第三章 十話
息を切らした二人がミルトの家に辿り着いた頃には裏通りも少し明るくなってきていた。
しかし通りはまだ人の気配もなくしんとしていて、各家庭も起き出すにはまだ早いようだ。
トーマがいつもより強めにそして急かすように玄関の戸を叩いて言う。
「ごめんくださ~い。マレス母さ~ん、もう起きてますか~?」
朝の静寂をおびやかすトーマの無神経な大声が辺りに響き渡る。
キルチェは少しびくびくしながら中の様子をうかがっていた。しばらくすると戸が開いて寝間着姿のマレスが顔を出した。特に驚いた様子も見せてないがまだ眠そうな顔をしている。
「あら?早いわね。二人とも……」のんびりした優しい声で言い、最後にあくびをしていた。
二人もそんなマレスの仕草を見て何だか暖かい気持ちになったが、すぐに振り払って朝早くに来た用件を言った。
「ミルトは大丈夫ですか?」トーマがまず始めに訊ねた。
マレスは起き抜けであまり頭が回らないかのようにぽかんとした表情だ。
「……ミルトはいますよね……?」キルチェが心配そうに言う。
「いると思うけど……。こんなに朝早いし」
マレスは二人を家に引き入れてミルトの部屋へと向かった。
二人ともマレスの放つこの優しげな雰囲気のせいで、実は昨日の事は何て事はなく、ミルトはまだちゃんと布団で寝ているのではないかと楽観的に思えてきていた。
マレスはミルトの部屋に入り、こんもり膨らんでいる布団を見て言った。
「ほら、まだ寝てるわ。……そう言えば昨日なにかあったの?ミルトったら何も言わずに、夕ご飯すら食べずに布団に潜り込んじゃったのよ」
「うん、ちょっとね……」キルチェは簡単に事情を説明した。
話を聞き終えたマレスは困った子ねという顔でミルトのほうを見ていた。
ミルトの足元で話をしているのにミルトの布団はぴくりともしない。
実はすでに起きていて、こちらの会話を身じろぎもせずに聞いているのだろう思ったトーマが、声をかけた。「おい、ミルト。起きてんだろ?ま~だすねてんのか」
しかしミルトから返事は何も返ってこない。
トーマはだめだこりゃとおどけて皆に向かって首を振った。マレスはくすりと笑ったがキルチェはじっと布団の膨らみを凝視していた。
……おかしい。いくら寝ているにしても静かすぎる。まるで息すらしてない感じじゃないか……。
違和感を感じたキルチェはミルトの枕元に近寄りそっと掛け布団をめくってみた。
何とそこにはミルトの姿はなく、ただ丸めた布団があるだけだった。
キルチェの脳裏に昔に考えたあの計画の手順が浮かんでくる。
そう、あれは発見を遅らすためにこんな感じの小細工をしようとか、子どもながらに色々と考えていたのだ。
キルチェは頭がくらくらしてきた。
これをしていると言う事は、ミルトはあの計画を忠実に実行しているのに違いない。
何も知らないトーマが気軽そうな口調で訊いてくる。
「どうした?やっぱりもう起きてたか?」
キルチェはその答えとして、無言で大きく掛け布団をはぎ取って見せた。
丸めた布団が布団の中央に寝転がっているのが露わになる。
「げえっ……!」トーマは蛙のような声を出した。マレスは目を丸くしている。
トーマはうわずった声で言った。
「おいおいおい……いないじゃないかよ!……んん?これはあれか。身代わりの技か……!」
「感心している場合じゃないですよ。これは始めに考えていた通り、かなり困った事になりました」
キルチェは重々しく言った。
重苦しい沈黙がミルトの部屋に立ちこめた。
状況を理解出来てないマレスが二人に訊ねた。
「これはどういう事なのかしら?何でミルトはこんな事して、夜が明ける前に出かけて行ったの?」
二人は言いづらそうに黙っていたがトーマに肘でつつかれたキルチェが説明を始めた。
「マレス母さん、これはたぶんなのですが……いや、違いますね。……ミルトはですね、かなり高い確率で外に向かったのだと思われます」
「外って……、いつも行く北の森とか?」
キルチェは首を横に振った。「いえ、今言っている外というのは外界の事です。そうあの高い塀の向こう側……」
皆窓から見える灰色の塀を眺め見た。
マレスは信じられないといった顔をしている。
「でも、どうやって?壁を乗り越える事はまず出来ないし、外に通じる門は朝早くでも夜遅くでも門番さんがずっと見張っているでしょう」
二人はその通りと頷いてから、今度はトーマが説明をし出した。
「マレス母さん、実は僕らが考え出した街の脱出計画があったんだよ。まだあまり外の世界の怖さを知らない頃のなんだけど」トーマの説明にキルチェが補足をしながら計画の全容を話した。
マレスは感心したような呆れたような顔で聞き入っていた。
「……よくまあ、そんな事を考えつくわね」マレスは額に手を当てて言った。二人は感心されたのか非難されたのか分からなかったので、曖昧な表情でたたずんでいた。
「でも、もし本当にそうだとしたらどうしたら良いのかしら……?」マレスは真剣な顔で呟いた。
キルチェは初めて見るようなマレスのその表情に慌てるように言い出した。
「まずは状況を確定する必要があります。第一にミルトが本当に外界に向けて出発したかどうかです。……マレス母さん、ミルトの道具袋はありますか?」
「え?ああ、いつも狩人ごっこの時に持って行くやつね。ちょっと待って」
マレスはミルトの部屋と居間とついでに台所を確認してきた。
「いつもの道具袋はどこにもないわね。あと台所に置いてある携帯食が何個か減っているわ」
「そうですか。これでミルトが外界に出るべく準備をして家を出たのは間違いないですね。あとはそれが成功したのか失敗したのかですけど……」
思惑顔のキルチェが話を続けた。
「……脱出に失敗していたとしても、すぐには帰ってこない気がしますね。どこかに隠れて、気持ちが落ち着くまで時間をつぶすと言う事も考えられますから」
「じゃあどうするんだよ!どっちみち分からないじゃないか」とトーマ。
キルチェは俯いて黙っていたが、ぐっと顔を上げ眼鏡を直しながら言った。
「まずは大手門の馬車溜まりの確認です。その次に門番さん達への探り。そして最後は……やはりミラー……ですね。」
「ミラー?なんでミラーなんだ?」トーマが聞き返してきた。
「もし、ミルトが門番に見つかるような露骨な失敗をしていないのなら、僕らにはミルトが街の中にいるのか外にいるのかまるで分かりません。でもミラーなら……」
「そうか!ミラーの精霊術か。探す相手がミルトなら大丈夫か」
「そう言う事です。さあ行きましょう」
二人はマレスに自分らで何とかしてみますから、もしミルトがふらっと帰って来た時のためにこのまま家で待機していて欲しいと言い聞かせて家を飛び出した。
しかしキルチェだけ道の途中で引き返してきて、まだ心配顔で見送っていたマレスに何か質問をしてまた戻ってきた。
「何を訊いてきたんだ?」とトーマ。
「ミラーの家の場所ですよ」とキルチェ。
「ああ、そう言えば知らないな。どこなんだ?」
「琥珀の道を越えた白銀の道の突き当たりだそうです」キルチェは意味ありげな口調で言った。
「うげっ!もろに奴らの縄張りじゃんか……」トーマはうんざりだといった感じであった。
奴らというのはカデ・リポ達の上流階級の子ども達の事で、ミルト達とは目が合う度にいさかいになる対立勢力である。
「ちぇっ、あいつらのとこのど真ん中には行きたくないな~」トーマは嘆いた。
「しょうがないですよ。とにかく見つからないように行きましょう」キルチェはなだめるように言い、二人は重くなりがちな足取りを何とか励まして、まずは大手門へと急いだ。
その頃、外界を冒険中のミルトは未知の世界を満喫していた。
ただ歩くだけで頻繁に訪れる遊びでは絶対に味わえない緊迫した本物の緊張感、街なかでは決して見る事の出来ない大自然の風景、初めて目にする様々な希少な動植物など、全てが新鮮でいつになっても興奮が収まらなかった。
そして慎重に歩を進めていき、かなり順調に目指す場所に段々と近づいても来ていた。それはもちろん、ポムがいるという東側の森の斜面だ。
しかしミルトは興奮はしているが、決して浮かれ気分で歩いている訳ではなかった。当初少しだけ持っていた外界に対する楽観視していた部分はとうの昔に捨て去っていた。
それは一つは至る所から感じる不穏な気配のせいである。
それは街の森の中で感じる嫌な感じとは桁違いの怖ろしい気配であり、それの正体が野獣なのか何なのかまでは分からないが、少しでもやばいと感じた時は急いで逆の方向に逃げ出していた。時たま目指す方向と全く正反対になることもあったがそれはもう徹底しておこなっていた。
そしてもう一つは、圧倒的な大自然の脅威である。外界の自然は街の中とはまるで違い、荒々しさが際立っているように感じられるのだ。
特に移動する際に注意が必要になるのが、草むらの中に隠されている大小の大地の亀裂や、刃物のような鋭い葉を持つ植物、いつの間にか踏み込んでしまうと脱出不可能な底無し沼などだ。
大地の亀裂は至る所にあり、その多くが草で隠されているのでとても見つけにくい。
ミルトも初めてそれに気が付いた時にはすでに足を踏み外して落ちかけていた。残った足で跳び越して何とか事なきを得ていたが、一歩間違えてそこに落ちれば怪我だけではすまなかっただろう。ミルトがおそるおそるその穴の中を覗き込むと底のほうに動物の骨らしき物が散らばっているのが見えた。
そして外界の植物のほうもかなり特異なものが多い。なんというか攻撃性、防御性に富んでいるというのか、異常な猛々しさまで感じるのだ。普通の木かと思えば幹に無数の棘があるものや、よくある草かと思えばやけに固く鋭い刃のような葉を持つ植物だったりする。それらの攻撃的な植物の特徴的なところは細い根が地表に露出しているという点だ。たぶん傷をつけた際に出る血液をその根で吸収するのであろう。実際血が滴っている葉があったし、棘だらけの木の幹に張り付いている動物の死体があったりもした。
そして一番厄介なのが見た目で全く分からない沼地だ。それは普通に見える地面にきちんと植物すら生えているからたちが悪い。
ミルトは運良くその罠に嵌まる前にその存在を知る事が出来たのだった。
それは子鹿のような動物が走って逃げている時に、その怖ろしい光景を目撃したからであった。
気配を殺したミルトと鉢合わせしたその動物は、ミルトに背を向けて飛び跳ねるように逃げ出したが、下生えの草がまばらなある空き地で次第に足取りが遅くなってきているように見えた。
その動物は慌ててその場所から逃げようと飛び跳ねるようにしていたが、次第に地面の泥に足を取られて歩けなくなり、いつしかその場でもだえるだけになった。
その動物は断末魔の悲鳴をあげ泥まみれになって、必死でもがいていたがその地面は容赦なく呑み込んでいくのであった。
その地面は暴れる動物を短時間の間に完全に呑み込み、地面の中に消し去ってしまっていた。
ミルトはぼう然とその一部始終を見ていたが、怖ろしい光景はまだ終わってなかった。
それはミルトの見ているその目の前で、あの動物がつけた足跡が次々と消え始めて、動物が呑まれる際に暴れ回ってぐちゃぐちゃになった地面が、何事もなかったかのように次第に平らになっていくのである。
ミルトはそれを見ていて背筋の凍るような思いだったが、自分がいま立っている場所も少し柔らかい事に気づき急いで後ずさりをした。それから大きくその場を迂回して進んだ。
ミルトはそれ以来、見た目だけでなくきちんと足元の固さを確認しながら、以前にも増して慎重に進むようになったのであった。
しかし、こういった様々な危険の見返りは充分にあった様に思えた。
街の中では手に入らない物が色々みつかったからだ。手当たり次第に拾っていたら、ミルトの革製の肩掛け鞄はすぐに一杯になってしまっていた。光を七色に反射する綺麗な石や、半透明に透けている可憐な花弁を持つ植物、本当にまん丸な不思議な木の実などが一番のお宝だが、外の世界はミルトから見たらどれをとっても宝の宝庫であった。
ミルトは昨日の仲間とのいさかいはもうすっかり忘れて、仲間へのそれぞれのお土産を一生懸命に見繕いながら進んでいたのだった。
「門のそばの馬車が一台いなくなってるな」馬車溜まりを見るやトーマが言った。
「そうですね。あの馬車の型式が一番やりやすいはずですから。それに先頭のほうにありましたから、ミルトが狙ったのならたぶんそれでしょうね」
キルチェは肩で息をしていたが、まず落ち着くように深呼吸をしてから言った。
「さて、門番に探りを入れてみますか」
二人は門に近づいて行くと丁度暇そうにしているゾクトを発見した。
一応、狂迎節の警戒体制が無事に整ったので、門のそばでも少し平和そうなのんびりした雰囲気が感じられる。
特に何も起こっていないのだろう、ゾクトの近づいて来る二人を見る目に特に変化はない。
「よお、お前たち。早いな」ゾクトはのんびりした口調で言う。
ゾクトは二人の後方を眺めたりしてミルトの姿を探しているようだった。やはりどうしても気になるのかそっと探るように訊いてきた。「……ミルトはどうしてる?」
トーマとキルチェは顔を見合わせた。
探りを入れるでもなく結果が分かったのだ。まずミルトは門番には姿を見られてはいない。あとはうまく外に出たのかそれとも諦めたのか……。
キルチェはまずは今朝の大手門の様子について訊ね始めた。
「あそこにあった馬車は出発したのですよね?明け方ですか?」
「うん?ああ、そうだ。護衛三人連れてな。……それがどうかしたか?」ゾルトは不思議そうな顔を見せる。
「え?ううん、何か……別にいつもと変わりなかったかなあって?」トーマがつい訊いてしまった。
「あん?……別になあ。ちゃんと荷台も見たが何にも」
そんな所を見てもしょうがない。何しろ裏側にへばりついているんだから……。キルチェは密かに思った。
「じゃあさ、早朝に不審な人影とか物音とか……」トーマが続けて質問したところでキルチェが割って入った。
「いえいえ、何でもないです!」
キルチェはふと思いついた様に訊ねた。「そう言えばポム爺さんは来ましたか?」
「おう来たな。今日も朝早くに、何か機材持って出ていったが」とゾクト。
「そうですか。それじゃあ」キルチェはトーマの背を押してその場から逃げ出した。
声の届かない場所まで行き、キルチェはトーマに文句を言った。
「駄目ですよ、トーマ。あんな事訊いたら逆に怪しまれますよ」
トーマは不満げに言い返した。「だってよう、情報を集めようって言ったのはキルチェだぜ?それにゾクトさんに事情を話して味方になってもらうってのはどうすんだ?」
「確かに言いましたが、たぶんあれ以上の情報は期待出来ないでしょう。それにゾルトさんに状況が確定していない段階で事情を説明するのはあまり得策ではないと思います。下手したら大事になって大騒ぎになってしまうかもしれませんしね。取りあえずあれで充分ですよ」
「ふ~ん、まあいいや。それで何が分かったんだ」トーマは両手を頭の上で組んで訊ねた。
思索顔のキルチェが答える。
「まず、あの馬車がなくなっていた事と、門番たちがミルトの姿を見ていない事ですね。もしあの馬車が出発していなければまだミルトが街の中にいる確率が充分にあります。あと門でミルトの姿が見られていない事はゾルトさんの言動で明らかでしょう。まあこれらの事を踏まえて考えるとミルトはうまいこと外に出たんでしょうね……。まだ確定ではありませんが」
「それで次はどうするんだ?」とトーマが急かすように言った。
「次は……、やはりミラーに協力を仰ぎましょう。ミラーにミルトの居場所を特定してもらうのですが、街の中なら別に良いとして、もし街の外なら……、ミルトが帰ってきた時に大事にならないように根回しをしておく事くらいしか出来ませんね。もしくはあまりに帰りが遅いようでしたら門の護人さん達に事情を説明して捜索隊を出してもらう事とか」キルチェは考えながら言う。
トーマも眉を寄せて考え込んだ。「……難しいな。どれ位なら遅いって事になるんだ?」
キルチェも確かにそうだと頷いた。
「そうですね……。朝早くに出て行ったのだったら昼の時点でもう半日も一人で外界にいるって事になりますしね。この事だけを考えたらかなり危険だと言わざるを得ないのですけど、僕たちはミルトの実力を知っているし、さっきポム爺さんが外界に出たという事実がある事を知りました。これらを踏まえた上で考えるとまだ大丈夫なような気も……」
「あ~もう!訳が分からなくなってきたぞ」トーマは大げさに頭を抱えてみせた。
キルチェも大きく溜め息をついた。
「そうですね。僕らではいい加減煮詰まってきましたね。違う視点での新しい意見が聞きたいです。早いところミラーの家へ向かいましょう」
二人は急ぎ足でミラーの家があるという白銀の道へと向かった。