第六章 十一話
周囲でもこの異様過ぎる状況に気が付いた調査隊の面々が騒ぎ出していた。
調査隊の仲間でこの状況が何なのか知っているのはレオニスだけらしく、説明に手間取っているようだ。
現状を把握するために全員が輪になって外を見渡す。
子ども達はポムのそばに近寄り身を寄せ合って、事の成り行きを静かに待っていた。
そうしている内に、そこにいる全員がある場所からの怖ろしいまでの静かな威圧感を感じ始めた。
子ども達は急いでその力の放射から身を守るためにポムの背後に隠れた。
そして全員の瞳がその場所に引き寄せられる。
とても怖ろしいから見たくないのに、その場に目を向けずにはいられなかった。
いつの間にか、そこには人の大人くらいの大きさはある白銀の美しい毛皮を持った狼が座っていた。
細身でしなやかな体躯のその狼は、女性的な雰囲気を持っていたが、そこにただ座っているだけなのにとても威厳がある佇まいを感じさせた。
その狼が身に纏う雰囲気も普通ではないが、見た目も変わっているところがあった。それは四つの切れ長の瞳と二本の長い尻尾だ。
子ども達はポムのわきからその姿をのぞき見て、前に出会った同じ個体だと思った。
怖さはかなり感じるが、こちらを眺める優しい瞳の色は前と同じ感じがするのだ。
その内に周りで気を失って倒れる者が続出しだした。
普通の人ではこの神々しい気配に耐えきれないのだろう。
残っているのは平然としてその狼を興味深く眺めているポムと、その後ろに隠れているトーマとキルチェとミラー、あとは足を踏ん張って耐えているレオニスと、四つん這いの状態で何とかまだかろうじて堪えているシトだけだった。
この幻獣が生み出した奇妙な空間に陥ると、時間の感覚がまるで分からなくなってくる。
どれ位の時間がながれたのだろう。
じっとしていられないトーマが仲間達に向かってまず口を開いた。
「なあなあ、あれって北の廃墟森で見た奴と同じ奴じゃないか?」
「その様ですが……」とキルチェ。
「私もそう思うわ。姿形がと言うより固有の気配が同じ感じがするの」
ミラーはそう答えてからポムの顔を見上げて話しかけた。
「あの……ポムお爺様。お身体は大丈夫ですか?ごめんなさい。盾になってもらって」ミラーは申し訳なさそうに言った。
ポムは横目でちらりとミラーを見ると何か楽しそうな声音で答えた。
「いや儂は大丈夫じゃよ。こんな間近で幻獣と相対する経験など滅多に出来るものでもないからのう。それであやつがお主らが以前出会った幻獣ということかの?」
ミラーはそっと顔をポムの身体の陰から覗かせてよく観察して答えた。
「はい。身体の大きさとか毛並み、瞳や尾の数の特徴もそうですがこちらを見つめる雰囲気が同じなのです」
キルチェが逆側から顔を覗かせて言った。
「確かにそうですね。なんか凄く怖いんだけど、でもそれほど恐ろしくない感じが一緒です。二度目で慣れてきたってのもありそうですが」
トーマが呆れたように言い出した。
「あれには慣れねえよ。今はポム爺さんの背に隠れているから大丈夫なだけだろ。あん時もミルトに守ってもらったから何とか無事に……」
トーマはそこまで言って思い出したように叫ぶ。
「あっそうだよ!ミルトだ!ミルトを早く探しにいかないと。くそっ!早く出発したかったのに。……何であいつはいま来んのかなあ?」
「何故ですかね?」とキルチェ。
「そんなの見当もつかないわ」とミラー。
ポムは彼らの会話を聞いていて幻獣から目を離さずに言った。
「幻獣の心など誰にも分かるものではない。どんな深淵なる考えを持っているやもしれんしな。だがこうやって普通の人間にも姿を見せる時は、何かを告げる事が多いとされているのじゃが……さて」
しかし幻獣はただそこにいるだけで何もする気配がない。
この幻獣が姿を現してからいったいどれ位の時間が経ったのだろう。
ポムはまだまだ大丈夫そうだが、レオニスですら額に汗をかいて息も荒くなってきていたし、シトはもう顔もあげる気力すらなくなっているようだった。
キルチェがふと思いついたように言った。
「何かを告げようとしているのだったら話が通じるってことですよね?それならミルトの事を聞く事は出来ないでしょうか?あの幻獣なら僕らには馴染みがあるし、僕らが顔を出すとこっちに目を向ける感じもします。たぶん僕らの事は憶えているはずですよ」
「ああ、もしそれが出来たらどんなに良いか……」ミラーは祈るような姿勢で言った。
するとトーマは大きく息を吸い込み、決心を固めたように鼻息を鳴らした。そしてポムの身体の陰から飛び出て完全に身をさらすと、幻獣に向かって大声で叫んだ。
「なあ!狼の幻獣さんよ!なんであんたがここに姿を現したか分からねえけど、ミルトの事を何か知っていたら教えて欲しいっ!あんたも憶えているだろ?前に森の中でずっとあんたと面と向かって見つめ合ったやつだよ。あいつがミルトって言うんだ。あいつがいまどこにいるか知りたいんだよ。もし何か分かるなら俺達に教えてくれ。……あいつは、無事か?怪我……なんかしてないか……」
トーマはそこまで叫ぶと気が遠くなり身体がふらついてきた。即座にキルチェとミラーの手が伸びて、トーマをポムの身体の後ろに引き戻す。
トーマは地面に座り込み、荒く苦しそうな息を繰り返しついていた。
皆トーマのほうを驚いたような顔で見つめた。幻獣にあんな言葉使いで話しかける事など常識ではあり得ない行為だったからだ。
みんながあのトーマの言葉に幻獣がどう反応するか固唾を呑んで見守っていると、始めて目の前の幻獣が少し身動きをした。
二つのしなやかな長い尻尾を小刻みに軽く振ったのだ。
それはまるでトーマの問いに答えるようだった。
その軽やかな尾の動きは、心配はないとか大丈夫だとか言ってくれたかのように感じられた。
しかしその幻獣の動きはそれだけで止まってしまった。
子ども達はミルトの事が心配でたまらなかったが、もうあの幻獣の事を勝手に信じる事にして待つ事にした。
しばらく待ったが何事も起こらないので、子ども達は相談をして、今度はミラーが話しかけてみようという事になった。
ミラーが失礼のない言葉を考えていると、ポムが背後にいる子ども達に話しかけてきた。
「あやつが何かに反応したようじゃぞ」
子ども達も急いで幻獣をのぞき見た。
先程尻尾を振ってから少しも微動だにしなかった幻獣が、耳をぴくぴく動かして右斜め上を見上げているのだ。
皆が幻獣が見つめるその方向に目を向けた。
そこには透き通る様な青空と、空に浮かぶ白い雲が何個かあるだけで特に変わったところは見当たらない。
しかし、しばらく見ているときらりと光る物が、雲をかすめるように飛んでいるのが見えてきた。それは始め昼間の流れ星のように見えたが、すぐに違うと分かった。
その流れ星のような光はどんどんこちらに近づいてきていて、それは宙を駆け何度か飛び跳ねるような動きをしていたのだ。
その光は地上に近づくにつれその輪郭を露わにし、それと同時にこの場に漂う神々しい雰囲気を急激に増幅させていった。
そしてその巨大な光の塊は、静かに座っていた狼の幻獣の隣に地響きをたてて降り立った。
その光の塊は黄金の輝きを放って目を向けるのがつらくまぶしい程だったが、やがて光量を落として次第に狼の姿を現してきた。
狼の姿と言っても初めに来た女性的な狼の幻獣とは違い、雄々しく荒々しい雰囲気を纏い、二階建ての建物ほどの巨大な体躯を持った黄金の毛皮を持つ大狼だった。
その大狼の幻獣が放つ神々しい波動は凄まじく、シトはその姿をひと目見る前に気を失ってしまい、レオニスでさえも片膝を地面につき両腕を顔の前で交差させて何とか耐えている状態だった。
ポムですら両手足に力を込め、普段見かけないような表情でその波動に耐えている。
しかしそれは半ば苦しそうだが、目は興味深げに見開かれ口元が若干上がっているような奇妙な表情だった。
ポムは興奮を隠せない口調で呟く。
「……おお、まさかこの目で見る時が来ようとはな……!」
子ども達はこの目の前の圧倒的な存在感を放つ神々しい幻獣を目にして、畏怖や感動で心を乱されて声も出せなかったが、ポムの声でやっと我に返る事が出来た。
ミラーが唾を飲み込みそっとポムに訊ねた。一瞬で喉がからからに渇いている。
「……ポムお爺様、あの大きな獣をご存じなのですか?あれも幻獣……なのですよね?」
ポムは目の前に存在する神々しいものから目を片時も離さずに答えた。
「うむ。と言うかお主も聞いた事はあるじゃろうて。あれこそが幻獣の王たるもの、空を駆ける流れ星の正体、浮遊大陸ラビリオンの主とも謂われる〈幻狼王フェンリル〉じゃよ」
ミラーは驚きで息を呑んだ。
「ええっ!あのフェンリルですか?あらゆる伝説や伝承、絵画や壁画に出てくる世界一有名な幻獣の……!」
「うむ、そうじゃ。あの雄々しい狼の風貌、黄金色に輝く毛並み、巨大な体躯、そして胸元にある剣のような模様、さらにこの強烈な幻気……間違いはあるまいて」ポムの声も若干うわずっていた。
トーマも何とか驚きの呪縛から抜け出し大興奮していた。
「おいおいおい……。いやいやいや……!でかいでしょ?なんだよあれ!ちょっと格好良すぎだろ!すげえ……まじすげえ……超絶すげえっ!」
キルチェのほうも我に返っているようだが終始無言だった。しかし目をしっかと見開いて鼻息荒く食い入るように見つめていた。キルチェの場合は静かな大興奮というのかとにかくこの光景を目に焼き付けようと必死になっていたのだ。
ミラーはポムの背に手を当てて緊張と不安を秘めた声で訊ねた。
「そんな存在が何故ここに現れたのでしょう?しかもこれで二体同時にという事になります……。そんな話聞いた事もありません」
「うむ確かにのう。だが幻獣に出会う事自体があまりあり得る事ではないしな。これは何かの神託を示唆しておるのか……それとも……?」
ポム達が緊張と不安と興奮が複雑に混ざり合ったような心境で幻獣達を見ていると、前からいた女性的な狼の幻獣が幻狼王の首筋の上側をじっと見つめているのに気が付いた。
その見つめる表情は優しげでなにか楽しそうでもあった。
ポム達がみな何だろうと幻狼王のその箇所に注目していると、その黄金の毛並みの中で何かが動いているのが分かった。
かすかにひょいと出てきたものが人の手のようにも見え、それはすぐに引っ込んで見えなくなったが、それは首筋を回り込みもぞもぞと前のほうに向かってきている。
幻狼王はというとその箇所がくすぐったいのか、目を閉じ首筋を伸ばしてそれに耐えているようにも見えた。
その毛並みの中を動くものの正体を皆が期待の込めた目で見つめていると、その何かは首の前まで来て自分の重さに耐えきれなくなったかのように毛の中から滑り出てきた。
ずっと見守っていた皆から安堵の溜め息と小さな歓声があがった。
その大狼の毛並みの中にいたのは期待通りミルトだった。
しかも見るからに元気そうで、とても楽しそうに幻狼王の毛にぶら下がって笑っている。
ポムとレオニスはミルトの無事と、更には人が幻獣と戯れているという現実離れした光景を見たせいで、精神集中が完全に途切れてしまった。
ポムは何とか地を踏みしめ立て直したが、レオニスはもう限界で地に突っ伏し気を失った。しかし彼の表情は何か晴れやかな感じだった。
ミルトは器用に毛を掴みながら降りてきたが、途中で幻狼王が前足を上げて作った足場を使って地上に降りていた。
ミルトは地上に降りると、ありがとうと礼を言いながら幻狼王の巨大な前足を撫で、そして今度は雌の幻獣のほうへ行き、そっちにもありがとうと言いながら首筋に抱き付いた。
両者とも特に反応は見せなかったが尻尾がふわりと振られたのが見えた。
ミルトは幻獣達に挨拶をすませるとポム達の待つほうに向かって来た。
トーマとミラーが出迎えようとしたがポムに後ろ手に止められた。
「まあ、出るのはやめておくんじゃな。今は儂の背から出た途端に昏倒してしまうぞ」
トーマは慌てて身をすぼませてポムに問い返した。
「えっ?そんなに?だってミルトはあんなにぴんぴんしてるぜ?」
「ふむ、不思議な事でもある。確証はないが龍精創生の技が影響しているのかもしれぬな」ポムは考えながら答えた。
取りあえず大人しく待つ事にしたポム達の元に、ミルトが駆け寄って来た。
ミルトが目の前に来た途端に、ポムがずっと感じていた強烈な幻気の負荷が突如なくなり、ポムは前につんのめりそうになった。
ポムはむうと唸りこの現象について考え込みそうになったが、今はその時ではないと頭を振り、その欲求を頭の片隅へと追いやった。とにかく目の前のミルトは見るからに元気そうで安心する事が出来た。
ミルトは皆に向かって明るく言った。
「ただいま!」
ポムはそれにうむと満足げに頷き、ミラーは優しい涙ぐんだ声でおかえりなさいと応え、トーマとキルチェは遅いよ馬鹿と明るく悪態をついて返事を返していた。