アルバート・サクリエル編⑤
意識を取り戻したアルバートが見たのは、どこまでも青い空だった。そして最初に思ったことは、自分は生きている、生き延びてしまったという絶望感で、そして次に、あの子はどうなっただろうと思って身体を起こした。背中の傷がそれほど痛まないことが不思議だった。結局自分は、あの子だけでも生きてくれと願いながら、自分が助かるように加減してしまったのだろうか。もっと自分の方に傷を移していれば、そうすれば・・・。そう思ってしまうのはあの子に助かってほしいと言うより、単に自分が死にたかっただけな気がして、アルバートは自分がどうしようもなく思って苦しくなった。
「どうしてあなたが泣くの?」
女の子の声がする。
声をかけられて視線を向けた先に、自分が切りつけてしまった少女の姿があって、その子が無事動けるようになっている姿を見て、アルバートは嬉しいようなホッとしたような、辛いような苦しいような、よく解らない感情に胸が締め付けられて、どうしようもない気持ちになった。
「あなたは悪い人じゃないの?なんでわたしを助けてくれたの?」
少女が強張る声で、アルバートに問いかけ続ける。
「わたしは視た。ずっと前。あなたが来るのを。皆を殺して、ニトを殺した。怖かった。あなたが来る日が来るのがずっと怖かった。怖くて、怖くて仕方がなくて・・・。」
そうぽつりぽつりと口に出して、少女は俯いて、なんで?と叫んだ。
「あなたは悪い人じゃないの?悪い人じゃないなら、なんで皆を殺したの?どうしてわたしだけ。どうして・・・。」
そう言う少女の目から涙が溢れ出し、それは嗚咽となり、最後には叫びになり。声にならない声で泣き叫び続ける少女を目の前にして、アルバートはどうすることもできなかった。どうしてと言われても、どうしてだか自分でも解らない。ただ死んで欲しくなかった。生きて欲しかった。そうとしか言いようがない。もしかしたらそれは、少しでも自分の罪悪感を減らすためだったのかもしれない。でも、あの時は何も考えられなかった。もし自分の罪悪感を減らすためだったとしても、この子一人助けたところでそれが減るわけがない。自分がしてしまったことがなかったことになるわけでも、払拭されるわけでもない。そんなことしたくはなかった、そんな言葉は言い訳にするならないほどどうにもならない罪を自分は犯してしまった。もう自分は後戻りできない。自分の手は、この手は、もうどうしようもないほど血で穢れてしまっている。罪もない多くの者達の血で汚れている。
「どうしてなんて考えるな。俺は悪人だ。どうしようもないくらい悪い奴だ。だから赦すな。ずっと、ずっと俺を恨んでろ。」
そう言って、アルバートは少女の頬に手を添えた。自分を見上げる涙に塗れた黄金色の瞳に泣きそうな顔をした自分の姿が写って、アルバートはどうしようもない気持ちになった。そんな顔しないでよと困ったような顔で言うエリオットの姿が頭の中に蘇る。エル。俺は。生き残ってしまったから、生き延びてしまったから。そしてこの子を生かしてしまったから。だから、その責任だけはとらないとだよな。エル。解ってる。お前がこんな世界を望んでなんかいないって事は。俺が一番解ってる。でも、俺はダメだったんだ。解ってたのに、考える事を放棄して、抗うことを諦めて、状況に流されるまま、俺は取り返しのつかないことをした。お前はずっとその場所で、今も抗い続けているっていうのに。お前の打ち出す政策が全て、この状況下で少しでも悲劇が起きないようにと思ってのことだと解っているのに。エル。すまない。俺はどうしようもないから。どうにもできないから。お前の力を借りて、この子を、この子だけでも護らせてくれ。そんなことを考えて、アルバートは少女の頬に、彼女が自分の奴隷だと示す魔術印を刻みつけた。エリオットの政策で、奴隷に対する虐遇が禁止された。かといって厚遇も許さない。それに反した者は厳しく処罰される。だけど、だから、奴隷になってしまえば人に優しくされることもないが、酷い目に遭うこともない。奴隷には色々厳しい縛りがあるが、それでも今の世の中、この少女のような魔族の血を引く者が生きていくには、奴隷になってしまう方が良い。奴隷になってしまえば、最低でも理不尽に侵略され、無慈悲に命を奪われるようなことはない。だから・・・。
「で。この子を連れて帰ってきちゃったの。アルはバカだね。そのまま死なせてあげた方がこの子にとって良かったかもしれないのに。」
帰還した王城内の、王の寝室で、エリオットが眠るサヤにもの悲しげな瞳を向けながらそう言う。
「アル。僕達はもう、どうしようもないところまで来てしまったよ。世間で僕達がなんて言われてるか知ってる?君は、魔族狩りの騎士アルバート・サクリエル。今回の遠征での君の功績が湛えられ、恐れられ、君はすっかり有名人だ。そして僕は冷酷非道の残虐王、エリオット・シャルマーニ。君のお兄さんとか、そういう間違った思想に取り憑かれた人達が勝手にしたことが全部僕の意向で行われたことになって、僕の行った政策のどれもが、受け取る人間に脚色されて。僕はすっかり、自分の意にそぐわない者は魔族だろうと人間だろうと関係なく、どんな者でも容赦なく処刑する王様ってことになっちゃった。いったいどうして僕達はそんな風に呼ばれなきゃいけなくなってしまったんだろうね。」
そうぼやいて、エリオットはアルバートに困ったような顔を向けた。
「ねぇ、アル。遠征で魔力に目覚めて、それを使えるようになって。どうして魔力を行使して、こっそり帰ってきたの?真っ先に、僕の所へやって来たの?」
そう問われて、アルバートは言葉を詰まらせた。どうして?そう問われたら、自分の帰るべき場所がエルの所以外考えられなかった。そうとしか言えない気がした。でも、それをどう言葉にするのが正解なのか、それが解らなくて、アルバートはなんとも言えない気持ちになった。
「ねぇ、アル。君が真っ先に僕の所に帰ってきてくれたのは。今も君が僕の知っている君のままで、君も僕を昔のままだと信じてくれてるって思っても良いの?」
何処か泣きそうな顔でそう言うエリオットが、自分がよく知っている彼そのままで、こうして対面している彼がどうしようもなくいつも一緒にいた頃の彼のままで、アルバートは、当たり前だろと答えていた。
「お前の事は、誰よりも俺が一番解ってる。お前がこんな世界望んじゃいなかったって事は、俺が一番解ってた。なのに。エル。すまない。本当に。俺は。俺が・・・。どうすることもできなかったんだ。」
そう叫んで、アルバートは涙が溢れた。一度溢れてしまうとそれはもう止めることができなくて。頭上から降ってくる、泣かないでよというエリオットの困ったような声をきいて、アルバートはどうしようもない気持ちになった。
「君に泣かれたらさ。僕はどうしようもないじゃないか。でも、良いよ。きっともう、君がそうやって泣けるのは、本心を晒して良い場所は、ここしかなくなってしまったんだと思うから。だから、好きなだけ泣いて。泣いてさ。泣き終わったら、ちゃんとするんだよ。君がつけるべき仮面をつけて、ちゃんと。僕達はもう戻れない。だから、覚悟を決めてね。」
そう言うエリオットの優しい声に、さらに涙が溢れてきて、アルバートはただひたすらに、溢れるまま涙を溢れさせて、ひたすら泣き続けていた。
「ねぇ、アル。きっとこの子は君を殺してはくれないよ。」
涙が落ち着いた頃、ふいにエリオットにそう言われて、アルバートは顔を上げた。
「この子の頬の奴隷印。これ、ただの飾りでしょ?魔術印でありながらなんの効力もない、ただの飾り。そしてこの子は強大な魔力を持っている。しかもそれを高度にコントロールすることができる。この幼さで、末恐ろしい存在だよ。辺境の方は魔族の血が濃くて、魔力を持つ者やそれを扱う技術を持つ者がちょこちょこいるみたいだったしね。この子は元々魔力があってそれを使うことができたのかな。きっと、この子のいた所には良い師がいて、魔力の使い方をちゃんと教えてもらってたんだろうね。急に膨大な魔力を手に入れて、それをただ爆発させることしかできない。そんな相手よりよっぽど、この子は脅威になる存在だ。そんな子をなんの縛りもなく奴隷として自分の側に置くことにするなんて。この子に殺して欲しいからじゃないの?」
そう問われてもアルバートには全くエリオットの言っていることが理解できなかった。そうやってただ呆然とするアルバートを見て、エリオットは呆れたように、アルは本当にバカだねと言って笑った。
「でも、アルが、そんなことをさせるためにこの子を拾ってきたんじゃないって解って、ちょっとだけ。ちょっとだけホッとしたかな。ダメだよ、アル。これからもずっと、自分が辛いからって、誰かに自分を終わらせることを願ったりしたら。」
そう言って、エリオットは眠るサヤの頭を優しく撫でた。
「君がこの子を生かしたように、君を助けたのはこの子だよ。どうしてこの子は、君の傷を塞いで、君を救ったりしたんだろうね。この子にとって君は、恨んでも恨みきれないような憎い相手のはずなのに。この子は強大な魔力を有して、それを扱うこともできた。でも、この子がしたことは、少年を逃がすことと、君の傷を癒やすこと。その魔力を戦うことには使わなかった。君たち襲いくる敵を薙ぎ払うことには使わなかった。きっとこの子は、自分の持つ強大な力を人を傷つけることに使えなかったんだ。生まれ育った場所が襲われて、見知った人達が殺されて、自分も殺されかけても、人を傷つけることに使えなかった。臆病だったからじゃない。ただ弱くて臆病で、震え上がるだけで何もできないようなそんな子供だったなら、少年を庇って君の前に飛び出したりなんてできない。この子は強いよ。強くてとても優しいんだ。そんな女の子にさ、これ以上何かを背負わせたらいけないよ。アル。君の背中に背負ったものは、ちゃんと君が背負い続けないとダメだ。こんな小さな女の子に、救いを求めるのは間違ってる。辛くても、絶対、これ以上この子に背負わせたらダメだよ。君に生かされてしまった、それだけでこの子は既に酷く重たい物をもう君に背負わさせられてしまっているんだから。」
そうエリオットに諭すように言われ、アルバートは何も返すことができなかった。そんなアルバートにエリオットが笑いかける。
「でもアル。救いが欲しいなら、それは僕があげるよ。」
そう言われて見たエリオットの目が真剣で、何か覚悟を決めた色をしていて、アルバートは意味もなく背筋が伸びた。
「今回の遠征の功績を湛え、君に聖騎士の称号を与えるよ。そうしたら君は、僕の、僕だけの騎士として、僕の剣となり盾となり、ずっと僕の傍で僕の右腕として僕に仕えて。そして、最後は一緒に死んでくれる?」
そう言うエリオットの何処までも澄んだ碧い瞳に見つめられ、アルバートは何故か笑っていた。
「もちろん。何処までも付き合うさ。お前に仕えて、お前と共に果てるなら。それは俺も本望だ。今も昔もずっと、俺の主はお前だけだ。」
「そっか。昔から僕は君の主だったのか。友達だと思っていたのが僕だけだったなんて寂しいな。」
そう茶化すようにエリオットが言って、互いに昔のように笑い合う。懐かしいやりとり。もう二度と戻ってくることはないと思っていた。きっと、ここを一歩でも外に出てしまえばこんなことは許されない。でも、ここでだけは、誰にも見つかることのない、見咎められることのないこの場所でだけは、昔のままで。昔の自分達のままでいたいと思った。これから先、どんな風に自分達が変わってしまっても、ここでだけはずっと、昔のままの自分達でいたいと思った。
「ハンス兄さんが、反乱軍を立ち上げた。しかも、王の証もあの人の手の中にある。」
そう言うエリオットからはなんの感情も読み取れなかった。
「だからね。僕達はただ待っていれば良い。ハンス兄さんが勢力を伸ばし、力をつけて、僕達を滅ぼしにくるのを。それまで、それなりに反乱軍を鎮圧させて、それなりに抵抗の意思をみせて。それなりに、僕達が絶対に討ち滅ぼさなくてはいけない悪だと印象付けるような酷いことをして回って。僕達は誰もに死を望まれるような、死んで喜ばれるような存在になって。ハンス兄さんが築く新しい国を、誰もが手を取り合って生きていける平和な国とするために、絶対悪として生涯を終えよう。大昔、魔王と勇者とこの国の王が交わした約束を果たす時が来た。ユーリがいなくなった今、魔王役は僕達だ。だから、アル。僕と一緒に魔王になって、僕と一緒に滅びてくれ。」
そう言って笑うエリオットを見て、アルバートはもちろんだと、泣きそうな顔で笑い返した。




