愛美
優は6人部屋の病室の左の一番窓際に寝ていた。今日は日曜日なので、他の入院患者の見舞いに来る人も多い。
優のところにも昨日の夕方、母親が着替えを持って来てくれた。今日はパートで来られないと詫びていた。死んだ父篤史とは離婚していたとはいえ、やはり実の母親だ。もう危ないレースを辞めるように悲願された。「弟と3人で暮らそう」とも言ってくれた。
しかし、優はまだレースを辞めることは出来ない。浩と世界をめざしたかったし、それが父親との約束だ。母もわかってくれると信じたい。
中学生の弟と暮らす母親の生活が、決して楽でないのは知っている。以前、篤史の保険金を渡そうとしたが、母はそれを受け取らず、「おまえの夢のために使いなさい」と言ってくれた。その時の母の目に、涙が浮かんでいたのを忘れる事はなかった。
必ず夢を実現させる。そしてその時こそ、3人一緒に暮らしたい……。
病室に優と同じくらいの年齢の女の子が入って来た。ショートヘアにTシャツにジーンズ、女の子に似つかわしくない少し汚れた丈夫そうなショルダーバッグを肩に下げ、花束を持っている。少し気になって、誰の見舞いかと目で追っていると、そのまま入口から一番離れた優のところまで来た。
「具合はどう?」
………???
誰だろう?どこかで見たことがある気もするが、病院に見舞いに来るほど親しい間柄に思い当たる人物はない。
優の戸惑いを余所に顔を近づけてくる。甘い香りがした。
その時、“カチャッ”とカメラのシャッター音がした。
「せっかく美女が見舞いに来てくれたのに、もう少しリアクション欲しいな」
声の方に顔を向けると、隣のベッドの影から浩がカメラを持って立ち上がった。
優が少女に気を取られてる隙に、こっそり病室に入って来て、隣の足場から落ちて脚を骨折した職人さんのベッドの向こう側に隠れていたらしい。
「友だちが迷惑かけてすみません」
優が職人に謝ると「いいよ、いいよ」と笑ってくれた。浩もペコペコと頭を下げてる。図々しいが、憎めない仕草で許されてしまうタイプだ。
「来てくれるのはうれしいけど、他の患者さんに迷惑かけないでよ」
「わりぃわりぃ、ちょっと驚かそうと思ったけど、滑っちゃったみたいだな」
相変わらずのいたずら小僧のような笑顔で頭をかく。
「で、えっとその子は?」
優は先に入って来たショートカットの少女について尋ねた。
「俺の彼女の河合愛美だ」
浩は彼女にカメラを手渡しながら答えた。カメラはもともと彼女のものらしい。
「レースの写真撮ってます。浩の彼女っていうか、被写体として撮ってるだけで、三宅さんの写真も沢山撮らせてもらってます」
明るくはっきりした性格が現れているような声で、少女は挨拶をした。
「女の子のくせにレース写真家めざしているんだ。まあ、俺の『追っかけ』みたいなもんだな」
その直後、浩のわき腹を彼女の肘がめり込んだ。
「うっ!ちょっと今の本気じゃないのか!?マジで痛てぇぞ、肋骨折れたかも」
「あんたの肋骨が折れるくらいなら、私の肘が砕けてるわよ、誰が彼女だって?誰が追っかけだって?誤解されるようなこと言わないでくれる」
明るいだけでなく、かなり活発そうだ。
「僕にこんな美人が見舞いに来る訳ないから、どうせそんな事かと思ったよ」
浩ならこれくらい元気な子が似合うと思った。
「おまえ結構モテそうなのになぁ。まあ走りでも顔でも俺に一歩及ばないって事か」
髪を伸ばして化粧でもすれば、堂々と女子更衣室に入って行けそうな優の顔をまじまじと眺めた。そしてさらに顔を近づけ、小声で囁く。
「こいつ、これでも最初は 顔赤くしながら、『写真撮らせて下さい』って可愛く寄ってきたんだぜ。まったく騙されたようなもんだ。痛ってぇ!」
今度は尻に膝蹴りが入った。
「ちゃんと紹介してよ」
彼女に言われて優に紹介した。
地元では有名なお嬢様学校の白百合女学院に通う浩達と同年の女子高生。学校では写真部で、女の子には珍しく報道、特にスポーツカメラマンを目指しているという。空手部にも所属していて一応黒帯。お嬢様学校ではかなり浮いているのだが、本人はまったく気にしていないらしい。
愛美は否定してるが浩は「つき合ってる」と信じている。当然まだプラトニックな関係だ。
「三宅さんじゃなくて、優でいいよ」
浩に対しては下の名前で呼び捨てにしてるのに、自分だけ三宅さんはちょっとさみしい。
「じゃあ私も愛美って呼んで」
互いに合意した。
「名前と違って、ご覧の通りかなり凶暴だが、結構モテるらしい。もっとも同じ学校の可愛い子猫ちゃんたちから、お姉さま~って、おわっ!」
今度はパンチが顔面に飛んできた。反射神経でかろうじて避けた。
「今のマジでヤバいだろ!グーだったぞ!殺気込めてたろ!当たってたらシャレなんねぇぞ!」
浩の抗議も「病室でうるさいわね。サーキットじゃ勇ましいくせに、女々しい事で騒がないの!」と一蹴された。
「病室で蹴りとかパンチとか、どっちがだょ……」
ぶつぶつ呟く浩を睨み付ける。一応彼女なりに手加減はしていたが、咄嗟にかわすのは流石レーサーだと内心舌を巻いていた。
「彼女の撮った写真だ。おまえも写ってる」
浩はサービス版の入ったミニアルバムを5冊、優に渡した。
優の転倒した鈴鹿のレースの時のものだ。カラーは1冊だけで、他は全部モノクローム。おそらく自分で現像しているのだろう。走ってる写真は、観客席からでは望遠が足りないのか、雑誌などの写真と比べて、それほど迫力はなかったが、パドックで撮られたモノクロ写真は、スタート前の緊張感や、慌ただしく作業するメカニックやライダーの雰囲気がよく捉えられていた。
スタート前に、浩と優が話している時のものがあった。
浩の表情は高慢さと自信に満ち溢れている。対する優は
不安げで弱々しく見えた。結果の明暗がこの時すでに出ていたのだろうか。自分の弱点を見せられた思いがした。
「この写真貰ってもいいかな?」
優が愛美に訊いた。
「全部あげる。そのつもりで焼いたんだから。でもやっぱりそれが一番いいと思うでしょ?浩と違って、やっぱり優くんは写真のセンスもあるのね」
愛美は浩に聞こえよがしに言う。
「やっぱりってなんだよ。別に悪いとは言ってないけど、俺はこっちの、この2位走っていた奴を転ばしてやった時のやつがいいと思うんだけどなぁ。俺の肘が奴のブレーキレバー触ってるだろ?まあ俺の神業を捉えた決定的瞬間だな」
浩はカラーの写真を指差す。
「そこまで見えないよ。それにワザとやったんじゃ、危険行為の証拠写真じゃないか」
優が笑って答えた。浩自身、寄せてくる相手から守るために肘を張り出しただけだ。偶然相手のブレーキレバーに当たり、レース後に抗議されたが偶発的事故と判定されている。
「その写真、コンテストの最終審査に残ってるの。最優秀賞に選ばれれば、賞金20万円よ。二人に何かご馳走しなきゃね」
愛美は優が気に入ってくれたモノクロ写真を指差し、嬉しそうに目を輝かせた。
「どうせなら、一人10万ずつってのがいい」
言ってすぐに浩は、愛美の攻撃からの防御の構えをする。
「それじゃ私の取り分が残らないんじゃない?」
愛美は攻撃を見合わせ聞き返す。浩は構えを解き、偉そうな態度で愛美を眺めた。
「キミには名誉とカメラマンとしての未来が得られる。カネの為に撮るような下世話なカメラマンになって欲しくないんだ、愛美には」
如何にもな屁理屈をこねた時、愛美のローキックが唸りをあげた。浩は予測していたように左脚を一歩下げ難なくかわす。
「まだまだ未熟者だな、愛美。おまえの動きはすでに読まれている」
流行りのアニメの口調を真似て勝ち誇ったように言った。
愛美は舌打ちしながらも、あのローキックをかわす浩の反射神経に改めて感心した。以前通っていた道場の大人の有段者でも、あれほど鮮やかにかわせる者はそういなかった。
しばらくミニアルバムの写真を眺めながらあれやこれやと言い合った。一通り全部見終わると、優は静かに口を開いた。
「先週も勝って、四連勝でA級でもチャンピオン確実だね。差がついちゃったな……」
自分だけが置いてかれたさみしさが、鈍感な浩にも感じられる言葉だった。
「優がいないんで退屈なもんさ」
浩は敢えて優の怪我の事に触れないようにする。今シーズンは絶望的と聞かされていた。右脚の障害は元に戻らないだろうとも優の母親から聞いた。
「まあライディングにはそれほど影響しないし、この機会に上半身鍛えておくよ。僕が復帰するまで、精々ポイント稼いでおいて」
湿っぽくなってしまった雰囲気を、明るくしようと、優らしくない冗談で二人を無理矢理笑わせた。
愛美が病室で二人の写真を撮った。
浩は力強く自信に満ち溢れる笑顔で、優は車椅子に座ったまま、不安と焦りの中にも強い覚悟を感じる表情でカメラを見つめている。
一月後、浩は全日本チャンピオンに輝き、優は退院をした。
愛美の写真は大賞は逃したものの、審査員特別賞を受賞していた。
賞金は大幅に小さくなったが、浩と優は愛美に食事に招待された。あのコンテストが多くの有名写真家を輩出した、登龍門的コンテストで若いプロのカメラマンも多数応募していると、その時聞かされて驚いた。
愛美は審査員をしていた大先生の薦めで、東京の大学の芸術学部に進む事を報告もした。
三人で祝杯をあげた。愛美の受賞と浩の全日本チャンピオン獲得、そして優の退院を祝って。