第五章 十話
北の廃墟森を無事に抜けてしばらく歩き、街の閑散域に入った時に、ポムは自分を呼ぶ声に気がついてふと立ち止まった。
ポムは子ども達を先に行かせて、これからの事を考えながら歩いていたので、自分がずっと呼び掛けられていた事に全く気が付かなかったのだ。
「……ポム様……ポムイット様!」
ポムはやっとそれに気が付いて周りを見渡したが、どこから誰に呼ばれているのかが全く分からない。
だいぶ前のほうでミルトとトーマが楽しそうに話をしながら歩いているのが見えるが、彼らではないのはすぐ分かった。
それと今歩いている辺りは、人家の全くないのどかな小道だったので、周りに誰もいないのは明らかだった。
ポムが不審げに周りを見渡していると、またしても近くで声が聞こえた。それでやっと話しかけているのが誰なのかが腑に落ちた。
ポムは少し咎めるような口調で宙に向かって話しかける。
「取りあえず姿を見せなさい。今なら周りには誰もおらんぞ」
するとポムの右正面に体が透き通っている狩人姿の青年が現れた。彼はかしこまった様子で気をつけをした姿勢で立っている。ポムに付き従っている狩人の幽霊のナマスであった。
彼は生前は隠形の技の名手だったらしく幽霊になってもその技は冴え、ポムですらかなり意識を集中しないと存在を感知出来ない程の腕前なのだった。
ナマスは頭を下げてから弁明を始める。
「これは大変失礼を致しました。呼び掛けておきながら姿を消したままでいたとは失礼極まりない振る舞い。どうかこの愚かな私をお許し下さい。ですが私がその様な事をしてしまった言い分もありそれをどうか聞きとげて下さると救われます。私は貴方様のそばに常時付き従わせてもらうと言う過分な職責をこなすにあたり、常日頃自身の気配を消し去る事に尽力しております。貴方様の熟慮黙考を妨げる事は私にとって一番避けるべき事でありまして……」
ポムはナマスに向かって片手を持ち上げて見せた。それを見たナマスはぴたりと話すのをやめて、大人しくポムからの言葉を待った。
ポムは呆れたような溜め息をつき、手を上げたままの姿勢で話し始めた。
「全くお主の話の長さは変わらんのう。まだ謝罪の話しかしておらんぞ。その様な事を話したいが為に儂に話しかけた訳ではあるまい。儂に話そうとした内容をきちんとまとめて簡潔に言いなさい」
ポムが上げていたその手を下げかけると、それと同時に待ちわびていたナマスが口を開こうとする。
だがポムはまたすぐ手を戻して付け足すように言ったのだった。
「よいか、これからの話では謝罪の言葉は一切抜きでじゃぞ」
そう言ってポムは今度は本当に手を下ろした。
ナマスは出鼻をくじかれてしまい、若干つんのめるようにして体を傾げていた。
姿勢を正したナマスは、一度咳払いをしていつも通りに話を始めようとしたのだが、何故か口を開いたまま目を泳がせてまばたきを繰り返している。
その内にナマスは口元に手を当て考え込み始めてしまった。話し好きな彼には珍しいが、どうやらポムに謝罪の言葉を禁じられて話の組み立てが上手くいかないようなのだった。
ナマスはもう埒があかないのか、取りあえず考え考え言葉を口に出し始めた。
「ええと。あ、申し訳……!ごほんごほん。はてさて中々難しい注文をされてしまいました。困りましたね。ですが、これはもうしょうがありますまい。では失礼して……!ん?これは大丈夫ですかね。これも謝罪の言葉に当たるのでしょうか?確かに〈失礼しました〉と言うと謝罪の言葉になりそうですが。ああ、これでは話が進みませんね。大変申し訳なく……!あっとこれはいけません。どうやら私は話の無限回廊に囚われてしまったようです!」
ポムはええかげんにせえとナマスをじろりと冷たい目で睨みつける。
ナマスはぶるりと体を震わすと、すぐに前置きなく話し出した。
「実は先程ミラー様の話を伺っていて、私はある重大な事を思い出したのです。それは私が死ぬ直前に何を見て、そして何を思ってこの世に留まったかであります」
ポムはそれには多少の興味があったので続きを促した。だがその話の長さを警戒して、一応釘を刺すのは忘れなかった。
「ほう。それは一体何だったのじゃ?まあ手短に頼む」
「んぐ……はい。結論から申しますと、私が目撃したのがその〈魔呼奴〉なのであります。魔呼奴と言えば狩人にとって最優先で狩らねばならない獲物の代表格です。あれをそのまま放っておくとその地域の獣の安定した勢力均衡が崩れかねないのです。均衡が崩れると至る所で獣同士の争いが起こり人々の生活にも色々と悪影響が及んでしまいます。あの時私はこの街の北方地区、そうあのビス=マークスの丘付近の単身での調査行でこの街に来る途中でした。調査の旅とは言え魔呼奴を見つけたからには狩らなければとその場で決意しました。その時の奴はまだ若そうな個体で、引き連れている獣もわずかでこれならば私一人だけでも手早く倒せると思いました。そして奴の供回りを難なく仕留め、素早く逃げる奴を追いかけて矢を射かけ手傷を負わせていき、切り立つ岩の壁伝いに追い詰めて次第に距離を詰め、さあ次こそは止めを刺そうと岩壁の角を曲がった瞬間……!私は意識を失ったのだと思います。それから先の記憶はありません。多分そのまま死んでしまったのでしょう」
「何故じゃ?」話に引き込まれたポムは食い気味に質問した。
「何故だかは分かりません。その時見た光景が何か分からないのです。確かに曲がり角に近づくにつれ空気が変わっていく気配はありました。ですがその時の私は奴に近づきつつあり一種の興奮状態になっていたと思います。奴を追って角を曲がると開けた広い場所に出たような気がしました。その時に何か目がくらむような神々しくそして重苦しい光を見たような記憶もあります。……ですが次に気が付いた時には、もうこのような幽体となりこの街を目指していました。混乱の極みにあった当時の私が頭に残していた思いは、この重大な出来事を早いところこの街の狩人組合に報告をしなければと言う事でした。しかし外界の霊的な獣から逃げ回り、魂食いから身を潜め、何とかこの街に辿り着き街の結界に遮られて何年もこの街の周囲をうろついている内にその思いは霧散してしまい……いつの間にかその事を忘れてしまっていました。ああ、今こうして思い出す事が出来て、この報告を遅ればせながらポム様という偉大な方に報告が出来て、私はとても嬉しく思います……」
ナマスは両腕を広げ天を仰ぐような姿勢で感動している。
ポムは話の要点を頭の中で整理し、未だ語られてない事で後に重要になると思われる事を質問する事にした。
「ナマスよ、お主のその出来事があったのが、どの位昔になるか分かるかの?」
ナマスは首をひねり真剣に考え始めたが、その表情から明確な答えはあまり期待出来そうになかった。
そんな悩みきっているナマスにポムは助け船を出してあげた。
「ではナマスよ、お主が霊体になってから世界が真っ赤に染まる狂月期はあったか?」
ナマスはこの質問にはすぐ答えてきた。かなり印象が強かったのだろう。
「はい。一度ありました。あのような怖ろしい時期は忘れようもありません。よくぞまあ、あの狂ったような時を、私は無事に乗り切れたものだと……」
ポムは片手を上げて話をせき止めて次の質問をした。
「では次に慎月期はどうだ?」
ナマスは今度は若干考えてから答えた。
「あ~そうですねえ……あの心安らぐ時期ですか。何度ありましたかねえ?あの狂月期の前に一度あって、そしてその狂月期の後に二度くらいあったでしょうか……」
ポムは未だ悩んでいるナマスは放っておいて、今得た情報でざっと計算をした。
……ふむ。狂月期の周期は七年期で、慎月期の周期は三年期じゃから、単純計算で十年期程前か。と言う事は今あの地にいる魔呼奴は十数年ものか。むう、そうなると今が一番力を持っている成熟期とも言えるのう。今回の狂月期を越えると更に力を蓄えて手がつけられなくなりそうじゃな。
そして次にポムはずっと気にかかっていたナマスの死ぬ間際の話をもう一度考えてみた。
……それに魔呼奴退治もそうじゃがナマスが見たと言う〈光〉の件じゃ。その光の正体は地上に湧き出てしまっている龍精である可能性が高いじゃろう。龍脈の支流から湧き出てしまった異常湧出点という訳じゃ。それは十数年の歳月と今の北方の都市の結界強度の衰退状況を比較してもかなり信憑性があろうて。その地での異常湧出が北に繋がる龍脈に影響をもたらす事で、各都市の結界が弱まるという事態を引き起こしているのであろう。あとナマスがそれを見て死んだという件についても、それが龍精だと言う可能性を高めている。何の防護的手段もなしに人が龍精を浴びてしまうと、その強大な力に耐えられずにその場で即死してしまうと伝えられておるからのう。
ポムは今聞いた情報を更に熟慮するべく話を切り上げるようにして言った。
「よし。お主の情報はありがたく頂戴させてもらった。さてこれでお主はずっと心残りであった想いを全て伝えられたのだから、未練はもう全てなくなったのであろうか。これでもうきちんと成仏は出来そうかの?」
ナマスはその言葉を聞いて、それに初めて気が付いたような顔をした。そしてしばらく考えを巡らすような仕草をしていたが、やがて自らの両手をじっと見つめながら答えてきた。
「いえ、どうやらまだのようですね。私の旅立ちの時は、たぶんあの魔呼奴を討伐した時になるのでしょう」
「ふむ、分かった。それならばまたいつものように儂の背に憑いてくれば良い。今回の旅でお主が心安らかに旅立てるような光景を間近で見せてやろうぞ」
「はいっ!どうかよろしくお願いいたします」
ポムは夕風が吹き始めた小道を早足で歩き出し、ナマスはポムの後ろに付き従って静かにその姿を消したのだった。