第六章 九話
ミラーが精霊術を立ち上げその感知範囲を拡大していく。
その感知方法は簡単に言うと、ミルトの龍精を用いて自分の水の力を増幅させて、水の精の波動を全方位に発して周囲の物質が持つ水に共振させ、その跳ね返ってくる波動の強弱を毛摸乃耳で読み取るものであった。
ミラーは周囲の音とその得た波動の情報を頭の中で組み上げて、まるで上空から全てを俯瞰して眺めているような光景を思い描く事が出来るのだった。言うならば反響定位を精霊術で高度に昇華するような方法である。
ミラーを中心として半径二百歩以内の森の中に潜む獣の位置がだいたい分かってきた。
ミラー達のいる場所から森の始まりまでの距離はだいたい百五十歩くらいで、今の感知範囲内にそんなに違和感のある存在は見つけられない。
ミラーはミルトにこの結界の境界に沿ってゆっくり移動して欲しいと頼んだ。
ミルトは滑走術の使用中なのでゆっくり歩くのは難しいらしく、やけに慎重に足を運んでいた。
境界線を半分くらい回ったところでミラーは確かに何か違和感がある状況を見つけてミルトの耳元にささやいた。
「ミルト、慎重に止まって後ろを向いて。見つけたと思う」
ミルトは滑らかな動きで反転しその場に止まった。
「やった!ミラー。どの辺?」ミルトはミラーのほうに首を回してそっと訊ねた。
「今ミルトが向いている方向を零点だとしたらちょうど六字の方向、この荒れ地とあの森の境の茂みの中。あの赤い花を付けている茂みの奥ね。あの辺りにこの地ではもうめったに聞かない耳の長い小動物の気配があるわ。動きも飛び跳ねる感じでほんとに兎みたい。でも決定的な違和感の正体は、その小動物のすぐそばに獰猛そうな息づかいの大型の獣が何匹もいる事なの。普通だったらそんなのあり得ないわ。だって食べられちゃうもの」
ミルトはこくんと頷いた。
「うん。それは決定的だね。間違いなく魔呼奴だ。でもどうしようか?ここから強襲かけると言っても、あそこまで結構距離があるからね。すぐばれちゃいそうだよ」
ミルト達は遅れて付いてきていたトーマ達を待って合流して状況を説明した。
二人は話を聞き終えてキルチェはそのまま黙って考え始めたが、トーマがその魔呼奴が隠れている場所ばかりを見るので、ミルトとミラーは内心はらはらしていた。
司令塔役であるキルチェが決心したように皆に目を向けた。
「ポム爺さんやレオニスさんともきちんと相談したいところですが、そうも言ってられません。まごまごしていると警戒されるか逃げられる可能性もありますからね。僕らだけで事を進めましょう。取りあえず、遠くから発見した時の為に前もって考えていた策があります。まず今のところ相手との距離があり、周囲に邪魔者が多くいる事から正攻法では無理です。最悪でも相手の意表をつきその場の全員を困惑させないといけません。ではこれからの作戦を説明します」
キルチェはトーマを見て言う。
「トーマ、君は石の弓で静かに矢を呼び出しておいて下さい。僕らの背に隠すような感じで、あと矢の数はかなり多めで大きさは普通くらい。それで今回はあの技をやってもらいます」
キルチェは指を一本立てて宙を飛ぶように動かした。
トーマは驚いたように目を見開いた。
「おま……あれってあれか?誘導の矢か?あれはまだまだ修行が足りてなくてほとんど思った所には行かないんだぜ」
キルチェは落ち着いた様子で答えた。
「大丈夫です。狙いはかなり大ざっぱですから。ここから上空に向かって打ち出してそのまま相手のいる森の頭上に打ち込めば良いだけです。さらに言うと狙いは少し奥のほうが良いかもしれませんね」
トーマは顔を曇らせていたが、それならば何とか出来そうと思ったようだ。
トーマが弓に語りかけて矢を喚び出し始める。その矢は宙に直立するようにして次々とその場に出現してきた。
「ではミラー、トーマに魔呼奴の詳しい現在位置を教えてあげて下さい」
ミラーは少し考えてミルトに細かく位置を変えてもらってから、ミルトの口からトーマに伝える事にした。
ミルトが言う。
「こほん。トーマ良いかい?魔呼奴の位置は僕の丁度真背中の茂みの奥。そこから十歩ほど中に入った背が低くくてすらっとした丸い葉がたくさん付いている木の真下にいる、らしい。たまに移動するけどまたその場所に戻るからそこにいると思ってかまわない……とミラーは言ってる」
トーマは良く分かったと頷いた。次にキルチェはミルトに指示を出した。
「ミルトはまだ火宿りの炎撃準備はしないでね。トーマが矢を打ち出した後でも充分間に合うから。あまり目立つと向こうにこっちの準備がばれる可能性がありますからね」
順調に静かにミルト達の作戦の準備が進んでいたが、その静けさは突如やぶられる事となった。
ミルト達の真横の森から顔を出した痩猟犬の一匹が、戦闘準備を始めている子ども達を見て、威嚇と仲間に警戒を促す大きな鳴き声を上げたのだ。さざ波のようにその鳴き声が伝播していき、森の中が次第に騒がしくなってきた。当然魔呼奴がいる一団も動き出す。
「あっ!魔呼奴が森の奥に入ろうとしているわ!」ミラーが焦った声で叫ぶ。
ミルトがみなにそれを伝える。キルチェはトーマの石の矢を数えていたがもうしょうがないと作戦の決行を告げた。
「トーマっ!全弾撃って下さい!ミルトは炎撃準備!ミラーは索敵の継続をお願いします!」
トーマは矢を全てつがえると上を向いて構えて打ち出した。
「行けえっ!石筍呼弓っ!我が意に応えその向きを変えて飛べ!!」
矢は一度空に向かって飛び出し、勢いはそのままで弧を描いて下に向かって曲がり始めた。やがてその矢は全てが地上に向かって飛び、一気に森に降り注いだ。そして地面に着弾した矢が次々と炸裂し辺り一帯に破裂音が鳴り響き土煙を巻き上げた。
キルチェがミルトに訊ねた。
「ミルト。ミラーに聞いて。状況はどうかって」
ミルトが心でミラーに問いかけるとミラーは難しいような声で答えた。
「駄目ね……よくわからないわ。今は雑音がひどくて。矢の六本が木に当たって一本が獣を直撃したみたい。それが魔呼奴かどうかは分からないわ。魔呼奴の位置的にもう少し土埃がおさまってくれないとはっきりしたことは……!」
ミラーは森から流れ出た砂埃に紛れて何かがちらりと見えてミルトに向かって叫んだ。
「ミルトっ!あそこっ!」
ミルトはミラーの声ですぐにそれに気が付き、地を蹴って一気に魔呼奴に向かって飛び出した。
正面の茂みから白い小動物が煙に燻されたかのようにして森の外へと出てきたのが見える。純白の体毛に長い耳、そして気味の悪い細く長い灰色の尻尾、間違いなく魔呼奴だ。
ミルトは風のような疾走で近づいていった。まだミルトに気が付いていない魔呼奴との距離がどんどん縮まっていく。
ミルトは剣で切りつけられる間合いに入ったと確信して火宿りを持つ右手に力を込めた。
しかし一瞬の差で森の中から背から血を流した牙牛が躍り出てきた。
その牙牛はミルトと魔呼奴との間に入り込み主人を守るかのごとく立ち塞がる。
ミルトはその牙牛を相手をしないように急激に進む向きを変え、改めて魔呼奴目がけて突っ込もうとした。
しかし今度は手前の茂みから大山椒魚の魔獣が這い出てきて、黄色い霧状の毒液を辺りに噴霧してきた。
さすがのミルトもこれに無理に突っ込む事も出来ず、一度体勢を立て直すしかなかった。
だがミルトに考える隙を与えずに、今度は手負いの牙牛が毒の霧を浴びながらミルトのほうに突進してきた。牙牛と大山椒魚の決死の合体攻撃で、もうミルトは大きく回避するしか手段がなかった。
ミルトは流血と毒の霧で弱りつつある牙牛はひとまず無視して、毒の霧を大きく迂回して魔呼奴を追う事にした。
だが奴はもうその場から逃げて森の中を駆けているらしい。
しかしミラーの索敵の術のおかげで位置は丸わかりだった。
ミルト達は真っ直ぐ魔呼奴のいる場所に向かいたかったが、次々に獣が立ち塞がり邪魔をしてくる。
ミルトは足の速い獣は倒して、そして足の遅い獣は極力無視して魔呼奴を追った。
追っている内に獣の多い地帯は抜けたらしく、次第に魔呼奴との距離の差が詰まってきた。
そしてやっと姿が見えたと思ったら、またあの気持ちの悪い鳴き声が聞こえてきた。
魔呼奴が走りながら鳴き声を奏でているのだった。
ミルトは耳を塞ぎたい欲求と闘いながら走っていた。
その時ミルトはその嫌すぎる鳴き声のせいで、ミラーの警告の声に反応するのが遅れてしまった。
「ミルトっ!頭上六字方向から鳥形の獣っ!」
はっと気が付いて身を伏せようとしたのと、鳥の鋭い羽が頭をかすめたのがほぼ同時だった。
鋭い痛みがしてミルトはとっさに頭を触ってみた。
触ったその手を目の前に持ってくるとその指先に真っ赤な血が付いているのが見えた。頭の傷は少し痛むがあまり深くはなさそうなのが幸いだった。
ミルトは急いで身を起こして前方を見た。
そこでさっき襲ってきた鳥形の獣が、魔呼奴の身体を足で掴んで持ち上げながら飛んで行こうとしているのが見えた。
その鳥はまだその体勢が慣れていないらしく動きが鈍いが、慣れてきてしまい頭上の大空に羽ばたかれてしまったらもう手の出しようがない。
ミルトは急いで追いかけたが魔呼奴との距離はなかなか詰まらない。やはり障害物の少ない空中のほうが分がありそうだった。
だが鳥型の獣も頭上を覆う樹木の葉が濃すぎる為に、あまり高度が上げられずに簡単には大空に羽ばたけないという向こうにも不利な状況があった。
ミラーはミルトが追跡しやすいように道筋を細かく指示していたが、魔呼奴の向かう方向の地形の変化に気がついて慌てたようにミルトに告げた。
「あっ!いけない!もう少しで森が途切れてしまう。しかもその先は崖よ!」
ミルトは怖れていた事が現実となり狼狽するようにわめいた。
「うぐっ……まずい!このままだと完全に逃げられてしまう。今逃がしたらもうこんな機会は来ないんじゃないか!」
「そう、警戒されてどっかに籠もられたらお終いよ。だから今逃がしちゃ駄目!」
「だったらどうすればいいのさ!」走りながら追うのに余裕がなくなってきたミルトは口調が荒くなってしまっていた。
言葉に詰まったミラーは必死に考え始めた。自分の持てるだけの全ての知識、あらゆる過去の記憶、そしてそれらを飛躍させた想像力まで総動員して必死に考えた。
……考えるのよ!考えるの!諦めたらそれで終わり。何か手はあるはず……、どこかにまだ隠された道筋、見つかっていない答えがきっとあるはず。そう、相手は飛んでいる鳥……、もしこのまま追っていて真下まで近づけても剣が届かなかったらどうしようもない。ならばどうする。跳躍して相手を斬る?ううん、駄目だわ。確かミルトはそんな訓練は全くしていないはず。なら剣を投げつける?自在に空を舞う相手に剣を投げつけて命中させるなんて……しかもこっちも全力疾走しながら?……考えるまでもなく無理だと分かる。でも飛ぶ相手にこちらも飛び道具を用いる手段は正解なはず。それが定石だって前にキルチェが言っていたわ。でも今ここに弓と矢のような飛び道具なんて……。
ミラーはほんの少し胸の奥がざわついた。記憶のほんの片隅に光輝く何かがある気がする。
ミラーはその心引っかかったものを思い出そうと懸命に考えた。
……あれは、そう確か……みんなで剣の命名の話をしていた時……。みんなで火宿りの剣の名前を考えて、ポムお爺様に報告した時にポムお爺様が笑いながらおっしゃったあの言葉……。
〈単純ながら奥が深い。さしずめその剣の奥義は火の矢を鳥のようにして撃ち出す火矢鳥じゃな〉
そうよ!ミルトには精霊術がある。想像力しだいで無限の可能性の秘めた術が、奇跡を起こせる術が!ミルトならきっと……!
ミラーは希望を見いだしたような弾む声でミルトに向かって言った。
「ミルト!火矢鳥よ!」
しかしミルトは怪訝そうな声で答えた。
「ええっ?火宿りなら火力充填状態でちゃんと持っているよ」
「違う違う!私が言っているのは火宿りの奥義のほうの火矢鳥よ」
ミルトはすぐにぴんときたようだが、困った様に顔をしかめている。
「あれか……。でも無理だよ。あれは名前だけでまだほとんど考えてもいないし……」
ミラーは心を鬼にして無理を承知で訴えた。
「そう。なら今考えて!もう言葉としてはちゃんと完成していると思うわ。火宿りの火の力を矢の様な形に変えて鳥のように空を舞わせて相手を射て貫き燃やし尽くす技よ。どう?これならミルトの想像力しだいで何とかなるはずよ。お願い……どうか頑張ってみて……もうこれぐらいしか私には思いつかないの」
ミルトは最後に涙まじりの声になったミラーの話を黙って聞き終えて、自分を心底情けなく思った。
自分は何も考えもせずに、ただ相手を追う事に夢中になって難しい事はミラーに任せっきりだと気が付いた。
自分は実際に行動をする側だと思っているのなら、誰かが必死に考えた事に対して簡単に否定の言葉を発してはいけない。考えてくれた相手に対して失礼極まりない事ではないか。
ミルトはすぐに深く後悔したが、それに報いるには相手の言葉を信じて試行錯誤をして、それを最後までやり遂げるしかないと理解した。
ミルトはミラーに決心のこもった声で話しかけた。
「ごめんミラー。やってみるよ。……ううん、やってみせる!見ててね、僕の火宿りの剣の奥義・火矢鳥を!」