第五章 六話
ミラーは精神的な疲労であまり食欲がわかず、膝の上に自分の分のお弁当を置いて、それをしばらくぼんやりと眺めていた。
ミルトのほうはすぐに回復したらしく、ミラーの手作りのお弁当をそれは美味しそうに勢いよく食べていた。
ミラーはその食べっぷりを見て微笑むと、自分の分で残してしまいそうな分をミルトに初めから渡しておく事にした。
ミルトは遠慮しながらもそれを受け取ると、それも美味しそうに問題なくぺろりと平らげていた。
昼食を食べ終わり、二人で今までの状況の報告をすることになった。
基本的にミラーがポムに説明をして、ミルトはそれを横で聞いていて、ただ同意するように頷いているだけであったが。
ポムは疑問点があるとその都度質問を交えて熱心に聞いていた。
トーマとキルチェも黙って目を輝かしながらその話に耳を傾けている。
最後までミラーの話を聞き終えたポムが、目を閉じて黙考し出したのを見て、トーマ達がミルト達に質問してきた。
トーマがまず身を乗り出して訊ねる。
「なあなあ、その龍脈なんだけどさ、話だけじゃあんまりぴんと来なかったから、ちょっと絵に描いてみてくれん?」
ミルトが少し嫌そうな顔をして否定の言葉を言う前に、キルチェが即座に鞄から紙と書く物を取り出してミルトに押しつけてきた。
ついそれを受け取ってしまったミルトは、隣にいるミラーに救いの目を向けたが、ミラーはずっと遠くを眺めていて一度も目を合わせてくれなかった。
ミルトは大きく溜め息をつくと諦めて絵を描き始めた。
ミルトの描いたその絵は、円形の巨大な大空洞の岩肌の様子やその底を流れる龍精、そして支流として分岐しているのだろうと思われる丸い穴が壁に空いている様子まで描かれていて、かなり雰囲気が伝わってくる上手な絵になっていた。
トーマとキルチェは興味深げにそれを眺めていたが、その光景をミルトと一緒に見たはずのミラーは、ミルトの描いたその絵を見て少なからず驚いていた。ミルトの絵には自分には霧がかったようにしか見えなかった部分まではっきりと描いてあると気が付いたのである。
ミラーはミルトが自分で描いた絵を使って、二人に色々と説明するのを聞いていて、その話が一段落するのを待ってミルトに問いかけた。
「ねえ、ミルト。この時の光景ってはっきり鮮明に見えてた?なんかこう……靄が立ち込めていてぼんやり見えているような感じじゃなく?」
「え?ううん。すごいはっきり見えてたよ。それもかなり遠くまで。世界の果てと果てを繋いでいるって感じで……あれ?って事はミラーは違ったって事?」
「うん。私の視界では何か凄いぼんやりとした感じだったわ。あれはあれですごい幻想的な感じがしたのだけれど。……え?それならあの時はどうなのかしら。お互いはっきりとは確認してなかったけど、精霊探査術で地表を見た時はどんな感じだったの?」
ミルトは少し戸惑ったような口調で答える。
「え?どんなって……別に普通の景色だったよ。でもミラーが何度も失敗って言っていたから、あの術中は何か特別な視界になるんだろうなって勝手に思っていたんだけど」
ミラーはぶんぶんと首を横に振る。
「ううん。探査術中は特別な変化はなくて、ただ普通の景色が見えるだけなの。こうして皆が見ているような感じで。……でも、そう。ミルトにはちゃんと見えていたのね……」ミラーは悩ましげに口元に手を当てて考え始めた。
キルチェが今まで聞いた話と今の二人の会話をまとめ上げて、いち早く原因を思いついたように言い出した。
「そうか!ミラーは術を使う際にミルトを通して物を見ているからだね。ミルトという言わば障害物があるから鮮明に物を見る事が出来ないんじゃないかな。例えるならその光景って、曇った硝子の窓越しに外の世界を眺めているような感じなんじゃない?」
ミラーはキルチェの例えにすぐに納得した。まさにそんな感じの視界だったからだ。
「確かにそうね。言われてみればそんな見え方だったわ。……でももし、そうなのだとしたら、それはもうどうしようもない事なのかもしれないわね。実際、人の力を借りて術を使うなんてやっぱり私には高等すぎるもの」
ミラーは気落ちした声で言う。
だがもし本当にどうしようもないのなら、あの不明瞭な視界で術を行使し続けならなければならない。実際の調査隊の捜索自体をミルトに任せるとしても、あれでは自分側の消耗が激しくて長時間の探索はたぶんあまり持たないような気がする。
その時トーマが首をかしげて珍しく考え込みながら言い出した。
「なあ……、もしそれが曇った窓硝子で本当に外の世界をはっきり見たいのなら、その窓にもっと近づけばいいんじゃね?何ならその曇った窓硝子を開けちまえば、もっと良く外の世界が見えんじゃね?」
ミラーはそんな簡単なものじゃないと苦笑しそうになったが、すぐにそのトーマの言葉の例えの中にはある真理が潜んでいることに気が付いた。
術者と術者の間の距離というものは、合同で術を行う際の強度や精度にかなりの影響をもたらす事は良く知られている。
今の場合はミルトとミラーの距離なのだが、今まではミラーがミルトの背に手を添えている姿勢だったので、確かにまだ少し距離は離れているとも言えよう。もっと密着すれば何か変化がありそうなのは確かだ。
そしてもう一つの窓を開けるという比喩は、二人を隔てる障害物をなくせばという事であり、今回の場合は……。
それはあまり考えたくはない事だが、二人で密着した姿勢になったとしたならば、それは二人の着ている服なのではと言う連想が容易にいく。
ミラーはその時のミルトと自分の光景を想像して顔を真っ赤に染めた。
キルチェも考えがそこに至ったらしく、わざとらしく咳き込んでそそくさと紙と書く物をしまい周囲を片付け始めた。
ただ話を振っただけになったトーマとその話を聞いていても何もぴんと来なかったミルトは、そんな二人を不思議そうな顔で見つめていた。
とにかくミラーは少し考えると言い、そそくさとその場から逃げるようにして離れると、赤くなった顔を手で仰いで冷ましながらさっきの事を考え始めた。
もしその状況を作ったとしたら、視界が改善される可能性はあるにはあるが、この場でそれを行うのは本当に心の抵抗が大きい。
ミラーがどうしようどうしようと思い悩んでいると、ポムがこちらを静かに見つめているのに気が付いた。
目と目が合ったポムが手でこっそりと自分だけを呼ぶので、ミラーは何やら胸騒ぎを感じながらも、ミラーはすぐにポムの元へと向かった。
案の定ポムが声を潜めて言い出した。
「話は聞いた。儂は試す価値はあると思う。一度それを試してみようではないか。どうかの?」
ミラーは慌てふためきながら少年達のほうを窺うと、同じく声を抑えながら反論する。
「ええっ!そんな……!皆がいる中でそんな事は出来ませんよう……」ミラーの言葉はとてもか細く消え入りそうだった。
ポムはミラーの肩に手を置き安心させるようにして言った。
「それは大丈夫じゃ。その辺は儂が何とかする。まあミルトには……そうじゃな、後ろから抱き付く形ならお主の姿は見られないじゃろう。ちなみに肌を合わせるのは上半身だけで良いと思うがの」
「……はい」ミラーはもう観念したように呟いたのだった。
場所を先程の双子岩の前に移し術を再開することになった。
ミルトはもうすでに龍精を錬成し始めている。
ミラーは皆に見つめられているこの場でどうすればそのような流れになるのか分からず、ずっと胸がどきどきしっぱなしだった。
ミルトが龍精を錬成し終えると、これでもう全ての前準備が完了してしまったかのように思えて、ミラーの頭は大混乱に陥ってしまった。
ミラーが硬直した状態でその場に佇んでいると、ポムが一歩前に出て皆に向かって言い出した。
「さて、今回は二人の集中を高める為に一工夫をしようと思う。狭い空間に入り込むと集中しやすくなるのは皆知っておるじゃろう。それ故、これから二人には少しの間狭い思いをさせるが我慢してもらう事にする」
ポムは言葉を切り意識を集中すると、ミルトとミラーのほうへ手をかざした。
「出でよ〈硬き土なる盾〉」
二人の周囲四方の地面が長方形に切りとられ一気にせり上がってきて、一瞬の内に二人を覆い隠した。
大人の背の丈の二倍ほどはある大きな壁が二人の周囲に出来上がったのだった。
遠くで見ていたトーマとキルチェが興奮した様子でその壁に駆け寄ってきた。
「おお!すげえ。これがポム爺さんの魔法か」トーマがその壁を手で叩いてその土壁の感触を確かめている。
「いえ、どうなのでしょう?これが魔法なのか精霊術なのか、僕にはまったく見分けがつきませんね……」キルチェはその壁の岩肌の様子やその地面との境などを目を寄せて検分している。
その壁の中のミルトとミラーも目の前にいきなり壁が出来て、驚いたように周りを見回していた。
ミラーと目が合ったミルトが興奮気味に言い出す。
「……すごいよね!一瞬でこんな壁を作るなんて。しかもあの時ポム爺さんほとんど念じてなかったよ。ああ、そう言えばポム爺さんが外界で僕を助けてくれた時に使った術がこういうのだったんだって。僕はまったくその時の記憶がないんだけどさ……」
ミラーはミルトの話を半分聞き流して、へえだのそうなのとか生返事を返しながら、これからしなければならない事を考えていた。
……いきなりで驚いたけど、確かにこれなら中の様子は外から全く見えなくはなったわね。それにお日様の光も遮られて、一応この中も少し薄暗くなったのも良いのだけど……。
ミラーは壁のすぐ向こう側で騒いでいるトーマ達の声がはっきりと聞こえてきて、少し暗い表情になった。
そうこちらから外の様子が分かるという事は、逆にこちらが中で何か変な風に騒げば、外の少年達に何か勘ぐられる可能性もあるのだ。
ミラーは落ち着かない事この上なかったが、もう躊躇している場合ではないと心を固めた。
ミラーはミルトの耳元に口を寄せてそっと囁く。
「ミルト。お願いがあるの。あのね……、上の服を全部脱いで向こうを向いて欲しいの。あともう一つ。……そうしたら絶対こっちを見ちゃ駄目よ。分かった?」
ミルトは少し身を引いて動揺するようにミラーを見たが、ミラーの真剣な表情を察して素直に従う事にした。
ミルトは無造作に服を脱ぎ捨てると、上半身裸になって腕を組みミラーの反対側を向いてぎゅっと目を閉じた。こうしておけば何かの拍子に後ろを見てしまう事もなくなるという判断からだった。
ミラーはミルトの男らしい脱ぎっぷりを見て、自分も思い切って服を脱ぎだした。
脱いだ青い上着を畳んで足元に置き、残る胸を覆う白い肌着も息を吸い込んで覚悟を決めて一気に取った。
この暗がりに自分の上半身の白い肌と二つの膨らみが妙に際立って見える。
屋外でこのような格好をしている自分がとても恥ずかしく、何かとてもいけないことをしている気分になってしょうがなかった。
ミラーは脱いだ肌着もきちんと畳んで服の上に置きミルトの背にそっと近づいた。
そして両手を宙にさ迷わせながら、どういう姿勢にしようかあれこれと悩んでいたが、もう小細工無しで自分の胸をミルトの背に押しつける感じで、抱き締めてくっついてしまおうと思った。
ミラーは更に近づき、両手をミルトの脇のほうから静かに差し込んで、抱き付く寸前にミルトに小さい声で耳打ちをした。
「……ミルト。これから何が起こっても、絶対、声を出さないでね」
ミルトが何でだろうと思ったが、その言葉の意味を理解する前に、何かとても柔らかく温かい物が背中に押し当てられたのを感じたのだった。
そして胴回りをぐっと後ろから絞めつけられたので、ミルトは反射的に自分の胸元に目を向けた。そこには後ろから回されたミラーの白い腕があり、自分をしっかりと抱き締めているのだと分かった。
そしてミラーの香りが真後ろから強く感じられたその時に、ミルトはそこでやっと直に触れる背中の柔らかい感触の正体に思い当たったのだった。
ミルトは叫び出しそうになった。
しかしミラーの忠告を思い出してぐっとこらえる。
そしてミラーが何故黙っているように言ったのかがやっと腑に落ちた。
……そうか!そういう事か。もしここで僕が変に騒いだり大声を上げたりしたら外にいるトーマ達に怪しまれると言う訳だ。いや、しかし、これは、何というか……!
ミルトは至福の表情でこの状態に耐えていた。
しかしミラーはと言うと、抱き付くと同時に集中状態に入り即座に術を構築し始めていた。すでに勝手知ったるミルトの力なのですぐに術を発動する事が出来た。
霊的視覚を地上に出現させると、前回の曇り硝子のような視界とはまるで異なる明瞭で鮮明な視界になっている。
ミラーはすぐさま探索を開始すると、龍脈の筋道に沿ってどんどん北へと視界を移動させていった。
この街の中を抜けて外界に入ると深い森がしばらく続き、それを抜けた先は起伏の激しい草原地帯になってきた。更にもっと北に行くと岩場が続く灌木地帯になり、次第に殺風景な岩山の風景に変化していく。
ここまではまだ調査隊の姿は見つからない。
この探索術は龍脈の筋道上の地表しか探索出来ないとは言え、龍脈の支流はかなりあり、その細かい枝分かれを利用して北に延びる道の大体の所は調べる事が出来ていて、見落としはまだしていないはずだとミラーは信じていた。
しかしもうすでに何も発見出来ずに北の山の麓まで来てしまっている。
ここはビス=マークスの砦という遺跡がある山岳地帯であった。しかもここはミルトが夢の中で金色の光を見た場所でポムが早めの捜索を調査隊に進言した場所とミラーは聞いていた。
ミラーは移動速度を落として、岩山の窪みや陰になっている所も注意深く調べていった。
その内に山頂に向かう道と、少し坂を下る道の分岐点に行き当たった。
そしてそこでついにミラー達の目に、自然のものでは絶対ありえない光景が目に入ったのだった。
その下りの道の奥の窪地に、淡く青白い輝く半円球のものがあったのだ。
龍脈は山頂の方に伸びていて、その半円球のものにはもうこれ以上は近づけなかったが、あれが調査隊の簡易的な隔護結界である事はすぐに分かった。
その中に人影がいるのも見えて、よく目を凝らして数えてみると六人いる事が分かった。それは聞かされていた調査隊の人数と同じで、そしてその円球の中心付近にいる人物はミラーと同じ銀色の髪をしている。
ミラーはついに見つけたと泣きそうになってしまった。
ミラーはもうそこで探査術を解いた。
ひどく動揺した事で集中が途切れてしまったという理由もある。
ミルトも同じ風景を夢中で見ていたのでかなり興奮していた。
ミラーが少し身を離すとミルトはすぐに向き直り、二人は感動のまなざしで見つめ合うと改めて抱き合った。
ミラーがミルトに嬉しさに震える声で話しかけた。
「……いたわ!ミルト見たでしょ。調査隊の方々に間違いないわ!それにあれはお父様の結界術よ。まだ無事だわ!」
ミルトも嬉しそうに頷き腕の中のミラーに答えた。
「うん。やったね!ミラー。場所もこれで分かったし助けにも行けるはずだよ!」
しばらく二人で感動の余韻にひたってから身を離した。
ミラーが嬉し涙を手でぬぐってミルトのほうをちらりと窺うと、ミルトは笑顔のままこちらに顔を向けてじっと見つめたままだった。
ミラーはこちらも笑顔を返そうと思ったが、ふとミルトの視線が自分の顔より少しばかり下のほうに行っている気がした。
ミラーはふとそのミルトの視線の先に目を向ける。
そこに見えるのは露わになった自分の二つの胸の膨らみが……!
恥ずかしさで一瞬の内に頭に血が昇ったミラーは、とっさに胸を左腕で隠しその捻りと反動を利用して、素早く右手で平手打ちをはなった。
その右手は的確にミルトの左頬を捉え、この土壁の中で甲高い音を響かせたのだった。