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第三章 十四話

 ミルトはまた地面を強く蹴った。

 もうどれ程の間、この獣から逃げ回っているのだろう。

 汗が滝のように流れて、心臓は壊れてしまいそうな勢いで激しく動いている。のどは息をするたびに焼け付くように痛み、全身いたるところが傷と疲労でもうぼろぼろだ。まだ動けるのが不思議なくらいだった。

 着ている服はそこら中が破れ、泥と血の染みだらけで、履いていた靴はすでにどこかにいってしまい、もう両足とも裸足になっていた。

 ミルトは心身共にぼろ雑巾のようになりながらも、必死に獣から逃げ続けていた。

 ミルトは何とかポムがいる方向へ逃げようとするのだが、その獣はその動きを見通してか先回りをするので、どうにもこの場から動けなかった。

 その内に、この速度に慣れてきたはずのミルトの動きがだんだんと鈍ってきた。もう肉体と精神の限界が近くなってきているのだ。

 ミルトの当初の目論見は外れてしまっていた。

 ミルトは風の精霊の力を得て逃げている内に、これは助かるのではないかという淡い希望を見いだし始めていた。

 それはあの獣が最初からずっと遊んでいるように見えたからである。

 あの獣の動きが食べるためではなく、格下の相手をもてあそんで楽しんでいるかのような動きだったのだ。だから逃げ回っていれば、その内に飽きて諦めてくれるのではと思っていたのだが、どうやらその時はもう訪れそうになかった。

 ミルトはあの獣がいつの間にか本気になっていると感じ始めていた。

 あの獣の息づかいは、もうかなり荒くなっていて、苦しそうに長い舌を出しよだれを撒き散らしながらこちらを追って来ている。その動きのほうも少しずつ疲労が見え始めて、突進の際に踏ん張りきれずにたたらを踏むことが多くなってきていた。

 しかし、その獣はすぐに体勢を立て直して唸り声をあげてミルトとの距離を詰めてくる。

 ミルトはもう頭の片隅では分かってきているのだった。

 このままこの追いかけっこを続けたらどうなるかは。明らかにあの獣に分があった。

 体力的にはもちろんそうだし傷を負っているのはミルトだけで、しかも左腕の出血は手で押さえてもあまり止まる気配を見せない。

 もし、このままあの獣が諦めないのなら、待っている運命はもう確実な死である。

 ミルトは頭によぎる最悪の結末を振り払い、動きの鈍くなった頭と身体を懸命に働かせながら、次はどうやったら生き残れるかを模索し始めていた。

 実はミルトの頭にはもう、その生き残る手段が一つだけあるにはあった。

 しかし、それは実際問題は不可能に近く、思いついた時から早々に捨て去ってしまっていたものであった。

 だが、ここまで絶体絶命な状況に追い込まれ、他に何も手段がないのならば、それを何としてもやるしかなかった。

 それは勿論こちらからの攻撃だ。

 何かしらの攻撃をして相手を倒すまでいかなくても、出来れば負傷をさせて追跡出来なくすれば良いのだ。捨て身になれば一撃を加えることくらいは出来るかもしれない。相手はなめてかかっていて反撃の事など考えていないかの様に突っ込んでくるからだ。

 しかしその一撃が問題だった。

 ミルトは武器のたぐいはまるで持っていない丸腰の状態だったからだ。

 剣や槍、小刀等もしくは刃物の一つでもあればまだ何とかなったかもしれないが、ミルトが持っているのは自分の生身の拳ぐらいの物だった。

 ただ殴りつけただけではあの獣には痛くも痒くもないだろう。唯一弱そうな目を狙えば少しは効果があるかもしれないが、そんな器用なまねはとても出来そうになかった。

 そして、その獣の目という唯一の急所を外せばその瞬間に食い殺されるに違いない。あの動きの俊敏な獣の前では、それはもう目に見えるようだった。

 ミルトはどこかに武器になりそうな物がないかと逃げ惑いながら懸命に探していた。

 また獣の爪を間一髪、大跳躍をして避けて、また大きく間合いを取った時に自分の足がふと目に止まった。

 風を取り巻いている力強い足が。

 その時ミルトの頭の中で光明が走った。

 この足で蹴りつけたらどうだろう?風の精霊の力を借りた一撃なら効くんじゃないか。

 ミルトはしばらく宙を跳んでから四つん這いで着地をした。

 そして試しに足を振ってみて、蹴りの感触を確かめてみたが、どうも攻撃が軽い気がしてあまり有効とは思えなかった。

 この案は駄目かと諦めかけたその時、頭の片隅にあった精霊という言葉が輝きを放ちもう一つの可能性を照らし出した。

 ミルトはそれを天啓のように感じた。

 そうだ……!僕にはもう一つ力がある。そう、火の力だ!火の印象は力強く、熱く、猛々しい。まさに攻撃にはうってつけじゃないか。

 ミルトは火の存在を教えてもらった事やその場で火を起こした事を思い出した。

 そしていま両足に風の精霊を宿しているように、火の精霊をこの拳に宿す事が出来ればと考えついた。

 ミルトは胸の奥底から湧き上がる興奮にぶるりと身を震わせた。

 出来る……出来るぞ!ここら一帯にも火の精霊は無数に存在しているはず。これであいつに手痛い一撃を食らわせてやれる……!

 生き残れるかもしれないという希望が激しい闘志へと変わっていく。

 ミルトは向こうから駆けてくる獣を厳しい目で睨みつけた。

 そして大きく息をつくと、決死の覚悟で瞳を閉じて意識集中状態を作り上げた。

 全身に存在する火の力を右の拳の一点に集中させて、凝縮させていく様を想像する。

 すると、少し体温が下がった様に感じられ、次第に右の拳だけが異様に熱くなってきた。

 この身体中から少しづつ集めた力を糧に、火の精霊に頼んで爆発的に強くするつもりだった。

 ミルトは強く願った。

 ―世界に満ちる火の精霊よ!僕に力を!僕の右手に宿って奴を倒すだけの力を貸してくれ!―

 火の精霊達はすぐにミルトの願いに応え、ミルトの右腕に一斉に入り込んできた。

 その刹那、ミルトの右腕は激しく燃え上がった。

 真っ赤な炎が轟音をたてミルトの右腕に取り巻いて渦を巻く。

 ミルトは喉が裂けてしまうほど絶叫する事になった。

 ミルトはあの風の精霊の時と同様の痛みを覚悟していたが、想像以上の激痛で気を失ってしまう一歩手前までいっていた。

 しかし歯を食いしばってそれに必死に耐えた。

 そして赤く霞む視界で前を見ると、ちょうどあの獣が飛びかかってきたところであった。

 ミルトは獣目がけて、最後の力を振り絞って殴りかかった。

 ミルトの拳が獣に当たる瞬間に、その拳が大爆発を巻き起こした。

 ミルトの出した腕の方向に、激しい炎が耳をつんざくような大音響をおこして、一気に放射状に広がっていく。

 その爆発の炎は獣を吹き飛ばすと、辺りを瞬時に焼き尽くし、そのまま一瞬で消え去った。

 ミルトの正面には放射状に真っ黒に焦げた大地が広がっていた。

 辺りにはまだちりちりと煤がくすぶっていて焦げた臭いが立ちこめている。

 そしてその焦げた大地の真ん中に、あの獣が横たわっているのが見えた。

 ミルトはそれを見た途端に緊張が解けて膝から大地に崩れ落ちた。

 そして、その時目に入った自分の右腕をみて愕然とした。

 ミルトの右腕はもう人の腕とは思えないような無残なものに成り代わっていた。

 言うなれば人の腕の形を模した木炭のようだ。表面が真っ黒で表面がひび割れていて生気は全くない。

 ミルトは恐る恐るその右腕に触れてみた。

 固くかさかさで本当に炭を触っているようだった。しかも触れられているという感触は全くなく、自分の腕がここにあるという実感さえもなくなっていた。

 ミルトはうつむいて、ぼうっと自分のこの腕はどうしちゃったのだろうと思っていると、視界の隅で何か動いたのが見えた。

 はっとそこに目を向けると倒れていた獣が、起き上がってきたところであった。

 ミルトはそのまま立ち去ってくれと心から願ったが、その獣はおぼつかない足取りでミルトのほうにゆっくりと近づいてきた。

 ミルトはまずいと思ったが、もう立ち上がる気力すら残っていなかった。

 いまミルトに出来る事は獣が近づいて来るのをただ見つめる事だけだった。

 僕は負けたんだ。もう死ぬしかないんだな……。

 ミルトは絶望的な気持ちで最後の時を考えた。

 あいつはどうやって僕を殺すんだろう……。

 僕の息の根を確実に止めるために、まず喉笛に噛みつくのだろうか……。

 そしてそのまま僕を食べ始めるのかな……。

 僕の腹を引き裂いて、血が滴った内蔵を食いちぎり……。

 ミルトの瞳から大粒の涙がこぼれた。

 ああ、死にたくないよ。食べられたくないよ。

 ミルトの脳裏に色々な人の顔が思い出された。

 お母さんごめんなさい。

 きっとすごく悲しむよね。本当にごめんなさい。

 ポム爺さんごめんなさい。

 ポム爺さんも悲しむと思うけどたぶんすんごく怒るだろうな。僕が馬鹿だった。ごめんなさい。

 トーマ、キルチェごめんな。

 もっと色んな事して遊びたかったよ。みんなと一緒に冒険してみたかった。まだまだやりたいことあったけど、ごめん。

 そしてミラー……ごめんね。

 きちんと謝りたかったけど無理みたいだ。最後の言葉があれじゃあんまりだよね。君ともっともっとお喋りしたかった。

 二人で会っていたかった。

 でももう会えないや……さよならだね。

 ミルトは歩み寄る死の使いから目が離すことが出来なかった。

 もうすぐあの牙があの爪が命を容赦なく引き裂くのだろう。

 それはもう、すぐそばまで来ている。

 獣がミルトの目の前まで来て、その鋭く尖った牙を剥く。

 そしてミルトの目の前は真っ暗になったのであった。

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