45.強制帰還
ぼやけていたはずの視界が急に明瞭になる。
だが目の前にあったはずのニーナの顔が消え、風景も突然に機械的な銀一面切り替わったことに、アッシュは一瞬何が起きたのかわからず混乱しかける。
(ああそうか。竜に攻撃されて、それで……)
その少し前に起きたことを思い出しつつ、アッシュは自分が”死んだ”ことを理解する。
(ということは……ここは変換機の中か……)
ふと外に意識を向けると、ブザー音が聞こえてきた。何かあったのだろうかと考えている間に、変換機の扉が開いて見慣れた無機質な壁が見える。
だがいつものように変換機から出ようとしたところで、アッシュは自身の身体の違和感に気付く。出ようにも脚が全く動かないのである。
(あ、れ……)
身体はそのまま前方へと崩れ落ちるように倒れる。と、その身体を何者かがふわりと受け止めた。
「はーい、もう大丈夫ですよー」
受け止めたのは、ラミア種の女性職員だった。強靭な蛇の下半身を上手く使って衝撃を逃し、アッシュを柔らかくキャッチしたのだ。
職員は両腕でアッシュの身体をヒョイと持ち上げると、隣りにいたケンタウロス種の女性の馬部分に載せられたマットに寝かせる。
「テレーゼ、医務室まで運べばいいの?」
「そうですねー。医務室まで運搬お願いしまーす」
「はいな」
ケンタウロス種の女性は返事と共に、ゆっくりと歩き出す。その後ろをテレーゼと呼ばれたラミア種の女性が付いていく。
天井しか見ることができない状態ではあったが、いつも入ってくる扉とは違う方へと向かっているのはわかった。
医務室に連れて行かれるらしいことは会話からわかってはいたが、全く動けない状態でどこかに運ばれることに、アッシュは言いようの無い不安を感じる。
「アッシュさんは”死亡体験”は初めてでしたねー。身体が動かなくて困惑されてるんじゃないですかー?」
「……」
返事をしようにも口すらも動かない。
「正規の方法以外でエーテル体から強制帰還すると、しばらくは身体が動かなくなりますからねー。喋ることもできないですよねー」
わかっているのなら何故質問をしたのだろうかと考えていると、ガチャリと扉を開ける音が聞こえてくる。
仕切りを境に天井の色が変わり、それと同時にアッシュの鼻に消毒液の独特な匂いが届く。
「着きましたよー」
テレーゼは再びアッシュの身体を持ち上げると、ベッドに静かに寝かせる。改めて視界に入ったテレーゼはナース服に身を包んでおり、医務担当であることが伺えた。
「ヴェラさん、ありがとうございましたー」
「どういたしまして。また何かあったら言いなさいな」
ヴェラというらしいケンタウロス種の女性職員は、肩越しに手を振りながら医務室から出ていく。医務室にはテレーゼとアッシュだけが残った。
おそらく、身体が動くようになるまでここで寝ていろということなのだろう。
そんなことを考えていると、テレーゼがアッシュの枕元で何かをセッティングし始める。そしてパチッとスイッチを入れる音が耳元で響く。
「さて……アッシュさんは今動けない上に声も出せない……。つまり今誰かに襲われても、まず気付いてもらえない……ですね?」
先程までの間延びしたような喋り方から一転、紫色の長い髪を耳に掛けながら顔を寄せて怪しげに囁くテレーゼに、アッシュは恐怖感を覚える。
それと同時に周囲に広がる甘い香りと共に、意識が混濁してくることに気付く。
「ふふふ……お香も効いてきましたか?」
先端が割れた長い舌をチロリと出し入れしながら、縦に長い瞳孔でアッシュを見下ろす姿は、完全に獲物を捉えた蛇のものだった。
本能が”逃げなくてはいけない”と告げている。それにも関わらず全く動けないという絶体絶命の状況に、アッシュの額から脂汗が一筋落ちる。
「……冗談ですよ。安眠の香です。今はゆっくりお休みください」
そう言ってテレーゼはニコリと笑うと、下半身をくねらせてどこかへ消えていった。
唐突に緊張感を解かれたアッシュは、動かない表情のまま呆けると共に心からの安堵を覚えたが、それも束の間に深い眠りに落ちた。
***
ギルド本部へと戻ったアイリとレイはニーナに連れられて、普段入ることのないギルドの裏手側である職員用通路へと入った。
少し歩いたところで、ニーナが”医務室”と書かれた部屋の扉をノックする。
「テレーゼさん、入りますよ」
「はーい」
間延びした返事と同時にニーナが扉を開ける。
「あらニーナ様。そちらがアッシュさんのお仲間ですかー。アッシュさんはあちらですよー」
テレーゼが指差した方へとアイリが走り寄って行き、その後ろをレイが速足で付いて行く。
アイリがベッドとの間を仕切るカーテンを勢いよく開けると、アッシュはそのベッドの上で横になっていた。
「寝てる……」
「強制帰還後はしばらく動けないですからねー。今はお休みしてもらってますー」
こちらの不安など知らずに完全に寝入っているアッシュに若干の不満を覚えつつも、特に大きな問題が無さそうな様子に、アイリは安堵に胸を撫で下ろす。
「アイリさん、レイさん」
後ろからニーナが2人に呼びかける。
「先程も言いましたが、帰還すればエーテル体で受けた外傷は全てリセットされます。ですが……」
ニーナの気まずそうな表情につられて、アイリも不安そうに顔を歪める。
「精神はそういうわけにはいきません。死を体験したという事実は、確実にアッシュさんに影響を与えています。ギルドとしてもサポートはしますが、最も助けになるのは一緒に行動するお二人です」
「……」
「少しの間、狩猟の依頼は控えた方がいいでしょう。その辺りの補佐をお願いします。では、私はこれで」
そう言ってニーナは医務室の扉へと向かっていく。と、何かを思い出したように再びアイリとレイの方を振り向く。
「最後に1つだけ。これはアッシュさんも含めてです。今日このようなことがありましたが、どうか”死”には慣れないでください」
そう言って扉へと向き直りながら「私のように」と呟いた声は、2人には届かなかった。
***
「ん……あれ、寝てた……?」
目が覚めたアッシュがムクリと起き上がる。日は既に傾き、赤い光が窓から差し込んでいた。最後に時間を確認してから、既に4,5時間は過ぎていることになる。
(強制帰還させられて身体が動かなくて……テレーゼさんに受け止められて、ヴィラさんに運ばれて……)
名前こそはっきりと出てくるが、医務室に運ばれた辺りからの記憶が覚束ないことに疑問を感じつつ頭を掻いていると、アイリがカーテン越しに飛び込んでくる。
「アッシュ! もう動ける?」
「う、うん。もう大丈夫だよ」
アイリの勢いに戸惑うが、すぐに自分がどれだけ心配させてしまったかに気付いて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ベッド下から靴を取って脇に置いたレイに「ありがと」と言いつつ、アッシュはベッドから降りる。
カーテンを開けて辺りを見回すと、左奥から引き摺り音と共にテレーゼが現れる。
「あらー。もう回復されましたかー?」
「お陰様で。ありがとうございました」
アッシュはテレーゼに頭を下げる。
「顔色も良いですし、大丈夫そうですねー」
「はい、では失礼します」
そう言って3人は医務室の扉へと向かう。
「またいつでもどうぞ。ふふ……」
背中越しに掛けられたテレーゼの言葉に、アッシュは背筋を撫でられたような感覚を覚えるが、それがなぜなのかわからないまま医務室を後にした。
アッシュはアイリとレイの後ろに付いて狭い廊下を歩いていく。何度か曲がったことから来た時とは別の道だなと考えたところで、アイリが正面の扉を開ける。
扉を出ると、そこは窓口のドアの隣であった。いつも目に入る光景とは若干視点が異なるが、アッシュは改めて”帰って来れたんだ”という思いに少し胸が熱くなった。
エレベーターで下の階へと下りながら、アッシュは自分の胸と首に手を当てて、自分が一度”死んだ”ということについて考える。
竜の爪はアッシュの首元を正確に捉えており、反応が遅れたアッシュは直撃を食らい強制帰還に至った。だが今になって振り返ると、それが悪い夢だったようにさえ思えてくるのだ。
息が出来ない苦しさは思い出すだけでも気分が悪くなる程だったので、二度と経験はしたくはない。
とは言えその苦しさも続いたのは、ほんの数分ほどのことである。そして強制帰還させられた後は体が動かないという問題こそあったものの、それに伴う苦痛の類は一切無かったのだ。
その出来事があまりにも現実離れしており、まるで”死”との線引きを曖昧にしていくような感覚さえあった。
それがとても危険な思考だとは理解しつつも、一度嵌ってしまうと抜け出せない罠のように頭を過るのだ。
それを振り払うように、アッシュはポータルを抜けて拠点に入ったところで深呼吸をすると、気になっていたことをアイリとレイに投げ掛ける。
「ニーナさん、強かったね」
「ギルド長らしいよ」
「え! そうなの!?」
あまりにも予想外な事実に、アッシュは思わず大きな声を出してしまう。
「ギルド長兼受付係なんだって。Sランクレンジャーでもあるから、今日みたいに本当に大変な時は出ることもあるって言ってた」
「はぁ……」
パンデムを代表する組織であるギルドのトップにして、レンジャーの最高峰であるSランク、そして本部の顔とも言える受付係。さすがに詰め込みすぎな感じが否めない。
(これがパンデムの感覚なのかなぁ……)
そう思案していたアッシュに、アイリが言葉を続ける。
「そうだアッシュ。ニーナさんからの伝言。私達も含めてだけど、『どうか”死”には慣れないでください』だって」
「……わかった。ありがとう」
まるで自分の思考を読んでいたかのような伝言にアッシュは驚きつつも、先程の考えを改めなければならないと強く感じた。
今はまだ時間が経っていないために苦しさが鮮明に記憶に残っている”死”だが、それすらも日が経てば薄れていく。
そしてもし今後その思考を持ったまま回数が重なることがあれば、更に”死”を軽く感じるようになり、その時にはもう戻れなくなってしまうかもしれない。
”死”の重みは忘れてはいけないのだ。常に意識を置いて決して慣れてはいけない存在。それを心に留めるようにという意味なのだろう。
ニーナからの言葉を深く心に刻みながら、アッシュは夕焼け空の反対に浮かぶ月を仰いだ。