第三章 二話
西側の中央街から西南の外壁方面に伸びるアルス通りは、主要区画を離れると、すぐに家の並びはまばらになり、緑の自然が多く見られるようになる道である。
その道の石畳の舗装は途中で途切れて土だけの道になり、その道は細くなりながら西南の外壁方面の林に向かって伸びている。
この道は林に隣接している箇所も多くて、全体的に暗い道で何となく薄気味悪い感じがするのであった。
ポムが目的にしていたその屋敷は、丁度アルス道りの石畳が途切れる位置に建っていた。
その屋敷の周りには隣接する民家がなく、背後に林を背負うようにして建てられていて、何かうっすらと陰気な気配を漂わせている。
高い石垣の塀と鉄製の門扉が、深緑の世界と居住空間を遮っているのだが、長い間放置をしているせいで、裏の林のほうから伸びてくる蔓などの植物達の侵食を、徐々に敷地内に許してしまっている。
家の造りとしては立派なもので、乳白色を基調とした丸い柱を多く用いる宮殿形式で造られ、かなり細部にまで手が込んでいる。
しかし、この屋敷はこの様な下流閑散域の、のどかな景色にはあまり似つかわしくない豪勢すぎる造りで、何となく違和感を感じさせる。
おそらく上流階級の何者かが別宅として建てたのだろうが、何かこの場所に建てた理由があるのだろうか。この場所の利点というと緑が多く静かでひと目につきにくいという事くらいなのだが。
ポムはこの屋敷に近づくにつれて、うっすらとした霊気を感じ取っていた。それとともに若干の冷気も感じていた。
今立っている場所は暖かいのだが、屋敷のほうから湿気の帯びた冷えた空気が足元に忍び寄ってきて、なんだが少し居心地が悪い。
街の人々がここにあまり近づかないのも分かる気がするとポムは思った。
しかし、この場所の何か奇妙な感じは、ただ単に屋敷裏の林の中に、高台に位置する水場があって、そのせいで冷された風が地表を這って下りて来ているだけだろうと、ポムは推察していた。
しかし鉄製の門扉の前に立つと、近寄り難い雰囲気というより、近づくなという何者かの強い意志が感じられるようになった。
ポムはそれを無視して門の鉄柵の隙間から中をのぞき見た。
玄関前の石の階段は苔だらけで奥の庭も草木が生い茂り荒れ放題になっており、裏の林から伸びてきた大小の蔓が屋敷の壁に張り付いてきていて屋敷を奥のほうから緑の中に呑み込もうとしているようにも見える。
ポムは門に鍵がかかってないのを確認すると、門扉に手をかけて開けようとした。しかし、その扉には何かしらの不思議な圧力がかかっているようでほとんど扉が動かない。
少し開いてもまたすぐ閉じるのでらちがあかない。
ポムはそう言えばと思い出した。
ノワールの話では管理人はこの門の中に入って屋敷の扉や窓を開けようと試したとの事だったが……。
ポムは力で押し入るのはあっさり諦めて少し離れて門の周囲を探ると、丁度門扉の中心に足跡がついているのをみつけた。
おそらく管理人はこの門を蹴り込んで開けて、そして中に入ったのだろうと容易に推測できた。
ポムはそんな事はしてられんと肩をすくめると、杖を持ち直して地面に模様を描き始めた。
精神を集中し円の中に六芒星や幾何学模様を描き連ね、その内部に神秘文字を書き足していく。
すると次第に力を持ち始めたその図形は淡い光を放ち始めた。
ポムは魔方陣を書き終えると、輝く図形の前で短く呪文をつぶやいた後に、屋敷に手をかざし〈解鍵開門〉の魔法を唱えた。
すると、目の前の鉄製の扉はかたかたと震え、力なく開いてきたのであった。
そしてそれと同時に門扉の奥にある、屋敷の頑丈そうな玄関の扉も耳障りな音をたてて開いていた。
ポムはこの魔法によってこの屋敷全体の扉や鍵の全てを一瞬で無用の物にしたのだった。言わばこのただ一度の魔法でこの先いくらでもありそうな障害を全て取り除いたのである。
ポムは門扉を開き前庭に入った。
石畳の隙間から生えている伸び放題の雑草を避けて歩き、苔むして滑りやすい階段を慎重に登った。
階段を登り切ると、薄く開いた扉の隙間から家の内部が見えてきた。中は昼だというのに少し薄暗く、かびの臭いがうっすらと漂ってくる。
ポムは油の切れた様な、嫌な音を奏でる玄関扉を開き、屋敷の中へ入っていった。
屋敷の中は不気味な静寂に包まれ、招かれざる訪問者に恨みのこもった思念を投げかけているように感じられた。
玄関大広間は、床に深紅の絨毯が敷き詰められて、天井には豪華な吊り照明があるだけの殺風景な内装で、奥には二階に繋がる白い手摺りのついた湾曲した階段が見えた。
ポムは薄暗い室内に目を慣らすのと、向こうからの何らかの接触を期待して、しばらくその場でじっと佇んでいた。
しかし一向に何の変化も起きないので、次第に慣れてきた目で室内を見回すと、部屋の片隅にこちらを見ている青白い顔が浮かんでいることに気がついた。それは女性の顔で神経質そうな感じだが長い金髪のなかなかの美人だ。彼女は胸元を強調した紅い宮廷着を着ている。
ポムは恐れも無く近寄るとその女性の正面に立った。
その女性も静かにポムを見返してきた。
ポムは細部にまで目を凝らしその女性の絵画をほれぼれと眺めていた。この屋敷の関係者なのだろうか。等身大に描かれたこの若い女性はなかなか秀逸で、かなり高名な画家による作品であろうと推測できる。
ポムは絵から目をそらし周りに注意を戻したが、未だ何も起きないので肩すかしをくらったような感じがした。ここに来るまでは、屋敷に入るなり恐ろしい姿を見せたり奇音を出して驚かしてきたり、もしくは物に干渉出来る程の力があるのならば直接こちらを攻撃してきたりする事もあると思っていたのだ。それならばいくらでも対処の仕様もあるのだが、ずっとこんな感じではもうどうしようもない。
まさかこの歳で家捜しするはめになろうとは……。
ポムはぶつぶつ文句を言いながら歩き出し、適当に目の付いた扉を開けていった。
飾り気のない居間、家具のない洋室、がらんどうの厨房と何事も起きない殺風景な部屋を巡る内に、次第にポムはうんざりとしてきた。
ポムは重い足取りで、確認した部屋を術で封印していきながら屋敷の奥へと進んでいく。
三階の一番奥の最後の部屋を残す頃には、すでに日は陰りポムの息も軽く切れていた。これが相手の狙いかとポムは忌々しい思いで最後の部屋の扉を手荒く開いた。
そこは寝室であった。他の殺風景な部屋とは違い、部屋の真ん中に天蓋付きの寝具が置いてあった。真っ白な絹で意匠を凝らした天蓋で、敷布も艶やかな光沢を放っている。
何者かが潜むのならこの部屋だろうと見回したが何も変わった点は見当たらない。寝具の中を覗いてみても誰かが寝ている訳でもなかった。
もぬけの空の屋敷を歩き回ったのか、もしくはまんまと逃げられたのかとポムは思いむかむかしてきた。こんな無駄な時間を過ごすのなら、この屋敷丸ごと一気に外から浄化してしまえば良かったと悔やんでも後の祭りだ。
さてこれからどうしようと悩み始めた時、ふと部屋の片隅にある物入れの陰に何か半透明な影が見えたような気がした。
ポムは改めて目を向けたが、特に何も見当たらない。気のせいかとポムは首を傾げて目を逸らしたが、目の端にちらりと何かがまた見えた気がする。
ポムはすぐに合点がいった。これは気配を分散させて隠れる狩人の隠密術の一種だ。
自分をここまで欺けるのだから大した腕前だとポムは少し感心しながらも、よくもここまで手間を取らせたなと苛立った口調でその場所に声をかけた。
「おい!」
「ひいっ!ごめんなさい!」
物陰で背を向けてうずくまっていたその霊は霊体を振るわせて飛び上がった。
その霊は観念した様子で振り向きうなだれていた。見た目は中肉中背の青年の姿で年齢は二十代半ば位だろうか、服装はまあまあ立派な狩人の軽装備の姿だった。髪は茶色いくせ毛で顔つきは整っているが何か愛嬌のある顔をしている。
ポムは値踏みをするかのようにその霊を眺めていたが、その男の霊は居心地悪そうに突っ立っているだけだった。
ポムが質問をするべく口を開こうとした途端に、その男の霊は勢い良く喋り始めた。
「お許しください、力のあるお方!私はこの家を乗っ取ろうとしている訳ではなく、たまたまここに立ち寄っただけで、すぐに出て行こうと思ってはいたのです。まあ確かにこの家の空気が気に入って少し長く居すぎましたが、もう今日こそはこの家を出ようと決心をしていたところであります。だからどうか貴方様もこのような私に貴重なお力を無駄遣いなさらずにおいてもよろしいかと存じます。それに私のほうもこのように旅支度はすでに万全で……」青年の霊体はぺちゃくちゃと喋っていた。
ポムはよく喋る霊だなと半ば呆れ半ば感心していた。
「……ですから、どうか浄化などと野蛮な考えはお止しになって下さい」
青年の霊は最後には古来から伝わる頭を地にこすりつけて謝るという伝説の謝罪方法〈土下座〉の姿勢にまでなっていた。ポムはここまで低姿勢でお喋りな霊体など見た事がなかった。
ポムは相手の話を半分以上聞き流して訊ねた。
「抵抗しようとは考えておらんのか?」
青年はひどく驚いたように目を見開いて答えた。
「滅相もありません!貴方様のお力は門の扉を破られた時から分かりきっておりました。仮にも私は狩人ですから相手の力量はすぐに測る事が出来ます。貴方様のお力の前では後は逃げ出すのみですが、私のような霊体は入ったところしか出られないという制約があり、私が入った玄関大広間は貴方様が一番に封印してしまったのでもうどうしようもなく……」
また幽霊の青年の独演会が始まってしまった。
ポムはうんざりして、話を完全に聞き流して考え始めた。
しかし、うるさい奴じゃのう……。こんなにも生前の理性や性格を保っている霊体も珍しいじゃろう。普通、現世にとどまる人の霊というものは未練や恨みを強く持つ為に、悪い面がもっと出るものなのじゃが。しかもこやつのようにある程度力を持った霊体はその力を誇示したがったり、別の霊体を引き寄せて取り入れたりして変貌しやすいのじゃがなあ……。
青年の霊は自分が話し終えてもじっと無言で見つめてくるポムを不安そうに見返していた。
「あの~……」と青年の幽霊が訊ねる。
「ん?ああ、話終えたか」ポムがそう言うとその青年は少し傷ついたような顔を見せた。
ポムはこの青年の霊に色々興味が出てきた。
「お主、名前は?」
「はい、私の名はナマス・トーキンと言います」
ポムは髭を触りながら頷いた。「ふむ、名前もきちんと憶えているか。狩人の姿をとっている所を見ても、その時の経験も憶えているようじゃの。まあ儂の目をいっときだが騙したくらいの腕前でもあるしの」
ナマスは謙遜して首を大きく横に振った。
「いえいえ!そんな事は…。私などはまだまだ修行中の身で……。……ですが、隠密術は生前に私の大得意としていたとこでして、この体になってからも研鑽をかけて、それに霊体の特性も活かして術に組み込み、もうこの術は極めたと思っていたのですが……」
ナマスはポムを尊敬の眼差しで見つめた。
「……あの、失礼ですが、貴方様のお名前は……?」
「ああ、そうじゃの、名乗っとらんかったのう。儂の名はポムイット=ヴォルハリスと言う」
ナマスはその言葉を聞くなり霊体を振るわせて後ろに飛び退くと、顔を赤くして改めてその場にひれ伏した。霊体なのにわざわざ顔色を変化させるなど器用な奴である。
「こ、これは大賢樹様……!ご高名はかねがね……。お目にかかれて光栄でございます」声まで振るわせる感激ぶりだった。
ポムは何か居心地が悪くなり、手を振ってその場を取り繕った。
「ああ、よいよい。そんなにせんでも」
ナマスは顔だけ上げて話始めた。
「いえ、家に入ってきた時点で気づくべきでした。あのお力、その圧倒的な存在感!そもそも貴方様と言えば……」また演説が始まりそうだ。
ポムはナマスのほうにすっと手の平を向け、止まれと身振りで示した。
するとナマスの口がぴたりとそのままの形で止まった。
それがあまりにも見事な動きだったので、この手を振り下ろすとまた話し出すのでないかと、ふとやってみたい衝動にかられた。そうまるで演奏会の指揮者のような感じにである。
しかしポムはその衝動を呑み込んでこう言っただけだった。
「すまんが、どこか座って話さんか。儂もこうして突っ立っているのも疲れたし、お主のその格好を見ているのも何か嫌でな」
ナマスは慌てて立ち上がり、家具をすり抜けて急いで窓際にある小さい食卓に行き椅子を引いてどうぞと手で示した。この男は高級料理店の給仕役の経験があるのかもしれない。
ポムは頷いてその椅子に腰を掛けると、ナマスに向かいの食卓越しの椅子に座るようにと促した。ナマスは素直にポムの言う事に従った。
目線も同じになりようやく落ち着いて話せると思ったが、思いのほか部屋の中が暗くなって来ている。
隣の窓から見える地平線は、もう日が落ちかかり綺麗な夕焼け空を見せ、その地平線の上の空には気の早い星がまたたき始めているのも見えた。