情熱の国のグランプリ
浩はオランダのロルトレーシングから、優はイタリアのITALコルセから、世界ロードレース選手権への挑戦が始まった。
第1戦は慣れ親しんだ鈴鹿サーキット。ここでは、まず125で優が昨年に続きトップでチェッカーを受けた。スポット参戦の上野と坂本たちも続いて、日本人の表彰台独占という偉業を達成した。
250では、昨年同様、イタリアのマッシモ・ビアンキと浩の一騎打ちとなった。
浩は、トップスピードで上回るビアンキのジュリエッタに最後まで食らいつき、最終ラップのシケインでビアンキのミスを誘う。鈴鹿での浩の常勝パターンで優勝した。浩と同じチームのヴァージニオは9位だった。
二人とも、幸先のいいスタートで世界への第一歩を踏み出した。表彰台の下にいる日本のレース関係者に、これ見よがしにシャンパンを振りかけてやった。
そして舞台はヨーロッパへと移る。GPは此処からが本番である。
多くのライダーやレース関係者は、鈴鹿はGPでも屈指のテクニカルコースではあるが、それ故にコースを知り尽くしている日本人ライダーに地の利がある、アウェーのヨーロッパでは鈴鹿のようにいかないだろうと予想していた。
浩たちにもその認識はあるものの、評価に甘んじるつもりはない。自信を持っていたからこそ、ワークスのシートを蹴ってやってきたのだ。
第2戦のスペインGPの開催されるヘレスサーキットに入って、まず観客の熱狂ぶりに圧倒された。話しには聞いていたが、想像以上だ。
爆竹を投げ込む観客と催涙ガス銃を担ぎ、シェパート犬を連れた兵士たちに、さすがの愛美も圧倒される。
「まるで戦場ね。ここで勝ったりしたら、私たち生きて帰れないんじゃない?」
「あいつらに俺の走りを見せつけてやるだけだ。ヤバくなったら、あの兵隊さんが守ってくれるさ、たぶん」
浩は、押し寄せる熱気に負けじと強気の態度で観客席を睨みつけた。
「とか言って、震えてるじゃない」
愛美に言われて、初めて自分が震えていることに気づいた。だがその震えが、どこからくるものかは理解している。
恐怖からではない。遂に世界の舞台に立った興奮に震えていた。
走り出してみれば、スペインのファンはホンダやヤマハの国からやって来た東洋人にも、熱い声援を惜しまない。もちろん地元の選手を熱狂的に応援しているが、熱い走りを見せてくれるならどこの国の選手だろうと熱烈に歓迎してくれるようだった。何よりレースを楽しもうとする、目の肥えた本当にレースの好きな観客たちだ。
特に小排気量のクラスは、日本では考えられないくらいスペインでは人気が高い。優に対する声援も、当人も驚くほどだ。
彼らがまず注目したのは、独特な優のライディングフォーム。2年前の怪我で、右足の膝から下がほとんど力が入らず、左足だけで体を支えマシンをコントロールする。リアブレーキは左手親指で操作できるように、ハンドブレーキを取り付けていた。
復帰直後はかなり苦労したが、徐々にそのライディングを洗練させていった。一見、弱々しく危なげに見えるが、完璧なバランスと無駄のないスムーズな体の動きが調和した独自のライディングスタイルを身につけていた。125の細いタイヤとマシンに一体となったそのライディングフォームは『まるでフラミンゴのような』と形容された。
「日本でも、こんなにサインした事がない」
最初のフリー走行を4位のタイムで終えた浩が、顔を弛ませて125の予選を観ようと1コーナー内側でカメラを構えていた愛美の隣に来た。しかし愛美は、いきなり浩の顔にタオルを投げつけた。
「ちゃんと顔洗ってきて!口紅ついてる」
機嫌悪そうに言い放った。
「えっ?」
浩は慌てて顔をタオルで擦った。その瞬間、久しぶりの空手チョップが浩の胸を直撃した。
「冗談よ。でも思い当たる事あるみたいね」
「ひっでえなぁ、子供たちにサインせがまれていただけだろ?」
浩は胸を押さえながら抗議する。
「ずいぶん胸の大きな子供だったこと」
愛美は自分の小排気量クラスの胸を精一杯突き出して言った。
「おっ!ユウが出るぞ」
浩は誤魔化すようにピットロードの出口を指差す。
(やべぇ、さっきマルボロのねえちゃんから頬っぺたにキスされてたとこ見られてたみたいだ)
カメラマンの注文で押しつけてきたマルボロガールの胸の感触を思い出す。
浩はGPの本場スペインの乾いた空気を、胸一杯吸い込んだ。
結局二日間の予選が終わった時、浩は13位にまで落ちていた。
初日には慣れないコースでも、まずまずのタイムが出たと喜んでいたが、メカニックとのコミュニケーション不足とミューの低い舗装に苦しみ、セッティングを詰めきれない。
GPの強者たちがタイムを詰めていく中、浩だけが取り残された形だ。最高速もジュリエッタ勢にまったく歯が立たない。
もう少し自由に走れる時間があれば何とかなるのだが、とにかく調子に乗った連中が少しでも隙間があれば、容赦なくインに入ってくる。リズムを狂わされ、焦れば焦るほど崩れていった。
同じチームのヴァージニオは3番手でフロントローを獲得していた。ヴァージニオとて完璧なセッティングが出来ていた訳ではない。浩と同じ仕様のヤマハTZで、トップスピードの差はない。
彼に限らずヨーロッパのライダーはサスペンションが決まっていなかろが構わず攻めていく。予選の限られた時間にタイムを出さなければ意味がないのだ。
不安の残るサスと滑りやすいアスファルトに戸惑いながら走る浩を後目に、レース本番さながら前後のタイヤを震わせて抜いていく。日本では強引とまで言われた浩だが、転倒に巻き込まれる恐怖に冷や冷やしながら、本場GPの洗礼を受けた。
一方、125クラスは、8位までが0.5秒差という混戦の中、優は3番手のタイムを記録して、現地のマスコミもこのクラスに置いては日本人ライダーを高く評価した。
「胸の大きな子供にキスされて喜んでいるから、こういうことになるんじゃない?」
愛美の嫌みにも言い返せない。浩自身舐めてた訳ではないが、浮かれてたのは事実だ。明日の決勝も苦戦は必至だ。
愛美は浩と共にGPを巡る事を決め、大学を辞めていた。
大学に未練はない。意味不明の芸術論や写真機材のウンチクを語り合う学生達にもついていけなかった。
「弟子になれば一流誌の編集長に紹介出来る」と欲望剥き出しで迫ってきた講師の股間に、得意の膝をくれてやった事もあった。
自分たちだけにしか理解できない芸術の評価に興味はない。
コネが評価を左右する閉鎖的な社会にも関わりたくない。
愛美にとって写真とはその時、その場でしか目にできない光景を記録するもの。観る人が、芸術とか学んだ事のない普通の人々が、単純に「綺麗」とか「凄い」とか言ってくれる写真が撮りたい。そのためのカメラであり、技術であるはずだ。何とも思わない写真に理屈をつけて評価する理論を、何年もかけて学ぶつもりはなかった。最も必要なのはその時、その場にカメラを持って居ること。
世界GPはカメラマンにとっても、最高の晴れ舞台だ。コースの見せ場ポイントには世界トップクラスのプロカメラマン達が大砲のようなレンズをずらりと並べる。そして最速のライダーが最高のパフォーマンスを見せる瞬間を写しとろうと、技術とセンスを競い合っている。大学なんかより遥かに学べるプロの現場だ。
両親は当然、猛反対したが愛美は決心を変えなかった。最後は必ず大学を卒業するから退学でなく、休学にするという事で妥協した。
浩が、最速の男になる瞬間を記録するために。
浩はモーターホームの中で、何度となく決勝レースをイメージしていた。
(スタートで前列のライダーの間を抜ける)
そこまではいい。
(密集した1コーナーをインべたのポジションにつけようとインに寄せるといきなり縁石すれすれを割り込まれる。アウトからも被せてくる。ブレーキレバーの指に力が入りマシンが揺れる)
何度やっても悪いイメージに嵌ってしまう。振り払おうすればするほどそのイメージが固まっていく気がする。
「くそっ!」
一人でイラついた。
ヴァージニオが好タイムを出しているのも気に入らない。
浩は、同じチームでありながら、彼とはあまり良い関係を築けていなかった。
ヴァージニオからは、浩を露骨に見下している印象を受ける。彼からすれば、浩はチームが景気のいい日本企業を引き寄せるためのお客様扱いに思っているのだろう。
初めは友好的に接しようとしていた浩も、そんな態度されれば、万年中堅の先の見えたライダーという本音が露になっていく。
愛美は、そのヴァージニオの妹エリカとパドック中を見てまわっていた。妹に罪はないとわかっていても、なんとなく面白くなかった。もっとも、愛美とエリカがいなければ、もっと険悪な雰囲気になっていたかも知れない。
決勝の朝、浩がジョギングから戻ると愛美とエリカが朝食を作っていた。
「何してんだ?」
「見ての通り。朝食の用意よ」
浩がカタコトのスペイン語でエリカに尋ねると、当たり前に愛美が答えた。
「昨日、『ミソスープの作り方、教える』って約束したの」
愛美は上機嫌で浩に言う。
「味噌汁だったら、優の方が上手いだろ?ガキの頃から自分で家事してたんだから」
浩の態度に愛美が頬を膨らませながらも、にこやかに浩に顔を近づけ日本語で囁いた。
「その優くんに食べさせるために勉強してるの。しおらしくて可愛い娘じゃない?」
「……あっ、そういう事か」
どうやらエリカは優に気があるらしい。それとも愛美が勝手にくっつけようとしているのか。どっちにしても、あのシスコン兄貴に優が対抗できるか疑問だ。それよりも疑問は、料理を教える先生だろう。
「まずは教わる相手を選ぶべきだな。先生の方が、そのしおらしさってのを見習うべきだ」
その瞬間、愛美の手刀が浩の浩の肩目掛けて放たれた。
浩はすかさず左腕でそれを受け止める。
「いい反応速度だわ。今日のレースは行けそうね」
愛美は一瞬悔しそうな顔をしたが、強がって見せた。
浩にもそれが負け惜しみだとわかるのだが、確かに体が軽く動く感じがする。何より愛美とのスパーリングは楽しい。彼女にはネチネチと嫌みを言うより、直接暴力で攻撃された方が心地よい。それはそれで危険な世界に踏み込みそうでヤバいのだが……。
愛美は日本を発つ前に密かに味噌汁を含めた料理の練習をしていた。少しでも浩を支えたいと思ってのことだ。
それを“健気”とか“しおらしい”とか言われたら恥ずかしいがまったく気づかれないのも腹が立つ。
「ミソスープできたよ!味見してみて」
エリカがマグカップに入れた味噌汁を浩に渡した。浩はまず匂いを嗅いで、それから恐る恐る口をつけた。スペインに来て以来、朝はいつもトーストとハムと玉子にサラダと牛乳ばかりだった。
「…………」
微妙な味だ。確かに味噌汁のようだが……。
どう?という表情でエリカがうかがっている。講師は更に不安そうだ。
「うん、味噌汁みたいだ」
「当たり前でしょ!味噌汁なんだから。エリカちゃん!コイツに味見させたのが間違い。味なんかわかんない奴なんだから」
料理の講師は、生徒の出来より自分の努力を認めて貰えなかったことに、また機嫌を悪くしたようだ。
確かに浩は自分でも味音痴だと自覚している。食事は必要な栄養を取れればいいと思っている。
だけどそこまで言わなくてもいいんじゃないか?だいたい毒見役を非難する前に、講師の至らなさを恥じるべきだろうと思ったが、口には出さなかった。決勝前に怪我はしたくない。そこまで変態ではない。
「本当に味噌汁の味がするよ。お世辞でなく、間違いなく味噌汁だ」
かなり苦しいフォローだが、味音痴なりに味噌汁の味に懐かしさを感じたのは事実だ。懐かしいといっても日本を離れてまだ二週間なのだが。
「ヴァージニオの朝食は用意しなくていいのか?」
空気がヤバそうなので話題を変えた。
「彼は勝手に食べてる。それにレースの日はほとんど食べないの。転んだ時、吐くのが嫌みたい」
エリカはヴァージニオの意外な一面を語った。プレッシャーで食べられないライダーはいるが、吐くのが嫌だから食わないというのは初めて聞いた。
「過去に何かあったのか?」
自分ながらデリカシーのない質問だと思う。
「知らない」
予想通り、素っ気なく答えられた。明らかに知っているが触れられたくない、思い出したくないという雰囲気だ。今さら自分の不粋無神経さを恨んだ。
「さあ、朝ごはんを食べましょう。不味いなんて言ったら、ヘルメット被れないぐらいボコボコにしてあげるから。エリカちゃん、一緒に食べてくよね」
エリカは元の明るい笑顔を見せて、愛美の手伝いに戻った。
浩はこれから数時間後に始まる決勝レースを前に、和やかな食事を楽しんだ。
ヨーロッパに来てからずっと緊張していた浩にとって、レース当日にこんなにリラックスした食事ができるとは思ってなかった。それでいて気力は充実している。
なんだか今日は行けそうな気がしてくる。
愛美は、エリカの明るく振る舞っているが、どこか緊張した様子が気になっていた。
レースはライダーよりピットで待つ者の方が辛いものかも知れない。同じ歳だがGPパドック歴では先輩の様子に自分の気持ちを重ねた。
やっぱり馴れるなんてこと、ないのかなぁ……
愛美も外見からは想像出来ないほど、いつも浩を心配sていた。カメラを持ってなかったら目を閉じていたくなる時がある。
『写真を撮る』という目的がなければ、見ていられないかも知れない。
エリカさんはどうやって耐えているんだろう?