第六章 五話
ミラーはずっと全神経を頭につけた耳に集中して歩いていた。
動物が起こす存在音を聞き漏らさないように慎重に耳を研ぎ澄ませて、風の起こす木々のざわめきや虫のうごめく音、小動物のたてる微かな足音を聞き分ける努力をしていたが、特に何もおかしな音を感知することなくだいぶ森の奥地にまでやってきていた。
ミラーは異変を告げる音が何も聞こえなくて安心していたが、道の途中から虫や鳥や獣のたてる音があまりにもなくなり過ぎて、これは何かおかしいのではと思い始めていた。
いつもの森なら周囲にたくさんの小動物の気配はあるはずなのに今はほとんどない。
今かすかに聞こえるのは一匹の飛び跳ねる小動物の足音だけで、それはたぶん兎かの何かの小動物だろうとミラーは推測していた。
それは街道を向こうからこちらに向かって近づいて来ている。
そこの道の曲線部を抜けるともうすぐその姿が見えてくるはずだ。
ミラーはその事を皆に報告すべきか悩んだが、特に問題はないだろうと判断して言うのはやめておいた。
ポム達一行が道を曲がると同時に、向こうの曲がり角から一匹の小動物がひょっこり出てきた。距離的には五十歩くらいの距離だろうか。
少年達は久し振りに見る動物だったので多少緊張したが、一見可愛らしい外見だったので顔を和ませてそれを見ていた。
その小動物は耳が長く兎のような外見で純白の毛を生やして飛び跳ねるような愛くるしい歩き方をしている。
しかし良く見ると異様な点が二つあった。
一つは尻尾だけ毛が全くなく細くひょろ長い気味の悪い形をしていた。
もう一つは瞳の色が左右違う点だ。片方は青くもう片方は赤い。
子ども達は目の前のその獣を可愛いと思ったら良いのか、不気味と思ったら良いのか分からず困惑した表情で眺めていた。
目の前の兎のような小動物もいきなり現れた旅人に戸惑っているようにも見える。
その時いきなり少年達の後ろから大声が聞こえた。
その声に子ども達はかなり驚かされた。
「あっ!!いましたっ!あれです!あれが魔呼奴ですっ!!」
それは誰かと思ったらナマスだった。
ナマスが突然子ども達の背後に現れて警告を発したのだった。
子ども達はポムの守護霊をしているナマスの存在は知っていたが、滅多に姿を表さないのでいきなり出てこられてかなりびっくりしていた。
ポムが後ろから歩み出てきて目を細めて前の様子を眺めた。
「何じゃと?あれがそうか。遠目だが儂にはただの兎に見えるぞ」
「はい。あの姿……奇妙な尾と瞳の色は間違いありません」ナマスは珍しく声を荒げている。
キルチェはいち早く我に返り、自分達の大事な目的の一つを思い出した。
それはもちろん〈魔呼奴討伐〉である。
キルチェは皆に指示を出した。
「ミルトっ!トーマっ!戦闘準備!」
二人は慌てて準備を始めた。
トーマは矢を呼び出してやっと狙いを定めたが、ミルトはまだ精神集中の段階だ。
この旅の戦闘で初めて完全に後手に回ってしまっている感じだった。
魔呼奴は静かにこちらの様子を窺っているように見える。
キルチェは取りあえずの指示は出したが頭の中は大混乱に陥っていた。
準備を終えたトーマから矢を打ち始めたほうが良いのだろうか?
ミルトの準備が完了するのを待つべきか?
それともいきなりポムに任せるべきか?
相手は魔獣とは言え小型の獣。あれでは的が小さすぎてトーマの矢では当てるのはきついだろう。まだだいぶ距離があるからポム爺さんの精霊術の土の杭も難しいかもしれない。へたに攻撃して森の中に逃げられたら厄介だ。でも見たかぎりそんなに素早さはなさそうだからミルトの足ならすぐにあそこまで辿り着けるはず。それでもし逃げられても近づいてさえいれば追いつけるはずだ。でも……。
キルチェの明確な指示が出ない間に魔呼奴が先に動いた。
身を前傾姿勢にして背を逸らし耳と尾をぴんと立てた。
小刻みに尾を揺らし魔呼奴は歯を剥く。
尖った白い歯と赤い歯茎がより一層見た目の不気味さを増している。
まるでこちらをあざ笑っているかのようだった。
ナマスが緊張に満ちた声で叫んだ。
「いけません!奴は招聘術を使うつもりです!早く止めないとこの一帯に奴の手下がどんどん現れてしまいます!」
厳しい顔つきのポムが子ども達に向かって言った。
「よし、この地で奴とけりをつけようぞ。皆覚悟はよいな」
「はい!」子ども達は気合いのこもった声で返事をした。
ついに魔呼奴が気味の悪い怖気が走るような声を出し始めた。耳を塞ぎたくなる声だ。
キルチェがミルトを見て指示を出した。
「ミルトっ!行って下さい!」
準備を終えたミルトが一気に飛び出した。この五十歩と言う距離はミルトにとってそう遠いものではない。
しかしミルトが間を詰める前に魔呼奴の前の空間が歪み何かが形作られてきた。
ミルトはさすがにもうその場には飛び込めず距離をとって立ち止まるしかなかった。
その歪みは一匹の地を這う獣を出現させて消えていった。
その獣は人間の大人くらいの大きさのぬらぬらした皮膚を持った大山椒魚のような姿をしていた。このぬめ光る派手な色の肌の感じが気持ち悪さを感じさせる。
ミルトは相手の見た目がとても火に弱そうな感じがしたので、一気に仕留めようと近づいた。
しかし風響司令でキルチェがミルトに急停止を告げた。
「駄目だ!ミルト止まって!あいつは危険な霧を撒き散らすって!」キルチェはナマスからの助言を得て指示を出していた。
ミルトの目の前でその獣は黄色い霧状のものを背から吹き出していた。
ミルトはすんでの所で止まる事が出来て直撃は何とか避けられた。
しかしつんとする刺激臭がしたと思ったら一瞬で目に涙が溢れてきた。
ミルトはすぐさま飛び退き涙を拭いた。あの距離でこれならばまともに喰らったらどうなることか。ミルトはどっと冷や汗をかいていた。
キルチェの声がまた聞こえてきた。
「ミルト。ナマスさんが言うにはその獣はただ野獣じゃなく魔獣なんだって。名前は〈酸撃の隠れ山椒魚〉って言って、この地域にはいない魔獣なはずで、特徴としてはさっきみたいな霧と……えっ?何ですかミラー?」唐突にキルチェの声が途切れた。
ミルトは不安になったが、目の前の相手から目が離せなかった。
霧に紛れて気味の悪い液体が球になって自分目がけて飛んでくるのだ。
それの速度はあまり早くはないので躱せるのだが、地面に落ちたその液体が草木を溶かし始めているのに気づいて、喰らったらかなりやばいとすぐに分かった。
ミルトは早く魔呼奴を倒したいと思っているのだが、山椒魚の魔獣に完全に足止めされてかなり焦っていた。それに魔呼奴が相変わらずあの獣の向こうで奇妙な鳴き声を立てているのが気になってしょうがなかった。
その頃ポム達の本隊では応戦に追われていた。魔呼奴が鳴き出してしばらくすると森の奥から獣の気配が次々に現れてきたのだ。
ミラーは恐怖に震えた声でみんなに周囲の状況を伝えていた。
「今度は五字の方向に新敵!距離は五十!あっ!更に追加……三字の方向にも、逆の九字の方向からも来ますっ!」
トーマは見えた敵から片っ端に矢を放って敵を近づけさせないようにし、ポムは近寄ってきた敵を落ち着いて精霊術で対処していたが、次第にその数が多くなり次第に皆余裕がなくなってきた。
ポムがこれはまずいのうと思っていると、ナマスが一匹の獣の正体を見定めて叫んできた。
「あっ!ポムイット様!あんな所に魔獣の〈針筵の棘山嵐〉が出現しました!あいつは無数の針を高速で広範囲に飛ばします。こんな近距離で撃たれてしまったら子ども達に当たるのを防ぎきれません!ああっ!やつはもう撃ってきますよ!!」
「ポムお爺様っ!三字と九字から痩猟犬が同時に襲って来ますっ!」ミラーが恐怖に駆られた声で叫ぶ。
「やべえっ!もう矢の召喚が追いつかねえっ!」トーマの心底焦った声が聞こえてきた。
ポムはもうやむを得ないと判断して本隊を隔離する手段を取る事にした。
「〈堅土の盾〉!」ポムは精霊術を行使した。
ポム達の周囲の地面が囲いを創るように立方体状に盛り上がりポム達の姿を一瞬ですっぽりと覆い隠した。
土の壁が出来ると同時に壁の向こう側で何かが無数に当たる鈍い音が聞こえ、しばらくすると土壁を引っかく音と苛立ったような唸り声が聞こえてきた。何匹もの獣が壁のすぐそばをうろついている気配がある。しかしこの土壁には手も足も出ないようだった。
ポム達のいる本隊組はこれでひとまず危機が去って深く安堵の息をつく事が出来た。
しかしミラーはすぐにまた顔を青ざめる事になった。
ミラーの毛摸乃耳がある事実を告げてきたのだ。それはここに群がっていた獣達の半分くらいが揃ってある方角に向かって行く音だった。それはまさしく今現在ミルトがいる方角だ。
ミラーは恐慌状態に陥りそうだった。
「ああっ!ミルトが……、ミルトがっ!ポムお爺様ポムお爺様っっ!!このままではミルトが完全に囲まれてしまいます!何とかなりませんかっ?」
ポムはむうと唸り考え込んだが次の言葉がなかなか出てこない。
少年達二人も悔しそうに目を伏せた。
ミラーは自身の毛摸乃耳のせいで残酷にもミルトを取り巻く状況がどんどん悪くなっているのが分かってしまう。
ミルトはもうここの街道を外れてかろうじて森の中を逃げ回っているようだが、獣達の包囲は二重三重で簡単には突破出来そうもない。しかもその包囲網は次第に狭く密になってきている。
ミラーはミルトが心配で呼吸が苦しくなるほどだったが懸命に頭を働かせた。
何とか……何とかミルトを助けなくては!
あのままではその内に捕まってしまう。
でも今の私達が助けに行く事は出来ない。
もしこの囲いを解いてこの周り獣の獣を全部倒したとしても、私達が駆けつけるまでにまたこちらが囲まれたら同じ事の繰り返しになるだけ。それにただ私達が行ってもミルトの足手まといになってしまう……。
ミラーは激しく鼓動する胸を抑えて猛烈に考えを巡らせていた。
……落ち着いてミラー。落ち着くの。
諦めたら駄目!何か手はあるはず。
私は仮にも精霊術の使い手。ミルトにもあの言葉は何度も言ってきたわ。〈精霊術は想像力次第で何でも出来る〉って!何かない?考えるのミラー。
……私の今の感知能力をミルトに分け与えられたらどうかしら。もしくは私の言葉をミルトに伝えられたら……!
キルチェの道具を使ってはどう?
……駄目ね。あれは相手が見えないと伝えられないって言ってたし。
私の探査術はどう?
ううん、私のあの精霊術では遠くにいる相手と会話をするとか、まるで奇跡のような事なんて、到底無理……。
……え?でも、何……何かしら?何かこの心に引っかかるこの感じは……?
ミラーは焦る気持ちを抑えて記憶を探る。
……そう、そうだわ!私はつい最近そんな体験をしている。
あの時私は遠く離れた人と会話してその場の風景も見る事すらも出来た。そう!あれを使えば……何とか、なるかもしれないっ!
ミラーはポムに向かって叫んだ。
「ポムお爺様!あの時の魔封具をもう一度私に貸して頂けませんかっ!?」