Dive to Witch's world ―2
目の前を流れていく自分の二十一年に及ぶ大して長くも短くも、そして何より面白くもない平々凡々とした生涯の中で、その"とある乙女ゲーム"にハマっていた思い出だけが唯一鮮明に輝いている。
その乙女ゲームのタイトルは『Knight of Witches(ナイト・オブ・ウィッチズ)』。通称『ナイウィチ』。
『魔力』と『魔術』が存在している世界というファンタジーな設定と、その世界にある魔術の学校――『魔術学院』に主人公が通うという学園モノを組み合わせたストーリー。
そんな、割とありがちな世界観で、極々オーソドックスなシステムの恋愛シミュレーションである。
良く言えば堅実な造りで、悪く言えばありふれている、まあ評判も人気もそこそこ程度の乙女ゲームだった。
だけど、私はそんなありふれたゲームにドハマりしてしまった。それこそ本当に、『正気を失っていた』と思うくらいに。
そして、その原因というか理由が、先にも言ったようにその中に登場するライバルキャラクター――『カトレア・ヴィオレッタ・フォンテーヌ・ド・ラ・オルキデ』の存在だった。
舌を噛みそうなくらいに長ったらしい名前だが、今の私にとってはその響きの全てが愛おしく感じる程の存在。
そんなカトレア嬢――いや、こんな呼び方ではあまりにも失礼極まりない、私から呼ばせていただくならばそう、『カトレアさま』こそが相応しいだろう。
とにかくカトレアさまは、こういうゲームには結構な率で存在しているライバルキャラクター――主人公と攻略対象キャラクターとの恋路の前に立ちはだかる障害として登場し、色々と主人公の邪魔をしてくる悪役のようなものであり、確かにその一種でもあった。
普通であればその存在は悪役である以上、プレイヤーからは憎まれたり嫌われたりするものだろう。
しかし、このゲームにおけるライバルキャラクターとしてのカトレアさまは、かなりその"普通"からは逸脱しているキャラクターだった。
単なる恋のお邪魔虫や憎まれるべき悪役というには、あまりにもキャラが濃すぎたのだ。
まず、このゲームにおいて主人公は魔術学院の新入生であるという設定となっている。
そして、その二学年上の先輩であるカトレアさまは、悪役として主人公に意地悪をしたり、いじめるというよりは、むしろ基本的には主人公の良き先輩として振る舞っている描写の方が多かった。
常に美しく、気高く、凛々しいカトレアさまは、主人公にとっても憧れの女性としてゲーム本編内では描かれている。
その上で、物語が進行していくにつれて、やがて恋敵としても主人公の前に立ちふさがるようになっていく。
しかし、その場合でも卑劣な行いは一切せずに、真っ直ぐ、正々堂々と主人公とぶつかり合ってくる。
そして最後にはお互いを認め合い、敵対関係にありつつも奇妙な友情で結ばれた存在となって、主人公と攻略対象の恋愛の成就を見届けると、自分はクールに去っていく。
なんというか、そういう感じで恋愛ドラマ的なそれよりはかなり方向性のズレた、正しく少年漫画的な好敵手になっているのだ。
しかも、そんなライバルであるカトレアさまは、特定の攻略対象キャラクターの時だけ登場するのではなく、全てのキャラクターの攻略ルートにおいてライバルとして立ちはだかるようにもなっている。
つまり、主人公だけでなくこの人も全ての攻略対象キャラクターと何らかの関わりを持っているという、型破りなライバルなのである。
その様はもはやライバルを超えてもう一人の主人公と言ってしまってもいいだろう。
そんな風に妙な異彩を放つライバルの存在こそが、このオーソドックスでありふれた乙女ゲームであるナイウィチの唯一無二の独自要素であり、面白さだとすら評価されていたりもした。
とにかくそんな、単なる乙女ゲームによくいるような悪役というにはあまりにも規格外で魅力的なキャラクターが『カトレア・ヴィオレッタ・フォンテーヌ・ド・ラ・オルキデ』――カトレアさまであった。
さて、そのようにとんでもなくバチバチにキャラの立った魅力的なライバルのカトレアさまであるから、当然彼女のファンになってしまうプレイヤーも多かった。
ゲーム内の並みいる個性的で魅力的な攻略対象キャラクター達に勝るとも劣らぬほどの人気をライバルキャラクターでありながら獲得してしまうという有様であった。
そして、この"私"も何を隠そうその彼女のファンになったプレイヤーの一人というわけだ。
いや、それはもうファンと呼ぶのも生温いほどの勢いで私はカトレアさまに惚れ込んでしまっていた。
自分でもどうしてなのかわからないが、この乙女ゲームをプレイして私が一番好きになったキャラクターはこのカトレアさまだった。
というよりも、最初は単なる気紛れや興味本位でプレイし始めたこのゲームをこれほど好きになったのは、彼女がそこにいたからだった。
私はいつしかこのゲームが好きだったり楽しいからプレイするのではなく、彼女のためにこのゲームをプレイしてしまうようになっていた。
なので、正確に言うと私がハマりこんでいたのは、この『Knight of Witches』という乙女ゲームと、そのコンテンツ全般に対してではなかった。
私が本当に正気を失うくらいにハマりこんでいたのは、彼女の存在そのものだった。
私は、有り体に言ってしまえば、もはや彼女――カトレアさまに熱烈な『恋』をしてしまっていた。
彼女の美しさが好きだった。
彼女の気高い精神が好きだった。
彼女の凛々しい性格が好きだった。
彼女の常に自信に満ち溢れ、堂々とした態度が好きだった。
カトレアさまは主人公にとっても憧れの女性であったが、彼女のその在り方は同時に私にとっても憧れであった。
そして、その感情はいつしか憧憬を越えて恋へと変わっていた。
彼女が愛おしかった。私は彼女を愛していた。
彼女に触れたい。彼女に名前を呼んで欲しい。彼女に私だけを見て欲しい。
何より、彼女に愛されたいと願ってしまうくらいに。
まさか自分が現実でない、空想のキャラクターにここまでの感情を抱いてしまうような人間だとは思いもしなかった。
それがまともでないことも心のどこかでは理解していた。
だけれども、もはやどうにも自分ではそれを止められなかった。
しかし、幸いなことにこのゲームは乙女ゲームだ。キャラクターとの疑似的な恋愛関係に至ることを楽しむのが目的のゲームだ。
であれば、"私"のこの情動はある程度満たされるはずだった。それで多少の満足を得ることで、感情を押さえ込めるはずだった。
だけど、それは無理だった。
私がここまで想う程なのだから、当然主人公だって少しはそう想ってもいいはずなのに。
それなのに、この主人公はカトレアさまに対して憧れと好感を抱いても、恋心だけは絶対に抱いてくれなかった。
そして、ゲームの制作側も主人公にそんな感情を絶対に抱かせようとはしなかった。
つまり、この『Knight of Witches』という乙女ゲームの中に、カトレアさまを攻略出来るルートやシナリオは欠片も存在していなかったのだ。
こうして、私の恋心は完全に行き場を失ってしまった。
しかし、行き場を失っているというのに日々想いは募っていく。
なので、当然の結果として押さえ込めなくなるまで膨れ上がってしまった私の恋心は弾けて、暴走を始めた。
カトレアさま関連のグッズを無限収集的に買い漁り、自分の精神を満たすと共に彼女の人気を示そうとしてみたり。
ナイウィチのソフト本体を何本も買い集めて、そこに同封されているアンケートはがきに『カトレアさま攻略ルートの実装を』という要望を書いてひたすらに制作会社へ送り続けたり。
私は本業であるはずの学生生活を棒に振りかねない勢いでバイトを掛け持ちし、金を稼ぎ、その全てをそんな異常な行動へつぎ込んでいた。
まさしく常軌を逸している状態。この時の私は完全に、それまでの人生において一番正気を失っていた。
恋は盲目とはよく言うが、それにも限度があるだろう。
しかし、果たされることも満たされることも、そして破れることすら許されない恋心というのはその限度を軽く飛び越えてしまうものだった。
そんな暴走の果てに、最後は神仏に縋るしかないところまで追い込まれて、『百度参り』なんてことを行ってしまうくらいに。
そうしてまで、『主人公と彼女が結ばれる未来を見たい』と天に願うくらいに。
それ程までに、私はカトレアさまに恋をしていた。
美しくて、気高くて、凛々しい彼女を愛していた。
たとえどんな形でもいいから、とにかく彼女に恋愛対象として愛されたい、そして恋人として結ばれたいと、ひたすらに願い続けていた。
そうだと言うのに、その結末がこれか。
ようやく終わりまで来たらしく、プツリと途切れる走馬燈。
それと同じく急速に元の早さを取り戻しつつある時間感覚から、私は自分の最後がもうすぐそこまで迫っていることを悟る。
平々凡々とした薄っぺらい"私"の人生は、自分の初恋がどうなるのかも見届けられないまま終わってしまう。
この想いを相手に伝えられもしないまま。
どうやったって伝わることのない想いを抱えたまま。
成就もせず、破れもせず、どうしようもないままでこの恋心は死んでいく。
それをどうにかするために、自分でも正気を失っていたと思うほど、暴走していたと思うほど、まさしく恋に狂っていたと思うほど、足掻いてもがいて走り続けてきたというのに。
結局この願望が、現世で叶うことはなかったんだな。
しかし、そう理解してしまった瞬間、私の心に浮かんだのは絶望や後悔ではなく、何とも無機質な諦めだった。
まあ、いいや。これでひとまず楽にはなれるんだもの。
少なくとも、どう頑張っても何一つ報われない恋心に苦しむことだけはなくなる。
それもいわゆる一つの、望んでいた『失恋』と言えるのではないだろうか。
だから、もういいじゃないか。私は背中に近づく石段の気配を感じながら、目を閉じて決意する。
もしもこんな"私"にも生まれ変わって来世があるのなら、もっといい恋をしよう。
ちゃんと叶えられる可能性があって、想いを伝えることの出来るような相手がいる恋をしよう。
そして、願わくば、あの美しくて、気高くて、凛々しく咲き誇る花のような彼女と同じくらい素敵な人に恋をしますように。
もしもそうすることが出来たなら、今度こそ私は全身全霊、その人と結ばれるために命を懸けて、どんなことでも――――……