第四章 十一話
「ありがとうございましたっ!」
ミルトはポムに一礼をして言った。尻がかなり痛むために首だけを曲げた礼であったが。
少年達が身を寄せ合い、さっきの叱責の儀の感想を言い合っているところに、ミレーヌが森の奥の小道からやって来た。
トーマがそれにいち早く気づいて、ミレーヌの荷物の多さを認めると、素早く駆け寄り荷物を代わりに持ってあげていた。
出遅れて手伝えなかったキルチェは、たぶんあのトーマの素早さは料理の匂いのせいだと悔しがっていた。
そしてミルトはと言うと、そこからまだ一歩も動けていなかった。
ミレーヌがトーマ達を従えてミルトのところまでやって来た。
「こんにちは。ミルト君。……あら、どうしたの?何か顔色が悪くない?」
「こんにちは。ミレーヌ母さん。え、そうですか?何ともないですよ」
ミレーヌは直立不動の姿勢で突っ立っているミルトをしばらく不思議そうな顔で眺めていると、家の中からマレスが出てきてミレーヌを出迎えに来た。
「こんにちは。ミレーヌさん。あんなに沢山の荷物で大変だったでしょう?あら、ミラーは一緒じゃないの?」マレスは親しげに話しかけた。
「こんにちは。マレスさん。私のほうはかさばるだけでミラーのほうが重たいのよね。ああ、あの子は買い忘れがあるって商店街に寄ってから来るわ」マレスも砕けた口調で答えた。
二人の母親は突っ立って動けないミルトの前で仲良さげに世間話を始めていた。
この二人はミルトとミラーの関係もあって何度か会う機会があった。そこで色々と話す内に二人はかなり打ち解け合い、上流街と下流街の住人の間ではあまりないような親しい友人関係を築いていたのだった。
ミルトはその場から逃げる事も出来ずに愛想笑いを浮かべながら置物のようにそこにただ佇んでいた。
トーマとキルチェは離れた所からその光景を笑って眺めている。
だいぶ二人が話し込んでから、この二人の横にある置物のような状態のミルトの事が話題になった。
「それでこのミルト君はどうしたの?なんでこんなに動かないのかしら。怪我の後遺症ってこともないわよねえ。ミラーがもう走り回れるほどに元気になったって嬉しそうに言っていたもの」ミレーヌがミルトの様子を眺め回した。
マレスが笑いながら答える。
「ふふっそれはね、この前の件でお預けになっていたお叱りをさっき受ける事になって、ポムさんにお尻を叩かれたのよ。二回だけ。でも何かすごい音がしたわ。ベーンとかカーンとか」
ミレーヌはそれを聞いて驚いた。
「ええっ、突然森の中で鳴り響いたあの甲高い音がお尻を叩かれた音だというの?まあ……信じられない。その直前には突風が吹いてきたりもしたけど。まあそうねえ、ポムさんの本気のお叱りなら天変地異が起きてもおかしくはないけど」
ミレーヌとマレスは可哀想なものを見る目でミルトを見て、ミルトは無言の笑顔でそれに答えていた。
その時ミルトの身体の奥で何かがざわついた気がした。
うん?これは……。
次第に強まるこの感じ。これは予感とか気配ではない。ミラーがここに近づいて来るという確信めいた感じだ。
ミルトは森の奥の小道に目を向けた。身体はそのままで首だけをひねる。そんな奇妙な姿勢になったミルトを見て皆がそのミルトの視線の先に注目をした。
するとその視線の坂の下からミラーの銀色の髪が見えてきた。段々とその姿が見えてきてミラーも両手で大きな荷物を抱えているのが分かった。
ミルトはミレーヌの時は出遅れたが、今度こそは手伝わねばと思いミラーのほうに足を動かした。
ミレーヌも遠くのミラーの姿を見て言った。
「あらミラー、やっと来たわね。……あら?」
ミレーヌは目の前で何やら動き出したミルトを見て目を丸くしている。
「まあ!ミルト君が動き出したわ。でも何というか……、動きが生まれたての仔馬のようだわ!」
マレスも吹き出した。ミルトのあの動きはお尻がかなり痛いからだろうと分かってはいるのだがまさにそんな感じだったのだ。
歩くのもやっとのようなよちよち歩きのミルトを見かねて友人二人がミルトをあっさり追い抜きミラーの元へと辿り着いた。
「持ちますよミラー。お疲れ様」
キルチェが率先して大きな荷物を受け取った。
トーマはミラーが腕にかけていた籐籠を持った。なかなかに重い。中身が気になって仕方がなかった。
「ありがとう二人とも。助かるわ。あ~疲れた。」
ミラーはこわばった腕をぶらぶらしてほぐしていた。
ミラーは、道の真ん中で何故かこちらを見て突っ立っているミルトを見つけて、花が咲いたような笑顔を見せたが、何だかミルトの様子がおかしいので戸惑い顔になった。
ミラーは取りあえず歩いてミルトに近づいていった。
そしてミラーはそばに来てもあまり動かないミルトを見て、少し眉をひそめた。
「こんにちは、ミルト。どうしたの?」ミラーは小首を傾げてミルトに訊ねた。
「うん、ちょっとね。さっきポム爺さんからお預けになっていたお叱りを受けてさ」
ミルトはなるべく平然とした態度で言ったが姿勢は全く崩せなかった。この直立不動の姿勢じゃないと痛みをこらえられなかったのだ。
ミラーは思い出したように言った。
「ああ、そう言えばそうだったわね。あれでしょ、男の叱責の儀ってやつでしょ?なんだかおしりぺんぺんとか言う可愛らしい名前だったけど」
トーマが後ろで吹き出した。その名前とあの時の光景の迫力が違いすぎて可笑しかったのだ。
「くくくっ。いやあ、あれはすごかったぜ。忘れらんないな。俺はあの光景を見て絶対ポム爺さんから叱られないようにするってあの時固く心に誓ったからな。でもすげえ綺麗だったなあ……あの光り輝く右手……」
「えっ?」ミラーは分からない顔だ。
キルチェが説明に加わってきた。「精霊術ですよ。ポム爺さんの土の精霊術。ポム爺さんが右手に大地の力を集めて、その手を宝石のように輝かしてミルトのお尻をパシーンって…。あれ?いやちょっと違うな……。一発目はズムンだったかな。それで二発目はカキーンだったっけ……?」キルチェはあの時の音を正確な擬音で表現しようと頭をひねりだした。
ミラーは慌ててミルトのそばに寄り、ミルトの腕に触れて訊ねた。
「精霊術って……、大丈夫なの?」
その時のミルトとミラーはお互いが近づき触れ合う事に何の違和感も感じなかったが、周囲の反応は違っていた。
少年二人は見ているこちらが恥ずかしいと言うように見て見ぬ振りをしていたし、ミレーヌはわおと口に出さずに驚きを表現していた。マレスは親子ながらにミラーが羨ましいと思っていた。最近の息子は近づいて触ろうとすると嫌がって逃げるからだ。
ミラーはミルトに触れた瞬間に身体の状態の診察を始めた。
ミルトの身体のことは全て詳しく知っているのですぐに異常のある箇所が分かった。お尻の筋肉の状態がひどい。打ち身と言うかもう打撲になっていて、少し内出血までしている。これでは動くのもつらい状態だと簡単に理解出来た。
ミラーは憤慨した。
もうっ!ポムお爺様ったら加減というものを知らないのかしら!
ミラーは家のほうを見て、窓越しにこちらを眺めているポムを見つけて軽く睨んだ。ポムは目が合うと慌てて窓の陰に隠れた。ポムも少しばかりやりすぎたと感じていて、何だか後ろめたかったからだった。しかしミルトになら多少やりすぎてもミラーがちゃんと治してくれるだろうという打算もあったのだが。
ミラーはその姿勢のままでミルトに治癒の術をかけた。
淡い青い光が二人を包みこみ一瞬の内にミルトの臀部の負傷を治していた。まるで大治療師並の手際の良さだが、これはミラーがミルトに限って出来る事なのだった。
まず癒やしの術の過程に置いて難しくそして時間がかかる段階が、術をかける前に行う被術者の健全な肉体状態の精査である。いわゆるどの状態が被術者において正常か異常かの見極めをする作業が必要となり、これは人体に関する深い知識や長年の経験が大きくものを言うのだ。
それと術を使う際の癒やしのための活力の使い方も重要になる。個体差の大きいその被術者に対する力の注ぎ方やその流れの様子の見極めもまた知識と経験が必要不可欠なのだ。
しかしミラーは治療師としての経験はなく基本的な知識もまだまだだがミルトの身体に関しては別格なのであった。
ミラーはミルトの身体の隅々からその内部に至る全てを知り尽くし、しかもミルトの内部に自分の命の欠片を持たした子飼いの水の精霊までもがいて全部が手に取るように分かるのだ。
言うならばミルトはミラーがいてくれるのなら、死ななければどんな傷を負っても蘇るという不死身な男になっていると言えるのかもしれない。
ミルトは臀部の痛みを感じなくなるとそっと自分の尻に手を当てて確かめた。まるで痛みを感じない。元通りに完治していた。
「ありがとう、ミラー。ほんと助かったよ。」
ミルトは寄り添うミラーに安堵の表情で微笑みかけた。ミラーもそれを受け微笑み返した。
そんな二人の世界をそばで荷物を持ったまま待っていたトーマがわざとらしい咳払いで打ち払った。
我に返ったミルトとミラーは即座に離れて何事もなかったかのような態度をとった。
そしてミラーは母親達の元に向かい、ミルトは元ミラーの荷物をトーマからふんだくって駆け足で家のほうへと向かった。
ミルトの全快の祝いの会が始まった。
ポムの家の食卓には豪華な料理が所狭しと並べられていて、子供たちは皆見ているだけでわくわくしてきていた。
香ばしい骨付き肉が大皿にたっぷりと盛られて食卓の中央に置かれ、色取り取りの刻んだ生野菜が食卓を彩り、よく煮込まれた煮汁料理や茹で麺料理が何皿もあったり、色んな種類の焼きたての麺麭や多種多様な果物が見た事がないほど籠に大量に盛られている。その脇には高級そうな瓶詰めの果実酒や果汁飲料が何本も列をなして並んでいる。
全員で乾杯をして大いに食べてとても賑やかな食卓となった。
祝いの席の途中でミレーヌがさっきの庭での出来事に絡めて、あの時男の叱責の儀をしたのだから今度は女の叱責をしてはどうかという提案があった。ミルトは青ざめた顔で皆の権利を集めるのだけはどうか勘弁して下さいと言って、何とか個別で説教して欲しいと女性陣に必死な顔で頼み込んで皆を笑わせる事になったのであった。
あの全快の祝いの会から数日が過ぎてミルトの周りでもやっといつもの平穏な日々が訪れていた。
世間では狂迎節の準備をしてはいるが、そう切羽詰まったものではなく着々と進めているような感じだった。ミルト達はまたいつもの森で遊んだり、ミラーも学校へ通ったりと以前と同様の日常の暮らしを営んでいたが、ポムだけは相変わらずいつも何か忙しそうにしていた。
それ以外は何も変わらない日常のようなのだが実はと言うと少し違っていて、ミルトはずっとある悩みを抱えていたのだった。その悩みとはあの大怪我から目覚めて以来、何か変な夢を見てしまうようになったというものなのだった。
その夢は初めは三日に一度くらいの頻度だったが今では毎日見るようになっていた。特に怖いような夢ではないのにミルトはその夢を見ると毎回うなされて汗をびっしょりかいて起きる羽目になり、最近では夢から覚めた後も胸の鼓動が早いままで嫌な感じがなかなか抜けないのでもう何だか気味が悪くなってきていた。
その見てしまうと嫌な感じがする夢とは、巨大な雲を周囲に纏って大空をゆっくりと移動する浮遊大陸の光景だった。
そうそれは伝説とも言われるラビリオンの姿であった。
楕円のような形の陸地を持ったその大陸は、緑が多いというのと中心に山のようなものがあるというのだけはうっすら分かるのだが、全体が分厚い雲に覆われているために全体像はほとんど掴めない。
ミルトは夢の中でこのラビリオンを何故か地上からではなく天空からそれを俯瞰するように見ているのだった。
感じで言うとあのミラーが目覚めさせてくれた時の、世界を天空から眺めた光景と良く似ている。
ミルトは前々回のこの不思議な夢の中で自分の住む街のファルメルトが見える事を発見した。上空から遠くのほうを眺めていると見覚えのある地形と円形の塀に囲われた模型のような物がかすかに見えたのだ。
ミルトはあの街の方角とこのラビリオンの移動する方向を見比べて、街に向かって来ているんじゃないかと思った。なにかその時に胸がざわついた気がした。
そして次の日の夢の中でミルトは確信した。
この街に確実に近づいて来ていると。
ミルトは前回気になってからラビリオンとその下の地上の地形や地勢を詳しく憶えておいたのだ。
なんでだかすごい嫌な予感がする。何故だかは分からない。ただラビリオンが空を飛んでいる光景なのに、何故こんな嫌な気持ちを感じるのだろう。