第四章 四話
触媒素材の準備と儀式の説明を終えて、ポムとミラーは所定の位置に着いた。
ポムは土の入った皿を抱えミルトの足元に立ち、ミラーはミルトの左側の枕元で立ち膝の姿勢で花瓶を抱えている。
ポムはミルトの腹に土を振りかけて、もう何かを呟き始めている。すでに儀式に入っているようだ。
ミラーはまずこの儀式の成功を内なる神に祈り、緊張した面持ちで儀式を始め出した。
ミラーはミルトの焼け焦げていないほうの左手を両手で包むようにして持ち上げて、汲んできてもらった小川の水に自分の手ごと浸した。
清廉な水の冷たさが、少し汗ばんでいた身体にとても気持ちが良く感じられる。
ミラーは、はやる気持ちを抑えて、深く息をついてから目を閉じて意識集中状態を作り上げた。
両手を浸している水に心を向けて、普段は目に見えない精霊達を心で知覚する。そして次第に見えてきた精霊達に心で呼び掛けた。
―水の精霊達よ、私の願いを聞いて欲しい。どうか私の導きに従ってこの少年を助け給え!―
ミラーの決意のこもった言葉に反応するかのように、花瓶の水は小さくさざめき、淡い水色に発光した。
ミラーは精霊達のはっきりとした反応に勇気をもらい、精霊にこれからお願いしたい事を思い浮かべた。
まず精霊にミラー自身の肉体の中に入ってもらい自分の命の欠片を持ってきてもらう。そしてそれを持ち、ミルトの肉体の中に入って右腕に向かい暴れている火の精霊を沈静化して、その後ミルトの左腕に留まりミルトの身体を癒やしてもらう。そして今後自分の願いがなくてもミルトの事をこれからもずっと守ってあげて欲しい。
ミラーはこれらの事を繰り返し繰り返し心の中で精霊に願った。
下位の精霊は力があっても存在が希薄なため、術者が存在を認知して確定してあげなければ力を振るう事が出来ない。そして精霊術においては、精霊に対して明確な指示を出さない限りは、その力が思い通りの結果を出す事は決してないと言えるのだ。
よって、精霊術においては精霊にお願いを伝えるという過程がかなり重要になる。
この過程が必要なために、精霊術は単純な結果だけを求めるのなら早くて簡単なのだが、複雑な過程が必要な難しい仕事を求める為に、願うのに時間がかかり過ぎたりすると、きちんと願っても結果が思うように出ない事が多々ある。
それは、その精霊に語りかけ願える時間が有限だからだ。そしてその願える時間は術者の持つ精霊親和度が大きく影響している。それが低いと願える時間は短く限られてしまい、長い間願おうとしてもすぐに集中が解けて術が破綻してしまう。
精霊術の難しい所はここであり、これがある為に使える人間はかなり限られてしまう。
しかし逆に魔法と言うのは精霊に伝えるべき言葉をあらかじめ言霊で呪文として組み上げているのでこの過程は楽になり複雑な事でも指示出来るようになっているのだった。
だが、ミラーの水の精霊との親和度はかなりの別格で、とても長い時間をかけて綿密にこれからの筋道を描き上げる事が出来ていた。
次は実際に精霊を自分の身体に取り込む段階になった。
ミラーは水から自分の手だけを引き上げて、傍らに用意してあった小刀を手に取った。
鋭く輝きの放つ刃の切っ先をじっと見つめてから覚悟を決めて、手の平に押し当てるとすっと軽く引いた。手の平に鋭い痛みが走り一直線に赤い筋が描かれてうっすらと血が滲んでくる。
ミラーはその手を再び水に浸し、水中で水を強く握りしめて心の中で語りかけた。
―水の精霊よ。この私の手の傷を門として私の中へ。そして私の中心で命の欠片を受け取り、またこの手に戻り給え―
活性化した水の精霊が花瓶の中の水を淡く光らせてその周囲を青い光で染め上げた。
精霊達は青い光の粒になり、ミラーの傷口からその呼び掛けに応じて体内に入り込んできた。
ミラーは苦悶の表情を浮かべる。
この身を生きたまま凍らせると言うような感覚の激痛が、手の平から腕へとそして胸の中央まで駆け上ってくる。
水の精霊はミラーの胸の奥で暖かいものを分け取ると、また手の平にまで戻ってきた。
ミラーは身体の内部を駆け巡る激痛に耐えて、そして命の欠片を分け与えた事による極度の疲労に襲われながらも、なんとか集中状態を保ち続けた。
そして次にミラーは震える手で今度はミルトの手を水から出して、自分と同じ様に小刀で傷をつけた。
人に傷を付けるという行為にかなり罪悪感があったが、覚悟を決めてやってのけた。
ミラーは自分の切り傷とミルトにつけた切り傷がちょうど合わさるようにして手を結び、再び水に浸して強く願った。
―水の精霊達よ。私達それぞれの傷を門として私の中から彼の中へ入り給え―
精霊達はミラーの腕付近から手の平の傷までやって来たが、そこで止まってしまっていた。
そう、ここがこの儀式の最大の難関である被術者の〈肉体と精神の関門〉の突破を試みなければならない段階なのだった。
生き物の身体はある種の防衛機構があり、普通そう簡単に異物を受け入れたりはしない。それは肉体でもそうだし霊体だとしても同じ事だった。
ミラーはこの状況は前もって教えられて予期していた事だったので、落ち着いて呼びかけの対象者を切り替えて話しかけた。
ミラーはミルトの深層意識に向かって呼び掛ける。
ミルト……ミルト!私よ、ミラーよ。どうか私の言葉を受け入れて。そして私の命を受け止めて。私は貴方を助けるために水の精霊の助けを借りています。あの子達は貴方に害を及ぼすものでは決してない。どうか私を信じて貴方の中へ通してあげて!
普通なら他人の身体に精霊を流し込む事などは到底出来はしない。ただ、その関門をこじ開けるという方法も秘術として無くはないが、それをすると被術者の心と体に一生残る重大な傷が出来るのは間違いなかった。
しかし、門を開こうとするその相手が、自分にとって特別な相手、例えば愛する者や尊敬する人物なら話は別になる。
流し込まれる精霊がその特定の人物の命の欠片を持つ事で、それが通行手形としての役割を持ち、さらに被術者の深層心理に語りかけ承諾を得る。
この過程を踏む事がこの輸精の儀式の肝となっていたのであった。
ミラーの必死の呼びかけはミルトの心に届き、それに答えてミルトの身体はミラーの命の欠片を持つ水の精霊を受け入れたのだった。
ミラーはミルトの手の平につけた傷から精霊達が、ちゃんとミルトの体内に入ったと確信すると新たな指示を出すために願った。
―私の水の精霊達よ。そのまま進み彼の右手へ。そして、そこで暴れる火の精霊達を沈め給え。その後、再び左手に戻りそこに宿りて、この宿主を癒やし未来永劫守り給え―
水の精霊達は、指示通りに左手に赴いて、まず火の精霊を沈静化させた。
その時、火の精霊達は未だにミルトの活力を奪いながら騒いでいたが、水の精霊がやって来ると、たちまち落ち着いて大人しくなっていった。
理由としては競争相手でもあった風の精霊がすでに大人しくなっていたと言うのもあるだろう。ポムが一足早くに土の精霊を使っての風の沈静化に成功していたのだ。
そして水の精霊は左腕に舞い戻るとそこに留まった。
ミラーは全て無事に事をなしたと直感で確信すると集中を解いた。
するとミラーは途端に極度の疲労によるめまいに襲われて、身体を支えられずそのままミルトの枕元に倒れ込み意識を失った。
ミラーが目を覚ますと、まだあの時のミルトのそばで気を失ったままの体勢でいて、身体の上には薄い上掛け布団がかけられていた。
ミラーは身を起こして周りを見渡したが、この部屋には寝ているミルト以外に誰もいない。ミルトのほうをうかがうと、ミルトはいまだ身じろぎもせずに静かに眠っている。
ミラーはミルトがちゃんと息をしているのかと口元に耳を近づけて呼吸音を聞き、脈は大丈夫かと首元に手を添えて脈拍を確認した。弱々しいがそれらがはっきりと分かったのでミラーはほっと胸を撫で下ろした。
ミラーはしばらくミルトを見守っていたが、今出来る事はなさそうなので取りあえず皆を探しに行く事にした。
ミラーが寝室を出ると良い匂いが漂ってきているのに気が付いた。煮込み鍋の美味しそうな匂いだ。
ミラーが居間に入ると少年達が忙しそうに動き回っているのが見えた。トーマは厚手の布を何枚もと大きな洗面器を持って奥に歩いていき、キルチェは食卓の皿と箸を並べている。
食卓の上にはすでに沢山の麺麭と果物が中央の籐籠に盛りつけられていた。
キルチェがミラーに気づいて声をかけてきた。
「あっ、ミラー起きたんだね。体調は大丈夫?」
ミラーは頷いた。
「うん」
キルチェは今度は台所の奥のほうへ声をかける。
「ポム爺さ~ん、ミラーが起き出してきたよ~」
その声を聞きつけてポムが台所から姿を現した。ポムは前掛けで手を拭きつつミラーの元へ来ると、じっとミラーを見下ろしてから安心したように息をついた。
「ふむ……。どうやら大丈夫なようじゃな。今はまだ少し疲れはあるはずじゃが、特に変な後遺症はなさそうじゃ」
ミラーは何を言われているか分からなかったので、少し小首を傾げてポムを見上げていた。
ポムは安心させるように微笑んで言った。
「絶対に危険のない儀式などはないからな。ましてや今回の儀式は精霊との絡みが多かったしのう」
ポムはそう言いながらミラーを促して食卓の椅子に座らせた。そして自分は台所に戻ると湯気の立つ土鍋を鍋掴みでつかんで持ってきた。傍にいたキルチェにはトーマを呼びに行かせて、自分はお椀に鍋の中身をよそりつけながらミラーに話しかけた。
「お疲れさまじゃったのう。まずは腹ごしらえをせんとな」
めしと聞いてすぐさま食卓にやって来たトーマが、ポムのよそったお椀を各席に配るのを手伝い始めた。
全ての準備を終えるとポムと少年達は所定の席についた。そして頂きますの挨拶をする前に、ポムはミラーに話しかけた。
「さて、お主の尽力のおかげでミルトの容体も取りあえずは大きな峠を越えた。まだ当分予断は許さないがのう」
ミラーは謙遜して首を横に小さく振っていた。ポムは話を続けた。
「それでやるべき事はまだまだ残っておる。申し訳ないが食事をして精をつけて、もう一踏ん張りしてもらいたい」
ミラーは真剣な目でポムを見つめ返して、決意のこもった声で、はいと返事をした。
ミラーは心の中で覚悟を決めていた。
ミルトの看病は私の仕事だわ。これから何日も寝ないで看ることにもなるかもしれないのだからしっかりしなくては。
子ども達は頂きますと挨拶をすると大いに食べた。少年達はもちろんだが、ミラーも珍しい事に麺麭と煮込み鍋のお代わりまでしていた。
綺麗に食べ終えてから食事の片付けを皆で手早く済ませて、ポムは少年達を引き連れてミルトの元へ向かった。
ポムは敷き布団の覆いの替えを持ち、トーマは湯の入った洗面器を抱えて、キルチェは大量の手拭いを運んでいる。
寝ているミルトのところに来ると、全員でミルトの身体の汚れを丁寧に拭き取る作業に取りかかった。ミルトの身体全身が泥で汚れていてそこいら中が傷だらけだ。まともなのは下着で隠れていた部分くらいだろう。傷口の近くは強く拭くと血が滲むのでかなり注意が必要だった。とにかく初めの内は手拭いを洗うお湯がすぐに真っ黒になるので、トーマは何度も湯を取り替えに風呂場を往復していた。
そうして、何とか全身を拭いて綺麗にしたが、酷い傷の箇所はあまり触れないようにしておいた。特に煤けた右腕と左腕の大きな切り傷がそうだ。
最後に男三人がかりで敷き布団の覆いも清潔な物に取り替えて、更に掛け布団も替えて、部屋を綺麗に掃除してやっと一段落出来た。
ポムが腰を叩きながらやっと居間に戻ってきた。
「ふう、疲れたわい」
そのポムの後ろを同様に疲れた様子を見せるトーマが、首筋をほぐしながらキルチェに訊ねた。
「なんでぐったりしている人間は重く感じるんだろな?」
「そうですね。勝負に負けておんぶしている時よりも、ずっと重い感じがしましたね」
ポムがそれを聞きつけて軽く説明をする。
「それはのう、おんぶされる側がおんぶをし易いようにと、相手に色々気を使っているからじゃよ。手で肩を掴んだり両足で腰を絞めたりして、相手と一体化するように無意識に重心の位置を調整しているのじゃ。少し重心の位置をずらすだけでもかなり重さの感覚は違くなるからのう」
疲れて帰ってきた男衆に、ミラーはお茶を配りながらぼやくように言う。
「私も手伝うって言ったのに……」
ミラーはポムに今は身体を休めるのが仕事だと言われて、一人ぽつんと居間の食卓で待っていたのだった。
ポムはミラーを見るとおもむろに言った。
「ふむ、そろそろ沸かし直した湯が良い湯加減になっているじゃろう。ではミラーよ、まずは湯浴みをしてきなさい」
ミラーは予想もしていない事を言われてとっさに言葉が出なかった。
「……え?ええっ?お風呂……ですか?沐浴ではなくて?そんな、こんな場合に……」
ミラーは何か理由があるはずだと分かってはいたが、ポムの真意が分からず混乱してしまっていた。
ポムも説明が足りてなかった(と言うかミラーに全くしていなかった)と後悔をしたが、今となってはもう遅い。
これからミラーにやって貰おうとしている治癒の儀式は、ある理由のせいでこの少年達の前では説明出来ない。ならば、年頃の少女であるミラーに、自分が詳しく説明する事が出来るかと言うと、それもかなり避けたいものであった。それ故にいつまでも説明を後回しにしていたのだが、つい先走った事を言ってしまった事で、中々厄介な状況に陥りそうだった。ここで変にまごつくと少年達にも変に勘ぐられ、そしてミラーにもこの場で恥ずかしい思いをさせてしまう。
ポムは一瞬で考えを巡らして、ミラーの博識さと聡明さに賭けた。ポムはすっと近づくとミラーにだけ聞こえるようにぼそりと言った。
「これからお主にやってもらいたいのは〈愛の絆〉の儀式じゃ」
ミラーはその言葉を聞き、腑に落ちると急いで顔を伏せた。一瞬で顔が真っ赤になったのが分かったからだ。
ミラーは沸騰しそうな頭で考えた。
……そう、だからポムお爺様はミルトの身体を綺麗にして、私にもお風呂に行けと言ったんだわ……!
ミラーはこれから自分が何をするか全てを把握したが、同時に今この時がどんなに自然に振る舞うべき時なのかも理解した。
これから私がミルトにする儀式の事を、この少年二人に何があっても悟られる訳にはいかない……!
ミラーは普段通りの表情を作ると、はきはきした言葉遣いでポムに返事をした。
「はい分かりましたポムお爺様。癒やしには清潔さは必要ですものね。これから治癒を始めたら長丁場になってそんな余裕もなくなってしまいますし。それに私も先程の儀式で汗まみれになってしまっていて、少し気持ちが悪かったものですから、ありがたくお湯を使わせてもらいます。では」
ミラーは若干早口でそう言うと、くるりときびすを返して、すたすたといくらか早足で浴場へと向かったのだった。