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第四章 六話

 ミラーはしばらく部屋の真ん中でぼうっと佇んでから、ポムに言われた通りに扉に鍵をかけた。

 ミルトと二人きりの部屋に内側から鍵をかけるという行為に、何かどきりとするものを感じたが、あえて深く考えない事にした。

 ミラーはミルトの枕元に歩み寄ると、じっとミルトの寝顔を見つめた。

 本当に浅い呼吸をしているだけで、全く身じろぎもしないような深い眠りについているミルトを前にして、ミラーは心の中で恥ずかしさと闘っていた。

 たぶん……いやきっと、ミルトはあの掛け布団の下はもう全くの裸なのだろう。自分も今着ているこの浴衣を脱いだらもう生まれたままの姿になる。

 ミラーはこれからこれを脱ぎ部屋の中で裸になって、この目の前の布団の中に潜り込んでミルトと肌を合わせるのだと思うと、猛烈に恥ずかしくなって、なかなか初めの一歩が踏み出せなかった。

 ミラーは次第に、自分で自分が情けなくなって来てしまっていた。

 あれだけの決意を持ってこの部屋にやって来たと言うのに……。

 この意気地無し……。臆病者……。

 ミラーはうつむいてこぶしを痛いほど握りしめて、ミルトの枕元に立ち尽くす事しか出来なかった。

 ミラーはそうしてかなりの時間を心の中で葛藤していて、次第には自分の心までを見失いかけてしまっていた。

 どうしよう、一体どうすればと本気で焦りだして、このままだと泣き出してしまうか最悪この場から逃げ出してしまいそうなところまで、自分で自分を追い込んでしまった。

 ミルトを助けたい気持ちは本当にあるのに、この服一枚を脱ぎ捨てて、ミルトに一歩近づく、その勇気が出ない。

 ミラーはこのままでは本当に駄目だと悟り、一歩引いてから胸に手を当てて、力一杯大きく深呼吸をした。

 これは精霊術を使う前にも用いる精神集中の方法で、これをやると段々と心が落ち着いてくるのだった。何度もゆっくり大きく息を吸ったり吐いたりしてから自分で自分に語りかけた。先程の浴室でも試した困った時にやる自分の心の問題の解決法だ。


 落ち着いて、ミラー。

 そんなに焦らなくても大丈夫。いまこの場所には私とミルトの二人だけしかいないわ。時間もまだたっぷりあるし、ミルトの治療も……それはやっぱり早いに越した事はないけど、ほんの少しだけ待っててもらっても大丈夫じゃないかしら?

 ミルトならちゃんと許してくれるわよ、だって彼はとても優しいもの。

 ミラーはそこまで考えると本当にすうっと気持ちが落ち着いてきた。

 そうこれでいい。ポムお爺様も言っていたわ、無理をしてはいけないと。

 出来ないと思う事や、気の進まない事を無理にしても続かないと思うし、失敗する可能性も高まってしまうはず。

 それにミルトの治療をするのに気が進まないってどういう事?そんなの失礼だわ。

 でも、一体どうすれば良いの……?どうしても勇気が出ないの。

 ミラーはしばらく勇気を出す方法を考えていたがそれはもう諦めて、考え方を変えてみてこう結論を出した。

 ……まずは、自分が出来る事から始めましょう。

 そう、例えば、掛け布団の中のミルトの身体に触れるのが恥ずかしいのなら、今見えている顔や髪を触るのならどうかしら?

 ……うん。それくらいなら別にいくらでも出来るわ。

 それなら、服を脱いでこの場で裸になって、ミルトの布団に入り込むのに抵抗を感じるのなら、急いで服を脱がずにもう服を着たままミルトの横にお邪魔するというのならどうかしら?

 ……それなら……うん。まあ、たぶん出来なくもないわ

 そう、では試してみましょう。

 今出来る事から。

 簡単な事から。


 ミラーは先程から踏み出せなかった初めの一歩を、少し遠回りな方向にだが、やっと一歩踏み出せたのだった。

 ミラーは枕元にかがみ込むとミルトの髪にそっと手を触れた。

 柔らかい髪が手に気持ちが良い。撫でるとふわりとミルトの匂いが感じられてミラーの心の奥がぽっと温かくなった。ふざけあって髪を撫でた時の光景が思い出される。

 ミルトの髪を撫でていたミラーの手が頬に移る。

 温かい。自分の手がどれだけ冷えているのかが分かる。気持ちが動転していたのであまり感じていなかったのだが、少し肌寒くなってきていた。少し湯冷めをしてしまったかもしれない。

 このままだと風邪をひいてしまうかもという思いが頭によぎり、そして大事な治療の前にそれは絶対避けたいという思いがミラーを後押しした。

「ちょっと寒いからお布団に入れてもらおうかな。お邪魔します」

 ミラーはそう小声で言うと、素早くミルトの隣に滑り込んだ。もちろん服は着たままだ。

 そんなに大きくない寝具なので離れている訳にもいかない。でもなるべくミルトの身体に触れないようにしていたが、冷え切った身体にミルトの温かい身体がとても魅力的で、自然と手足が伸びてしまう。

 ミラーの冷えた手足が触れると、その箇所のミルトの肌の温かい体温が徐々にぬるくなるので、ミラーの手足がどんどんと新しい温かい場所を探してミルトの体の上を移動していく事になる。

 そうするとその内に、ミラーはミルトにすっかり抱き付くような姿勢になっていた。

 ミラーの右手はミルトの反対側の脇腹まで伸びているし、片足もミルトの足に絡めるような感じになっている。そしてミラーの左腕はミルトの左腕にしっかりと巻き付いていて、そのミルトの腕はミラーの二つの胸の膨らみの間に挟み込まれる様な感じになっている。

 ミラーの身体が温まってきた頃には、ミラーの心の中は恥ずかしいと言うより、心地よさが勝っていて何か幸せな気持ちで一杯になっていた。

 ミラーは今なら何でも出来そうな気がしてきた。

 ミラーは覚悟を固めると、布団の中でもぞもぞと浴衣を脱いだ。

 そして少し不作法だがそれを枕元に押し込んで、改めてミルトに抱き付いたのだった。

 浴衣を着ていた時とは全く異なる圧倒的な感覚がミラーに襲いかかる。

 身体全体の素肌から直に感じる相手の存在が未知の感情を呼び起こした。

 普段は誰にも触れさせない、と言うよりも見せる事すらない身体の部分さえも相手に触れさせて、無防備に全てを委ねているのだという事実が、優越感や充足感につながって、もうミラーは何か天にも昇る心持ちになってきていた。その中には若干の心地よい背徳感も混じってもいる。

 ミラーは腕をミルトの首に回して、抱き付くような体が密着する姿勢をとると、何だか身体の中の芯から熱くなり頭がくらくらしてきた。ミラーは思った。

 ……これは奇跡が起きるのも無理はないわ……。

 ミラーはしばらくこの状態でこの甘美な雰囲気を味わっていたが、はっと我に返り儀式の事を思い出した。

 そうだ。〈愛の絆〉の儀式の最中なのだった。……ええと、裸で抱き合うまでの手順はこれで完了したと。次は相手の回復を願いながら愛を込めて祈れば良いのよね?

 ミラーは小さくくすりと笑った。

 あとは簡単な事だわ。だってこんなにもミルトのことを熱く想ったことがないほど、私の気持ちは高まっているもの。これが愛なのかしら。人の気持ちなんて形のないあやふやなものだと思っていたけれど、実はこんなにもしっかりと心の中で形作られるものなのね。

 ミラーはミルトをぎゅっと抱き締めて心の底から力一杯祈った。

 ミルト……ミルト!お願い元気になって!身体を治してまた私達の元へと戻ってきて。

 私はあなたと一緒にいたい。一緒に話したい。一緒に生きて行きたい。

 だからお願い早く元気になって。私はあなたに見つめられたい。あなたの声が聞きたい。……あなたに触れてもらいたい。

 ミルト……ミルト?あなたも分かってくれているとは思うけど、わたしはあなたのことが好きよ。

 ……ううん、大好きよ。

 こんなことなんて、あなたにでなければ出来ないもの。早く元気になって戻ってきて。

 これからはあなたのそばにはいつも私がいる。

 だから今から私にも、あなたが元気になるための手助けをさせてね。


 ミラーは祈りを捧げている内に、自分達二人を取り巻く雰囲気が変化しているのに気が付いた。

 安らぎに満ちた濃密な何かに包まれているような不思議な感覚がある。

 ポムの寝室にいるはずなのに、どこか違う別の世界にいるかのようだ。だけどそこはとても気持ち良くどこか心が安らいで何も心配せずに身を委ねていられそうな空間だった。

 ミラーはこの感覚に身を委ねながらも、前もって指示された通りに、そっと治癒の術を試してみた。手で触れた箇所の浅い傷だけを癒やすことが出来る初歩の術で、ミラーには何も考えないで出来るくらいの簡単な術であった。

 ミラーはしばらくこの癒しの術をかけていたが、何やらこの術の様子がいつもと違う事に気がついた。

 普段なら意識を向けた自分の手の平だけが術の効果範囲なのに、今この時はミラーの身体全身がその効果範囲に拡大していたのだ。

 それに範囲だけではなくその術の強度も上がっていそうなのだが、消費される自分の活力は普段通りに少ないと言った、とても奇妙な現象が起きている。

 ミラーはこの術の変化に戸惑って、この現象の事を考えようとしたが、そうするとあの不思議な感覚が次第と薄れていくような感じがしてきたので、すぐに考える事をやめた。たぶんこの現象がポムの言っていた〈愛の絆〉の特性なのだろうと思う事にした。

 ミラーはまず手始めに、ミルトのまだ血の滲む左腕の酷い裂傷を両手でさすっていたのだが、右腕の炭化したような重傷部は、どうしても早めに治し始めたいと思っていたし、左肩や腹部にとても気になる赤黒いあざがあったのも思い出していた。しかしそれを言ったら両足だって、ほっておいたら膿んでしまいそうな深い擦り傷だらけなのも分かっていた。

 ミラーはこれらに優先順位をつけて順番にやらねばと分かってはいるのだが、どの箇所も心配でどうしても気が急いてしまっていた。

 ミラーは心の内で嘆息する。

 だけど全ての箇所を同時には出来ないではないか。

 え……同時に?

 ミラーはしばらく考えを巡らすと意を決してミルトを大の字に寝かせた。

 そして思い切ってミルトの身体の上に覆い被さるように自分の身体を乗せて、お互いの四肢をぴたりと重ね合わせる体勢をとろうとする。

 ミルトの身体の上に乗り上がる時に、ミルトの体中にある傷のかさぶたやささくれがミラーの柔肌にいくつも引っ掻き傷をつけたが、ミラーには気にする余裕もなかった。

 ミラーは自分の全体重をミルトに完全に預けているので、相手が苦しくないかと少し心配になったがどうやら大丈夫なようで安心した。ミルトの呼吸と脈拍が直接胸から胸へと伝わってくるのですぐに分かるのだ。

 これはミラーにもかなり恥ずかしい体勢だが、これで気になるところ全てに癒やしの術がかけられるようになったのだった。

 ミラーの両手と両足は、もちろんそれぞれがミルトの各手足に届いて、お腹の傷もミラーの下腹がちゃんと密着しているし、肩の傷もミラーの口元が来るようになっていた。これで触れられないのはもう背中だけだ。それはあとで体勢を変えれば良いだろうと思えた。

 ミラーは取りあえずはその体勢のまま、はやる気持ちを抑えてじっくりと時間をかけてミルトの身体を癒やしていったのだった。


 ミラーは布団の中での癒やしの術に没頭していたのでいつ夜が明けたのか分からなかった。

 色々とお互いの体勢を変えて、なるべく全ての箇所に平均的に癒やしの術がかけられるようにと、ずっと一生懸命に試行錯誤を繰り返していたのだ。

 ミラーは次は上半身を優先的に癒やそうと考え、ミルトの身体を再び仰向けにしてミルトの身体に乗り上がった。

 その瞬間にミラーの耳に控えめな扉を叩く音が届いたのだった。

「はっ、はい!」ミラーはかなり動転して声が裏返ってしまっていた。

 一瞬その場に気まずい沈黙が訪れる。

 扉の向こうのポムが小さく咳払いをしてから言い出した。

「……いや、すまんの。取りあえずもう朝じゃ。朝飯が出来ておる」

 ミラーは慌てて上半身を起こして答えた。

「はい!ありがとうございます。支度を整えたら伺います」

 ポムは扉の向こうで、うむと返事をするとまた戻っていった。


「ふ~、びっくりした~……」

 ミラーはミルトの胸にそっと倒れ込んだ。

 ミラーがミルトの胸に頬をあてて、しばらくの間まどろんでいると、部屋の中が少し明るくなってきていた事に気が付いた。さっきまでずっと掛け布団の中に潜っていたから分からなかったのだ。

 そして今度は部屋が明るくなった事でミルトの状態が目視出来る事にも気が付いた。

 ミラーは間近にあるミルトの胸をまじまじと見つめた。

 傷もだが、今は触れあっていた肉体のほうに目が行ってしまっていた。

 ミラーは少し身を起こして眺める。

 ミルトって実はけっこう筋肉あるのよね……。

 ミルトの狩人ごっこで引き締まった体躯を、少し惚れ惚れとして見つめ、その胸板から腹筋までを見ていくと、ふと自分の胸元が目に入った。

 自分の白い胸の膨らみとミルトの日焼けした肌が、うっすら触れ合っている箇所があからさまにはっきりと見えて、唐突にミラーの心に羞恥心が舞い戻ってきた。

 ミラーはさっとミルトの裸から目を逸らすと、急ぎながらも慎重にミルトの身体から下りて、素早く布団から滑り出た。そして履き物を探す余裕もなく、枕元に押し込んであった浴衣を取り出して胸に抱えると、走って収納棚の陰に隠れた。

 こんな風にミルトの所から逃げても何の意味もないのだが、今はそうせずにはいられなかったのだ。

 ミラーは部屋の片隅で深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、浴衣の前をしっかりと合わせて着て、帯もきっちりと締めてからミルトが寝ている寝具まで戻った。

 ミラーは、ミルトの寝姿を仰向けの状態で姿勢を正して、頭の下の枕の位置を首もとに苦しくないように調整し、敷き布団のしわを整えてから掛け布団をかけ直した。

 ミラーはミルトの寝姿に満足すると、今度は自分の支度を始めた。

 寝室を出て洗面所に向かい、顔を冷たい水で洗って、乱れた髪を整えてから白い布で動きやすい感じに根元で縛った。服のほうも浴衣はもう脱いで昨日着ていた青い服に着替えた。

 支度を終えてから鏡で自分の姿を確認すると、目が少し赤くて寝不足な感じがするがまあまあいつも通りだった。

 ミラーはミルトのいる寝室に戻り、窓を大きく開けて空気を入れ換えた。

 窓の外から見える空は青く綺麗に晴れ上がり、森の奥から小鳥の鳴き声とともに風が森の香りを運んでくる。昨日のミルトを家に運び入れたどんよりとした天気とはまるで違う、とても気持ちの良い朝だった。

 ミラーは朝の光の下で改めてミルトの寝顔を見た。

 昨日の夜の、傷だらけで青白い顔色の時とは比べものにならないくらいの普段の顔色に戻ってきているミルトを見て、安堵の気持ちとほのかな達成感が次第に心の奥底から湧いてきた。

 ミラーは笑顔を浮かべ、この素晴らしい成果をポムに報告するべく足取り軽く食堂に向かったのだった。

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