第四章 五話
ポムはほっと胸を撫で下ろして、変な空気にしなかったミラーに感謝した。
ポムはこほんと一つ咳払いをすると、今度は少年達に向き直って言う。
「これであとはミルトの治療と看病だけになった。もう儂とミラーだけで良かろう。これでもうお主達は解放してやれるのじゃが、済まないが帰りがけにお主達に頼みたい事がある。このミルトの件を知っている人達に今の状況を改めて伝えて欲しいのじゃ。マレスとミラーの親御さんとゾクト達じゃな。ミルトの現状は一応もう知らせたが、今後の事じゃな。ミルトの命に別状はないが、集中治療状態になるから当分は面会も出来ないと伝えてくれ。まあそう言っても、母親連中は来てしまうと思うがのう。それでミラーの親御さんのほうには、この手紙を渡して欲しい。ミラーにはこれからも色々手伝ってもらわねばならぬからな」
ポムの読みではミラーを二十日以上もしくはもっと長い期間拘束してしまう恐れがあった。
それでミラーの親御さんにその許可を願うための手紙と、学校に通っているミラーを休ませる口実のために〈大賢樹ポムがミラーに研究の手伝いを要請した〉という事を証明する手紙を書いておいたのだった。
少年達はミラーの事は何も怪しまずに、ポムに言われた言づてを伝えに暗闇の中を駆けて行った。これから街中の三箇所を回らなければならないのだから、彼らの今日の帰宅はかなり遅いものになるだろう。
ポムは、今日は彼らをこんな時間までこき使ってしまい、申し訳ないなと思いながら少年達を玄関で見送りって居間に戻った
すると、家の奥の浴場から派手な水音が、かすかに何度も聞こえてきてポムは苦笑した。
ミラーが頭から水をかぶって雑念を振り払っているのだろうと容易に想像できたのだ。
ポムは少年達の今日の終わりまでも長そうだが、こっちの少女の夜もかなり長いことになるなと思いながら、ミルトの様子を見に寝室へと向かったのだった。
ミラーは、脱衣所で服を脱いで裸になると浴場に駆け込んで、風呂桶でお湯を汲み勢いよく頭からその湯をかぶった。
火照った頭を冷やすべく、修行する修道僧の様に精神を修練する感じでやろうとしたのだが、丁度良い温度のお湯が汗と埃を頭から流してくれてとても気持ちが良い。
なんだか幸せな気持ちになってしまった。
するとまた、それに釣られて〈愛の絆〉の言葉が頭に浮かび、同時にその情景が頭をよぎる。
ミラーは恥ずかしすぎて、まるで平静を保てずに心の中で悲鳴をあげながら、それを打ち消す為に次々と湯を頭からかぶった。
心を落ち着かせようとやっている行為なのだが、この丁度良い湯加減のお湯ではその効果は全くと言って良いほど出ない。湯をかぶる、温かくて気持ち良い、そして湧き上がる連想と、この連鎖が止まらない。
お互いの触れ合う肌と肌、絡み合う手と足……、あの儀式の事を考えると、ミラーは心の中で悶絶せんばかりであった。
これでは埒があかないと、ミラーが気が付いたのは五度目のお湯をかぶった辺りからだった。
ミラーは火照った顔で前髪から水を滴らせてきっと視線の先を変えると、清水を溜めてある水瓶に近づいていった。
そして手桶でその水瓶から冷水を汲むと、さっきと同様に勢いよく頭からかぶった。
「ひゃうっ!」
あまりの水の冷たさに声が出てしまう。
しかしこの冷水のおかげで、全身にぴりっと緊張感が走り何とか少し落ち着いてきた。
だがまだ少しもやもやしていたので、あと二回ほど冷水をかぶってから大きく息をつき、声を出しての自問自答を始めた。
これはミラーが行き詰まったときや我を失いそうな時にやる自己解決法なのだった。
「……落ち着くのよ、ミラー。まずは落ち着くの」
ミラーは胸に手をやり何度も深呼吸をする。
「大丈夫よ……、大丈夫。まずは今の状況を把握しましょう。貴女はいまどこにいるの?」
ミラーは改めて浴場の内部を見回した。
壁も天井も滑らかで香りの良い木材で作られていて暖かみのある感じがする。床は磨かれた黒い石で出来ていてつるつるしていて重厚な感じだ。浴室の広さ自体も大きくて普通の部屋くらいある。同様の香る木材で造られた浴槽は、床から一段下げられた造りをしていて、大人が三人くらいゆうに入れる広さだ。
壁には洋灯が何個もつけられて、浴室全体を明るく照らしていて、壁に大きな四角い鏡が備え付けられていたり、清水が湧き出ている高価そうな大きな水瓶があったりと、浴室内にあるどの調度品を見ても一流の品が揃っている感じであった。
ミラーは改めて感心しながら周りを見ていた。
「すごい。なんて立派な浴場なの……」
〈輸精の儀〉の前に身体を清めるための沐浴で、一度この浴室に入ってはいるが、その時の浴室内は暗いままで時間的にも短く、更には気分的にかなり切迫していたので、周囲を見る余裕などなかったのだ。
ミラーは周囲を見回しながら、鏡の備え付けてある洗い場で木の椅子を見つけてそこに座り、その目の前の台に桃色の石鹸が置いてあるのを見て手に取ってみた。
湯をつけて少しこすると、すぐに薫り高い泡が立ってきて驚いた。ミラーはまずその泡で身体を洗うことにした。
ミラーはその良い香りの泡を両手で泡立てて、身体全体に塗っていき、先程からの自問自答を続けた。
「私はいまお風呂場にいるわ。そう、私はお風呂に入るためにここに来たの」
ミラーは右腕から優しくこするようにして洗い始めた。
「それは何のために……?……」
ミラーはそこで頭を振り、その続きを考える事を止めた。
何の為にと考えると、儀式の事が頭に浮かんでしまい、また身動きがとれなくなってしまう。
ミラーは今は何も考えずに自分が出来る事をすることにした。そう、それはまず自分の身体を綺麗に隅々まで洗う事である。
そこでミラーは髪にもその泡をつけて、手櫛で梳かすようにして丁寧に洗い、身体のほうも手から順に両腕と首筋、二つの胸の膨らみから下腹へ、そして背中からお尻へ、太ももからつま先へと丁寧に手の平で優しくこすっていった。
全身をくまなく洗い終えて、お湯で泡を洗い流すと、元から傷や染み一つない綺麗な白い肌が、石鹸の効果かさらに艶やかになったように感じた。
ミラーは感心したように色々なところを触って感触を確かめていた。
「すごい、お肌すべすべ……」
ミラーの腕やお尻を触っていた手が、胸の膨らみへと辿り着いた。
ミラーはじっと自分の胸を見つめるとぼそっとつぶやいた。
「もうちょっとあれば良いのに……」
ミラーは仲の良い女友達の事を思い浮かべた。
サラは見るからに大きいわね。あまり着るものにこだわらないみたいで、たまに胸元が見えそうな服を着ていることがあるのですぐ分かる。ミクはいつも襟元がきちんと合わさっている服を着ているから分かりにくいけど実は結構ありそう。背は私より小柄だけど胸の大きさだけで言うと私と同じ位かも。
私のこの体型はどうなのかしら……。ミルトから見て魅力的……?
ミラーは鏡に映った自分をじっと見つめて格好をつけてみたり、腰をひねってお尻の肉付きを確かめてみたり、お腹のお肉をつまんでみたりしていたが、身体が冷えてきたようで一つ小さくくしゃみをした。
ミラーは、はっと我に返り、急いで湯船につかった。
温かく丁度良い湯加減のお湯がミラーを包み込む。ほうと大きな溜め息がもれる。
ミラーが気持ち良く湯につかっていると、先程からあえて考えてこなかったあの事がふつふつと頭の中に湧き上がってきた。
そう、それはこれからする〈愛の絆〉という名の儀式だ。
ミラーは恥ずかしさでぶくぶくと顔半分を湯の中に沈めたのだった。
これからミラーがミルトに対して行おうとしている〈愛の絆〉とは、儀式魔法に区分される癒やしの術の一つだが、一般の儀式魔法とは少し色合いが異なるものであった。
まず魔法というものは、万人に使う事が出来る様に理論的に体系化されたものでなくてはならない。しかし〈愛の絆〉はその儀式をする事で得られる結果は分かっていて、使用条件や発動手順も解明されているのだが、どういう理論でその効果が発動しているのかが全く分かっていなかった。そもそも魔法には精霊の力添えが必要不可欠なのだがこの儀式にはどの精霊も全く関わっていない事が分かっている。そしてこの事からこの術は精霊術でもないと推測されていた。
よってこれらの事から〈愛の絆〉は奇跡の御技と分類されている。
だがこれは奇跡なのだが、言うなれば任意で起こせる奇跡なのだった。
まず、その儀式によって起こる効果は癒やし。
基本的に自然治癒力の強化が主なのだが、その効果は絶大である。
半死半生の重傷者がみるみる回復していった例や、雪山などで凍死寸前だった者が奇跡的に息を吹き返したという例が山ほどあるのだ。
この儀式を使うにあたり、術者に魔術等の知識がなくても特に何も問題はない。何か特殊な触媒が必要になったり、何らかの呪文を唱える必要さえ全くないのだ。
これだけを聞くとかなり手軽で簡単そうに感じるのだが、実はそれを使用する術者に特別な条件が必要になる。それはまずは術者は女性に限られてしまう。しかもまだ男を識らない無垢な乙女であることが前提になってしまうのだ。これらの理由はもちろん分かってはいない。
さらにこの儀式の一番の難問は術者の被術者に対する愛の存在で、この愛がないと奇跡は起こらないのだ。
それ故、この儀式は術者とその対象者が、大幅に限定される治癒の術であるとも言える。
そして儀式の手順だがこれはかなり単純で明快である。
一応諸説はあるのだが、簡単に言うとただお互いが裸で抱き合うというだけのものだ。
直に肌と肌を合わせる事で愛を伝えて、二人の間で絆を結び、癒やしの祈りを内なる神に捧げる事で、治癒の奇跡が起こると言われている。
ミラーは小さい頃から書物が好きで、物語や逸話にその儀式の事が色っぽく書かれているのを読んでやり方などは昔から知っていたし、好きな人に重ねてそういった情景を夢想したこともあった。それは悲劇の人に酔いしる事が出来て、なかなか気持ちの良いものだったが、その儀式を実際にする事になろうとは全く思ってもみない事であった。
これからミルトと裸で抱き合うのだと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしい。
相手は生きるか死ぬかの瀬戸際の重傷者で、自分の事を見る事も感じる事も出来ないのだと分かっていても気後れしてしまう。それに若干の怖さもある。
この儀式は言い換えれば、愛の試練とも愛を試すものと言っても過言ではない。相手への自分の愛が足りなければ奇跡は起こり得ないのだ。ミルトの事が好きだとはいえ、この気持ちが本当に本物の愛であるという確証は何処にもない。今の自分の気持ちの有り様を、あれこれ考え出すと本当に切りがなかった。
色々思い悩んでいたミラーは、もう覚悟を決めて湯船から上がると、手早く身体を拭いて用意してもらっていた白い浴衣を着てミルトのいる寝室へと向かった。
ミルトを救いたいと思うこの気持ちこそが、純粋な愛であると信じて。
ミラーがミルトのいる寝室に入ると、ポムがミルトの枕元に座っているのが見えた。
ポムはミルトに手をかざして術で診察をしている最中だったようだ。ミラーは邪魔をしないように静かに壁際で待とうとしたが、ポムはミラーを認めると術を終えてミラーの元へやって来た。
「用意は出来たようじゃな」
ミラーはポムを見上げてはっきりとした口調で答えた。
「はい。大丈夫です」緊張で膝が少し震えそうだったが、何とか抑え態度には出さないように努力していた。
ポムはそんなミラーをいたわりの目で見つめて言った。
「とにかく無理はせんようにな。ミラーなら知っていると思い、〈愛の絆〉の奇跡の詳しい説明もしないでいたが……。……それも大丈夫かの?」
「はい」ミラーの顔がほんのり紅いのは湯上がりのせいばかりではないだろう。
「よろしい。ではこれからミラーには愛の絆の奇跡を用いて、ミルトの身体の治療を行ってもらうのじゃが、それと併用して別の治癒の術もかけていってもらいたい。それというのもミルトが戦いにおいて精霊術で使った右腕の損傷状態が酷すぎるからじゃ。自然の治癒の強化ではまるで追いつかんな。このままだと腐るか崩れ落ちるかしてしまうじゃろう。しかし現時点での右腕の切断施術はミルトの体力的にも出来んからの」
ミラーは不安げに訊ねる。
「ポムお爺様……、でもミルトには治癒の術を施せるほどの活力が、まだ戻っていないのでは……」
ポムは頷いてから説明を加えた。
「うむ、確かにそうじゃ。しかしその活力の回復を待っていては手遅れになりかねない。だから策を考えた。まずミラーが使用する治癒の術は初歩の初歩、お主が初めて覚えた癒やしの術のみを使う。そして術で働きかける精霊はミルトの身体に宿しているものを使い、その術で消費される活力はミルト本人のものではなく、輸精の儀の際にミラーが分け与えた命の欠片を使用する。こうすることで安全にそして少しづつじゃが確実に治癒の術を施す事が出来るはずじゃ」
ミラーは感心しながら聞いていた。
確かにそれならばお互いの身体の負担は少なくなるだろうし、いつもの術と勝手が違うので術式が多少変わるが出来ない事でもなかった。
しかし、ミラーは初めて覚えた治癒の術と言われて、戸惑いが隠せなかった。
「あの、ポムお爺様……。私が初めて覚えた治癒の術は本当にまだ小さい頃に自然と出来る様になった術で、ただの擦り傷を治す程度のようなものなのですが……」
ポムは頷いた。
「うむ。儂はまさしくそういうものを想定しておるよ。これからやろうとしている儀式〈愛の絆〉で大事になるのは愛じゃ。無心に相手を想う心が重要になってくる。意識集中状態を作らねば出来ない術ではむしろ邪魔になるじゃろう。けれども初めての術くらいともなれば自分の頭と体に染みこんでいて、何も意識しなくても出来るはずじゃ。それに消費する活力も少なければ少ないほど良いからのう」
ミラーはなるほどと思い、自分の初歩の術を考えてみた。確かに治癒の力の流れとその筋道さえ作ってしまえば、手で触れるだけでその箇所を癒やす事が出来そうだ。
それにと、ポムの説明はまだ続いた。
「この時、一番期待しているのは愛の絆の特性じゃ。その特性が何かと言うと、この愛の絆の基本的な性能は、前言った通り自己治癒力の大幅な強化な訳じゃが、実はその強化はその奇跡中に治癒の術を行っていた際にも当てはまるのじゃよ。言うなれば治癒の術の効果だけが大幅に強化されるという訳じゃ。もちろん何故そうなるかの理論は全く解明されておらんがのう」
ポムは何事もないように言っていたがミラーには感心するばかりであった。ポムの考えるところはミラーには全く思いも寄らない高みにあって、全てが前々から緻密に考えられているように思えた。
ポムは窓に近づき鎧戸をきっちりと閉めると、壁に設置してある燭台の火を消して回った。するとこの部屋の明かりはミルトの枕元の台にある小さな洋灯の灯り一つだけになった。
ポムは寝室を出る前に、扉のほうを向いたままミラーに話しかけた。
「ではミルトをよろしく頼むぞ。朝食時にまた声をかけるが、お主の気休めになるかもしれぬから、その時までこの扉には内側から鍵をかけておきなさい」
ポムはこれからする儀式が、年頃の少女にとってどれだけの抵抗があるか分かってくれているようだ。
ミラーは薄暗くなった部屋で小さく頷くと、か細い声ではいと返事をした。
ポムは部屋を出て行き、そしてミラーの長い長い夜が始まったのだった。