第四章 八話
……あの子まだかなー?
光輝く雲の内部のような真っ白な場所に、ただ一人浮かぶ少年の姿をしたようなものはそう思っていた。
彼の姿は白い靄が集まったような姿に見えて、かなり不鮮明で取りあえず少年のような輪郭をしているくらいとしか分からない。
実際彼自身も自分が何者か分かってはいなかった。
少年はある少女を心待ちにしていた。
彼は一日の大半を一緒に過ごしてくれる優しくて柔らかくて、そしてとても可愛らしげなあの少女のような存在が大好きであった。
この虚ろな場所では、あの子だけが彼の存在を認めてくれるので、あの子の前でなら彼は自分を実感する事が出来て彼はとても安心出来るのだった。
だから彼はあの子がいない時間がとても寂しかった。
少年は取りあえずあてもなく、この永遠に続く白く輝いている世界を飛び始めた。
その少年の後ろを四つの色違いの不思議な光球がついてきている。
それは赤色と緑色と青色と茶色の淡い光を放つ光球で、飛ぶ少年を追いかけるように彼の周りを等間隔で円を描くように飛んでいる。
その球は少年がいくら早く飛んでも後をついてきていて、4つともかなり調和のとれた動きを見せていた。
少年は自分に付き従う様に飛ぶ、この四つの光球の動きを見て思い返していた。
あの時はひどかったけどなあ……。
僕がおおけがをしてふらふらになってる時の初めのこの赤と緑の二つだけのときは、なぜだかずっとけんかばっかりして、僕からどんどん力をすい取ってきたからな。
僕にはこの赤と緑のことは止めようがなくて、もうだめだと思った時にどっかからあとの二つが来たんだよな。
茶が初めにきてきびしくしかりつけるように緑を止めてくれて、次にやってきた青が赤をやさしくなだめるようにしずめてくれたんだっけ。
そうしたら4つみんな仲良くなって僕を守るようにぼくのまわりをまわりだしたんだよな。
少年はそれからの事を思い出していた。
そうしたらあのおんなの子があらわれたんだっけ。
あの子が来てくれるととても心がおちつくんだ。なんかあんしんできる。
寄りそってくれるとからだがとても楽になるんだ。
なんかきもち良かった。
あの子がからだをなおしてくれたおかげでいまはもういたいところはどこにもなくなった。
僕はあの子におれいを言いたい。
でもどうしてかことばがでない。
あの子はちかくにきてくれるのにとてもとおくに思える。
あの子はいったいだれだろう?
……僕はあの子をまえからしっている?
ぼんやりとしたすがただけどあんなおんなの子を見たおぼえもある。
僕とおなじとしごろの銀いろのかみで青いふくがすきなおんなの子……。
……僕……?あれ?僕のとしははいくつくらいなんだろう?……それに僕の名前は?……僕……僕……僕はいったいだれなんだ?
……分からない、分からない。何も分からないよ!
少年は何度も何度も同じ問いを繰り返していた。あの少女がいないと心の拠り所がなくなってしまい不安が押し寄せるのだった。
少年が不安に喘いでいるとあの少女の優しい気配が近づいて来るのが分かった。
彼はすぐに落ち着きを取り戻して、いつものようにあの少女が触れてくれるのを待った。
少女の手が優しく頬を撫でてくれる。少年は顔を触ってもらうのがとても好きだった。
少年は目をつむりその手の感触を楽しんでいると、いつもの感触と違う、何かとても柔らかい別のものが自分の唇に触れたような気がした。
その瞬間、この少年のいる輝く靄に包まれた世界は、靄が一瞬弾け飛びその白い景色が一変した。
世界が全ての色を取り戻していく。
頭上は全面が透き通るような青色が広がり、その中央には直視出来ない程眩しく輝く光の玉がある。そして眼下には緑色と茶色が入り交じった様な複雑な模様を描き出されている。
そして少年の脳裏に様々な事が思い浮かんできた。
自分の住んでいた街の風景やそこに暮らす人々、自分の知り合い、自分の家、そして優しい母親の姿が浮かび、続いてずっと一緒に遊んでいた親友の二人の顔を思い出し、厳しくも優しい恩師の姿が浮かび、そして大好きなあの女の子の顔を思い出した。
しかしそれはほんの一瞬の出来事で、またもや少年の周りには白い靄が立ちこめていき、すぐに白く輝く世界に戻ってしまった。
少年はさっき思い出した光景と一緒に思い浮かんだ、あの色々な人物の名前も思い出そうと懸命に頭をひねっていたが、どうしても上手くいかなかった。
もう少しで出来そうなのにそのもう少しが難しい。
少年があれこれ悩んでいる内に、いつの間にかあの少女の幻影がすぐ隣に来て寄り添ってくれていた。
世界がまた徐々に変わっていく。
今度はさっきの様な劇的な変化ではなく、少年にとっては馴染み深いものであった。
寄り添う二人を中心にして白い靄が次第に桃色に染まっていった。
そして世界が完全に桃色になると、今度は少し濃い桃色の液体が宙から湧きだしてきた。
その液体は二人を空中で優しく球体状に取り囲むと、二人はその球体の中で浮かぶようになった。
殺風景ないつものただの白い世界が、桃色の球体がそこかしこに浮かぶ不思議な世界に変わっていく。
しかしそこは安らぎに満ちたとても幸せな世界であった。
少年はこの時のこの世界が大好きだった。
この世界の時は必ずあの少女がそばにいてくれて、身体の痛みがなくなっていくからだ。
少年は今では身体で痛いところはどこにもなくなっていたが、この隣の少女が作り出してくれているだろうと思うこの世界の訪れをずっと心待ちにしていた。
少年はふと思った。
そうだ、今ならさっき見えた人たちのことを何か思い出せるかもしれない。
…………う~ん、え~と、え~と……。
……駄目だ。思い出せないや。
でもあの時見えた女の子、僕が好きなあの子が、いつもそばに来てくれるこの子なのかな?
少年はかたわらで身を寄せる、自分と同様に不明瞭な姿の少女に目を向けた。その姿と思い出した少女の姿とを一致させようとしたがやはり上手くいかない。
少年は諦めて今度は別の事を考えていると、いつの間にかあの少女が身体の上にのしかかり少年に顔を寄せて、じっとこちらを見つめているのに気が付いた。
少年が何だろうと思って少女を見ていると、少女がもっと顔を近づけてきて自分の口元と彼女の口元をそっと合わせてきたのが分かった。
その瞬間、先程の衝撃とは桁違いの大きな衝撃が起きたのだった。
少年はこの口元の感覚が何かを感じ取った。
このくちびるに感じる柔らかいものは……!
もしかして口づけ!?
二人の間で巻き起こった衝撃波が全ての白い靄を完全に吹き飛ばして、今度は世界が隅々まで完璧な色彩を取り戻していた。
もう少年は自分が今どこにいるかを悟った。
上は透き通る青色の空が無限に広がり、その真ん中に赤く輝く太陽がある。そして下には茶色の大地と緑色の植物達が様々な地相を作り出しているのだった。
大地の上の緑色を繋ぎ茶色を分断するように描かれている水色の曲線が大小の河川で、自分の真下には大きな円の中に色とりどりの大小の積み木を寄せ集めて複雑な色彩を組み合わせた精密な模型のようなものがあるのも分かった。
少年は思った。
僕は今空を飛んでいるんだ!青い空に白い雲、輝く太陽それに緑の大地。そしてあれはきっと僕の住む街だろう。すごい!
少年はしばらくの間、この壮大な世界の景色を夢中で眺めていた。
その時ふとどこからか声が聞こえたような気がした。聞き覚えのある懐かしい女の子の声。
……起きて、目を覚まして……
少年は意識を切り替えてその声に耳を傾けた。
するとその声が少年の記憶を揺さぶり、その人物を見た時の光景が思い出を映し出す一枚の動く絵画となって少年の目の前に現れた。
その絵画には、あの声の主だと思われる少女の姿が映し出されていた。銀色の髪を蒼い帯で結わいて空色の服を身につけた少女、とても笑顔が可愛らしい少女。
その時その少女の名前が思い浮かんだ。
そうだ、あの少女の名前はミラーだ!
次の場面では自分が言った一言でミラーは泣き出しそうに顔をゆがめていた。少年は落ち込んだ。そしてその少女の脇に二人の少年達がいた。
その二人の姿に連想されて、その少女の絵画の隣にまた新たな動く絵画が現れた。
二人でこちらを見て楽しそうにふざけ合っている。森の中を狩人姿で一緒になって駆けている背の高い少年と眼鏡の少年。
そうだ、あの二人の名前はトーマとキルチェだ!
次の場面で、今度はその少年達の隣にいた、がっしりとした体格の老人と若々しい印象の大人の女性の姿に目が行った。二人は優しそうな瞳でこちらを見つめている。
更にまた、一つの新たな絵画が生まれた。
あれは……ポム爺さん!隣にいる綺麗な大人の女性は……僕のお母さんだ!
少年がどんどん連想すると、その数だけ目の前の絵画が増えていく。
もう少年の上下左右、全てが動く絵画で埋め尽くされていた。
どこを見ても見覚えのある懐かしい光景が映し出されている。
少年はあらゆることを思い出した。
ここに見える全ての人の名前も言える、思い出話も出来る、だけど何故か、どうしても自分の事だけが分からない。
名前も姿も、自分自身の何もかもが分からない。
この場において不鮮明な存在は自分だけだった。
この不確かな存在感が孤独を感じさせて得体の知れない恐怖心が少年の心を脅かす。
それを振り払おうと少年は、懸命に少女の言葉に耳を傾けてその声の在処を探していた。
ミラー、ミラー!
助けて!僕はここにいる。
でも僕は一体誰なんだ?
僕の名を教えて欲しい!
ねえ、ミラー!
少年は必死にミラーの映る絵画に手を伸ばす。だが触る事は全く出来ない。そしてどの絵にも手は届かなかった。
少年が諦めてうなだれたその時に、頬に何か温かいものが伝うのを感じた。
触ってみると何だか温かい水のような感じのものだった。自分がいつの間にか涙を流していたのかなと思ったがそうではないようだ。
少年がこれは何だろうと指についた水を眺めていると、その水はほのかな光を放ち出して見る間に輝き出し、あのいつもの少女の姿へと形を変えていった。
その少女の姿は、いつもの靄がかかったような不鮮明な姿になるかと思いきや、そのまま明瞭なミラーの姿へとなっていった。
服を何も身につけていない裸のミラーがこの場に現れて、彼女は驚いたような表情で辺りを見回している。
「これは……!いったいどこなの?まさか、これがミルトの心と繋がったと言う事……?」
ミラーは周囲を見渡していたが、少し先に浮かぶ不明瞭な形の少年の姿に気づいて、泣きそうな笑顔になって一目散に抱き付いてきた。
「……ミルト!ミルト!やっと会えた!」
ミラーはひと目でその少年の正体に気が付いたのだった。少年は戸惑いながらもしっかりとミラーの事を抱き留めていた。
「ミラー……。僕も会いたかった。……ああ、そうか。思い出した。僕はミルトだ。僕の名前はミルトだったんだね」
少年はやっと自分を取り戻し安堵の溜め息をついた。
すると少年の姿も靄がかかった状態から鮮明な姿へと変わっていった。ミルトも裸の姿だったが、この世界ではそれが当然のような感じがしていた。
ミルトの腕の中でミラーが楽しそうに笑った。目からは止めようのない嬉し涙が流れ出ている。
「ふふっ、あなたの名前はミルトよ。そんな事も忘れてしまったの?どうりで目を覚まさない訳だわ」
ミルトもミラーを腕に抱いたまま答えた。
「うん、そうなんだ。今の今まで自分が誰なのか分からなかった。ここがどこなのかも分からなかったし、全てが不鮮明で分からなかった。でもその中でたった一つだけ確かな事があった。こんな僕を懸命に癒やして守ってくれている人がいたって事だよ」
ミルトはミラーを抱き締める力を強めて言った。ミラーは嬉しさで息をもらした。
「ありがとう、ミラー。君がいてくれなかったら僕はもう駄目だったよ」
ミラーは小さく首を横に振って答えた。
「ううん、私だけじゃないわ。ポムお爺様やトーマやキルチェ、マレスさんとお母様、あとゾルトさん達、みんなで協力してミルトを助けたのよ」
ミルトは多くの人達に多大なる迷惑をかけた事を思い出しうなだれた。
「……そうだね……。目が覚めたらみんなにあやまって回らないとね。……でもそれを考えると今の眠った状態のほうが良いのかもしれない。はは……」
冗談交じりのミルトの口調だったが、ミラーはそれを聞くときっと顔をあげて睨んで言った。
「だめよ!……そんな事を言わないで」笑顔だった表情が泣き顔に変わっていく。
ミルトはたじろいで言った。
「じょ、冗談だよ、冗談。しっかりと自分の責任は果たすさ。もう僕は自分を取り戻して、それにここがどこなのかも分かった。もう大丈夫。次に会う時はちゃんと現実の世界でだよ」
二人は身を離すと向き合い見つめ合った。
「絶対だからね。私の寝ぼすけ王子様」
「もちろんだよ。僕の目覚ましお姫様」
二人は楽しそうに冗談を言って笑い合い、ミラーは手を振りながら先にその場に溶け込むように消え去っていった。
ミルトは周囲に映し出されている全ての思い出の絵画をひとしきり眺めると、両腕を広げてその全てを自分の胸の内側に取り込んだ。
全てを取り戻したミルトも周囲に溶けるように消えさり、そうして自分のあるべきところへと戻っていったのだった。