第四章 二話
ポムはミルトを背負いながら、なるべく静かに、しかしなるべく急ぐように歩いていた。
背中に担いだミルトの呼吸はとても浅く、心臓の鼓動も感じ取れないほどに弱まっている。
ミルトの全身の体温も何故か異様に下がっていて、ポムは自分の外套にミルトの身体を完全にくるんだ状態で運んでいたのだった。
ポムは応急処置の治癒魔法を何度も種類を変えて試みていたのだが、何故かどれもめぼしい効果が現れないのに気づいた。
さらに、ほんの初級の治癒術すら受け付けない事に気づいたポムは、ミルトの身体が非情に危険な状態に陥っている事に思い至った。
それは〈体力精神力欠乏症〉という症状で、簡単に言うならば身体の中の活力が完全に枯渇している状態の事であった。
これに陥ると自然治癒力が極端に下がってしまい、更にはどんな治癒の術も効かなくなってしまうのだ。早く処置をしないと命に関わる。
それならば、まず活力を補充する高度な術をかければ良いのだが、いまミルトの身体に急に余計な負担をかけると、そのせいで微弱な命の営みが止まってしまう可能性も高く、ポムはこの相反する考えに気が狂いそうだった。
ポムは自分をなんとか落ち着かせて、現状を把握するべく街のほうを見た。
街は先程からあまり近づいているようには見えない。焦る気持ちを抑えて大きく息をつくと、その時始めて、街のほうからこちらに向かって走ってくる人影に気が付いた。
ポムは何じゃろうと思ったが、深く考えるのは止めておいた。背中のミルトの事が心配で他の事を考える余裕があまりないからだ。
次第に近づいて来る二人が顔なじみの護人だと分かったが、どういう訳か彼らが凄い形相で走ってくるのを見て、ポムは少し呆気に取られていた。
二人の護人はポムの目の前で止まり、激しく乱れた息を整えようとしている。
ゾクトがまだ荒い呼吸のままで訊ねてきた。
「……ポ、ポムさん!ミルトは?」
ポムはいきなりミルトの事を聞かれて少し面食らったが、歩みを止めずに答えた。
「……うむ。今儂の背におるよ。かなり負傷しているがのう」
ポムは前を塞ぐように立っていた二人に声をかけた。
「すまんが、どいてくれるか?」
二人の護人はこちらに構わず歩いてくるポムに慌てて道をあけた。そしてポムが脇を通りすぎる時になってやっと、護人達はミルトの存在に気が付いた。初めは二人ともポムが何か大きな荷物を背負っているなと思っていたのだ。
ゾクトは飛びつくようにしてミルトを覗き込んだ。
「……ミルト!」
テッドも眉をひそめて覗き込んでいた。
「こりゃあ……ひでえ……」
ゾクトはうわずった声でポムに訊ねた。
「……ミ、ミルトは大丈夫なんですかい?」
ポムは変わらぬ速度で歩きながら、前を向きつつ答える。
「大丈夫……とはまだ言えん。生きてはいるが早く処置しないと命に関わる」
「そ、そうですか……。なら急いだほうがいいんじゃないですか?俺がおぶりますよ!」
ゾクトは狼狽したように言ってミルトに手を伸ばしかけた。
ポムは少し強めな口調で制止した。
「いかん!……いやいい。このまま儂がおぶって行く。あまり衝撃は与えたくないし、それに時々治癒の術を試しておるからの」
「そ、そうですかい……」
ゾクトは何か落ち着かないように鎧姿でもじもじしている。
二人の護人はしばらく黙ってポムの後ろに付き従って、ミルトの背中を眺めていたが、少し落ち着いてきていくつかの疑問をポムに問いかけてきた。
「それでポムさん。なんでミルトはこんな姿に?ゾクトはミルトをはばかるような静かな口調であった。
「うむ、儂が見つけた時は獣に追われてもうぼろぼろじゃったよ」ポムは淡々と答えた。
「獣ですか……。どんな奴でした?」とテッド。
「ん?風豹じゃよ」ポムはあまり考えずに答えてしまっていた。
「……ふっ風豹っ!?」二人の護人は飛び上がらんばかりに驚いていた。
「風豹って言うとあの魔獣のですかい!?風の力を操って野を矢のように駆け巡ると言われる……。まさかそれがこの地域にいるなんて。……え?えええっ!ミルトはそれに襲われて生きているってことですかい……」ゾクトは信じられないと言った感じだった。
「風豹と言えば、狩人達の討伐難度でも最上位の魔獣の一つですぜ。風豹被害って言うと百の命の損失は下らないとも言うほどですからねえ」
テッドは感心したようにそこまで言ったところで、慌てたように辺りを見回し武器の柄に手を置いた。
「げげっ!……とすると、今この辺りをそいつがうろついているって事ですかい!?」
ゾクトもそれを聞いて急いで武器に手を置いて周囲を睨みつけた。
ポムは緊張している二人を安心させるために、わざとのんびりした口調で言った。
「大丈夫じゃよ。そやつならもう退治しておいた」
二人はほっとして身体の緊張を解いた。二人は事もなさげに言うポムに改めて尊敬の念を向けた。
「いやはや……さすがですね、ポムさん。あの風豹を討伐するとは」ゾクトは感心しきりだ。
テッドが思いついた様に言った。
「ああ!それじゃあ、あの大爆発がそうだったんですね?あの規模からしてただ事ではないと思ってましたけど、風豹相手ならそりゃ納得ってなもんですよ」
ポムは後ろから聞こえてくる、自分への賛辞の声を聞き流しながら黙々と歩いた。
ポムは内心思っていた。
別に儂が一人でやった事ではない。確かに風豹にとどめを差したのは儂じゃが、あんなに弱っていなければたぶん儂でも無理じゃったろう。そして確かな事はまだ分からないが、あの状況を作り出したのはミルトなのであろうと推測出来る。ならばミルトが褒められるべきなのかもしれんがそれを逐一説明する事も出来んし……。
まったくミルトは予想も出来ん事をしでかすわい。一人で外界に出たかと思えば、魔獣と出くわしたのにも関わらず何とか生き残り、どうやってか魔獣に傷までも負わせて、そして自分も命に関わるほどの大怪我をするなんて……。
ポムはミルトの無鉄砲さに怒りを覚え、次に魔獣と立ち向かい生き延びた機転に興味を抱き、そして魔獣を負傷させた事を誇らしげに思いながら、今背中で瀕死の状態である事を考えると心が千切れるように痛むのだった。
ポム達一行はようやく門の内部が見える位置にまでやって来た。門のそばにはいつも見かけない程の多くの人影が見える。
テッドがポムの背中のミルトをちらりと見て言い出した。
「いやあ、あれはちょっと人が多すぎですぜ。こんな姿のミルトを背負って帰ったらまた大騒ぎになりやすよ」
それを聞いたゾクトは苦い顔になった。ミルトの事が心配でその事をすっかり忘れていたのだ。
ポムも門の様子を見て顔をしかめた。
「むう、確かに多いのう。なんで今日に限って?」
「いや、その爆発の件ですよ。あんな事は滅多にあることじゃないですから。城の衛兵達が物見のためにわらわらと……」テッドが説明した。
ゾクトは舌打ちして考え込んだ。
ちっ。……そうだった。どうするか……?このまま背負った状態でミルトを隠して行ったとしても門のそばにいる大勢から隠し通すのは不可能だ。仲間の護人連中だけならまだしも衛兵どもはどうにもならん。
ゾクトが腕を組みながら悶々と考えていると、ポムが落ち着いた声で言い出した。
「ふむ、城の衛兵達か。確かにこのミルトを見られたら面倒な事になるな。それにあやつらに細かく説明する暇もないしのう」
ポムはしばらく思索を巡らしてから言った。
「よし、ではこうする事にしよう。お主達のどちらかに一足早く帰ってもらい、その場にいる全員に聞こえるように話してくれれば良い。儂が魔獣の風豹を倒して死骸をそのままにしてきたから欲しければ勝手に持っていって良いと言っていたとな」
ゾクトは納得したように頷いた。
「おお!なるほど。それを聞けばあそこにいる誰もが急いでその場に行きたくなりますなあ」
テッドも感心したように言う。
「ふむふむ、しかも衛兵どもは仲間全員でその場に向かうに違いない。衛兵どもはみな金に意地汚いからなあ。ようし!じゃあ、おいらがひとっ走りして盛大に触れ回って来やすよ」
テッドはそう言うが早いか、早速門に向かって駆け出していった。
この国で魔獣の死骸が道端の小石を拾うかのように手に入ると聞かされて、心が躍らない者が果たしているだろうか。
外界に棲む普通の野獣でも、ある程度の価値があれば狩人組合が高値で買い取ってくれるというのに、魔獣ともなるとその金額の桁がまるで変わってくる。
ましてや風豹という魔獣は、この地域では滅多に見かけない魔獣で、更には討伐難度の最上位に位置するともなれば、その買い取り金額はかなりのものになる。それがこの街のすぐそばに転がっていて簡単に手に入るとなれば、まさに〈天から降る金貨地から湧く銀貨〉であろう。
テッドが門に着いてそこにいる者達に声高に説明をし出すと、それを聞くや、いち早く騒ぎ出したのはやはり城の衛兵達であった。
彼らはすぐに国の研究のためという名目で、魔獣の回収部隊を独断で編成して大慌てで街を飛び出して行った。それも街道沿いに行くのではなく、その場に最短距離で行こうと荒れ地を突っ切るほどの性急さである。
ゾクトは遠くですれ違う衛兵達を皮肉な目で睨んで、金の亡者めと呟いたが、門からだいぶ人々が散っているのを見て安堵もしていた。
ポムはそんな事はまるで気にせず黙々と歩いていた。
二人が門をくぐり、街の中に入った時には門の護人達もテッドの説明で納得して警戒態勢を解き、見物に来ていた野次馬連中も引き上げ始めていた。
ポムが門を通過する際に、好奇心旺盛な護人や街の者が何人かポムに質問に行こうとしたが、ゾルトとテッドがうまいこと引きつけて誰も近寄せないようにしていた。
彼らがポムを無事に門から遠ざけてポムから離れると、まるで示し合わせたかのようにどこからか三人の子ども達がポムに寄り添ってきた。
トーマとキルチェとミラーは無言でポムを囲うようにして歩き出した。
三人の子ども達は、ポムに背負われている外套でくるまれた中身の正体は分かっていたし、その中身の状況がかなり良くないと言うのも、ポムの表情で簡単に推測出来ていた。
重苦しい沈黙を身に纏い、耐え難い時間を過ごして、やっとポム達一行はポムの家へと辿り着いたのだった。