバルキャラクター。
アドニスの好みには合致しないように作られている以上、彼からの矢印が自発的にカトレアさまへ向く可能性は限りなく低いだろう。
だからきっと、その内にカトレアさまの方から自然にその恋心を諦めることになる。
それをじっくり待てばいいじゃないか。出来る限り、彼女からの好感度を稼ぎながらな。
そして、いざその時が来たら、もっともらしい顔で彼女を慰め、寄り添ってやればいい。
カトレアさまがそれで自分を愛してくれるようになるかはともかくとして、その心は大きくサレナに傾くはずだぜ。好感度を爆増させられるってわけだ。
どうだ? それこそが、お前がこれまでうっすら自覚的に繰り返してきた、自分の中の道徳心と、目的のための合理性と打算とをすり合わせた選択ってやつじゃないか?
悪魔のサレナはそう囁いて高笑いをする。
天使のサレナはそれに対して恨めしそうな目を向けるも、何も反論することが出来ないようだった。
ということは、それこそが自分の心があらゆるものに対しての折り合いをつけた上で弾き出した最善の方策なのだろう。
「…………」
サレナは溜息と共に、もう用事は済んだものとして、自分の頭の中から天使と悪魔にご退場していただくことにする。
そして、いい加減に決断しなくてはならない。
……じゃあ、当面はそれでいこうか?
このまま自分は何もせず、カトレアさまの片想いが潰える時を黙って待つ。
あの、誰かを想い、切ない恋に浸る美しい顔が、どうしようもない悲しみに歪んでしまう時を。
こんな自分の胸に宿るのと同じ、とろけるように甘くて、潰れるように苦しい、恋する心が何一つ報われることもなく燃え尽きてしまうのを。
黙って何もせずに、見守っているだけで、それで――。
「……ねえ、ヒース」
唐突に、仰向けにベッドに寝転んで天井を見上げたままの姿勢で、サレナは机に向かうヒースへと声をかける。
「あん?」
ヒースもヒースで机に向かったまま、サレナの方を見もせずに応対する。
何だかんだで付き合い方に慣れてきたものを感じさせる態度だった。
「あんたさぁ、恋ってしたことある?」
ヒースの促す声に従って、サレナはさらりとそう問いかけた。
「…………」
それを聞いて、ヒースはまず自分の眉間を指で軽く揉み始めた。
長いこと机に向かっていた疲労を解すためか、それともサレナが投げかけてきた突拍子もない質問を時間をかけて飲み込むためなのか。
そして、やがて観念したようにサレナの方へ顔を向けると、言い放つ。
「何でオレとお前がこの状況でいきなり恋バナしなきゃなんねえんだよ!?」
だが、サレナはまったくそのツッコミに取り合おうとはせず、天井へぼんやりと顔を向けたまま、自分の質問を重ねていく。
「……もしもさぁ、自分が恋してる相手が、自分じゃない他の誰かに恋してるとしたらさ……あんたなら、どうする……?」
どうやらサレナが本当に聞きたいことはこっちの質問であり、さっきの恋したことがあるかどうかはどうでもいいようだった。
そう判断したのか、ヒースは当てつけるように大袈裟な溜息を吐くと、しかしやはり生来の人の良さを発揮して、少しばかり真面目に考えてやることにしたらしい。
「……さあな。オレはまだ誰かに恋した経験はねえが……もしそういう相手がいたとして、その人が自分じゃねえ誰かに恋してるなら――」
しばらくしてから、ヒースはぽつぽつと、真面目に考えた自分なりのその答えを返してくる。
「その相手の恋が実るように、祈るんじゃねえかと思う」
その答えを聞いて、サレナは視線だけを動かして横目でヒースを見ると、さらに問いかける。
「自分に振り向いてもらえなくてもいいってわけ?」
そんなサレナに自分も視線を合わせながら、ヒースは事も無げにこう答える。
「そいつに恋してるってことは、つまり"愛してる"ってことなんだろ。それだったら、自分の幸せよりも相手の幸せを優先するもんじゃねえのか、普通」
その答えにはまったく、この不良少年の見た目にそぐわないにも程がある人の良さと真面目さ、優しさが滲み出ていた。
サレナはそんなヒースの曇りない眼から視線を外すと目を伏せて、深い溜息を吐く。
「やっぱり、そうだよね」
それから、そう呟いて。
頭の中で思い描いてみるのは、もしも自分のこの恋が叶わなかった時に、自分はどういうことを感じて、どんな気持ちになるんだろうということ。
……きっと、死んだ方がマシな気分だろうな。
それを想像してみるだけでも、今から絶望のあまりに泣き叫びたい気持ちになってしまう。
胸がズキズキ痛むなんてもんじゃない、ビリビリに破けて、呼吸が止まってしまいそう。
抑えようとしても溢れる涙は自分ではとても止められそうになくて、体中の水分が全部それで流れ出て干からびてしまうんじゃないだろうか。
……ああ、自分の恋を諦めるっていうのは、こういうことなのか。
確かにこれは、つらい。
とても言葉では言い表せないくらいに、痛くて、傷くて、惨くて、苦しい。
ヒースの言う通りだ。
こんなものを、自分の恋する人に、愛する人に、味わわせることなんて出来そうにない。
そんなこと到底、許せそうにない。
そんなことを、したくはない。
心の底からそう思ってしまう。そう思えてしまう。
それくらいに、自分はあの人が恋しくて、だから――。
サレナは目を伏せたまま一筋だけ涙を流すと、それを決意する。
そんなものを味わうのは、自分だけで十分だ。