9. 花茶会 1
私たち三人は、城の廊下をアニ君の案内で歩いている。
初めての外出で緊張している……はずだったのに、そんな緊張はどこへやら……。今、私は猛烈に疲れていた。
お昼を手早く済ませてからはずっと茶会の準備と称して、ベリスさんがここぞとばかりに張り切っていた。
まず最初にお風呂に連れて行かれ、一人で入れると何度言おうが全く聞く耳を持たず、全身を洗われ髪には花の香りのオイルをぬりたくられ……。とにかく、大変だった。
お風呂から出たら出たで、これまた大変だった。
……そう、彼女の大好きな着せ替えタイムだ。
クローゼットは私の願い通り地味な服で埋まっているというのに、いつも彼女はどこからあんな服を持ってくるのか……。派手なだけならまだしも、露出が多いのは本当に勘弁して欲しい。
全身虹色に輝くビーズが縫い付けられた肩出し、腹出し、足出しのドレスを「一回、着てみましょうー!」と、満面の笑みで言われた時は思わず卒倒しかけた。
約束の時間が迫ってきて、やっと開放されたのだ。
もちろん服は地味で目立たなそうな物を選んで、髪だけフードからはみ出さないように藍色のリボンを使って軽く編みこんでもらった。
「ああ! 時間がたりませんー!」と、悲憤する彼女を宥めるのは相当な労力を必要とした、らしい。
らしい、というのは私がそれをすると墓穴を掘る事になるでしょう、という先生の助言もあり、主に宥めていたのは迎えに来たアニ君だったからだが。
「百合さん、どうしました?」
数分前の過去を思い出してこぼした、盛大な溜息を聞かれてしまっていたらしい。
「なんでもないです。ちょっとベリスさんの服のセンスが…………特殊で」
できる限り言葉を選んでそう言うと、それだけで日向先生にはわかったようで、少し困ったように笑う。
「私のところにも特殊なセンスの服を持ってきていただきましたよ。さすがにゴールドの上下は無理なので、お断りしましたが」
『アオイ様は見目麗しーですから!』
ベリスさんが言いそうな台詞が、彼女の声で脳内再生され、ついでに輝く金色のスーツを着た先生が浮かんだ。……に、似合わなくはない。だが、これは酷い。
吹き出すのをお腹に力を入れてなんとかこらえ、別の話題をふってみる。
「そ、そういえばカレンさんからの手紙に書いてあった〝三の鐘〟って、お昼の鐘の次に鳴るやつですよね?」
「そうですね。時間の把握はもう出来ましたか?」
「とりあえずは……」
この世界での時間を知るすべは朝、昼、晩と三回の大聖堂の鐘。
他には大聖堂の両脇に立つ小さめの聖堂から、朝の鐘の後に一の鐘、二の鐘が鳴り、昼の鐘の後には三の鐘と四の鐘がそれぞれ二時間刻みに鳴る。
なぜ二時間刻みとわかるのかといえば、私がこちらに来た時に着ていたコートの中に入っていた携帯のおかげだった。数少ない私の持ち物で、今はこのマントの内ポケットに忍ばせている。
さすがに圏外になっていて、どこかに繋がるというわけもなく、今は時間を調べるくらいにしか使えない。それでも元の世界の物はどんなに無機質で冷たくとも、お守りのように私の心の平静を保つのに役立っていた。
だからこそ一人の時は、ついつい携帯で時間の確認をしてしまっている。
そこで気が付いたのが、この世界の一日が私たちの世界と同じ、二十四時間だという事。そして前述した〝二時間刻み〟なのだ。
「ユリ様、アオイ様。この先は外回廊の一つで、内庭に面しています。今日は悪天候ですので、十分お気をつけください。ここを抜ければペタルム庭園はすぐそこです」
アニ君が重厚な金属でできた観音開きの扉を杖で軽く叩くと、その片方が誰の手も借りずに動き出す。人が一人、十分に通れるだけ開いた扉からは、吐息まで凍ってしまいそうな冷たい雪風が入り込む。
「百合さん、手を」
「えっ、あの、だ、大丈夫ですっ」
差し出された手を見て、つい頭を撫でられた事を思い出してしまった。
かあっと熱の上がった頬を見られたくなくて、俯いて両手を顔の前で大げさに振って、固辞の意思を示す。
「駄目です。今日は吹雪が酷いですからね。さあ行きましょう」
言い終わるより早く、手をとり更に私の肩を後ろからしっかりと抱いて、白い世界へ足早に歩き出した。
四方八方から打ち付ける吹雪は身を切り裂くような冷たさなのに、触れられている箇所が熱い。先生がうまく吹雪を私に当てないようにかばってくれているのもある。
でもきっとそれだけじゃない。
――――大丈夫。私が……、私が、守ります。
強い決意の秘められた、先生のあの言葉をふと思い出して、少し……胸が痛んだ。
優しさのお返しがしたいのだと、やっと気が付いたのに。
このとてつもなく〝優しい人〟にどれだけのお返しをしたらいいんだろう。
わからなくて、もどかしくて、苦しくて。
この心地いいぬくもりは、私を情緒不安定にさせる。
心に生じていたものは、いつもの〝もやもや〟に切ないくらい似ていた。
遠くで大聖堂のものとは違う甲高い鐘の音が、微かに鳴り響いていた。
軋むような音と共に扉がしまる。
外回廊とアニ君が言っていた場所からいくらか歩いて、目的の場所へと着いた。
その場所は私が想像していたものとは、少し違っていた。
ぐるりと見渡せる程度の広さで、ドーム状の磨りガラスのような物に覆われているそこは、さっき吹雪の中を歩いてきた事すら忘れてしまいそうな、まさに切り取られた――春の庭。
お城の庭園という言葉ほど仰々しくも無く、こじんまりとしていて、どこか長閑な空気を保っていた。
色とりどりの花のアーチをくぐると、空中には光り輝く石のような物がそこかしこに浮遊している。
「……うわあ……」
なんとも不思議な光景に、小さく感嘆の声をあげた。
「ユリ様、こちらですわ」
声がする方を向くと、カレンさんが立ち上がって小さく手を振っているのが見えた。
その隣には王様がいて、やや後方に知らない人が二人、周囲に目を光らせている。
「急な申し出でしたのに、おいでくださって嬉しいですわ。さあ、お座りになって」
白で統一された大き目の丸いティーテーブルの上には、人数分のお茶の準備がすでに終えられていた。
私たちが勧められるまま席に着けば、数人のメイドさんが手早くカップにお茶を注いでいく。
隙無く手入れの施された、低い木々の間を緩やかにそよぐ風は、花と土とお茶の香りがする。
「そちらのお二方は?」
春の香りに心を飛ばしている私を置き去りに、茶会は先生の質問から始まった。
「これは私の護衛です。右の大男がビオラ、左の麗人はハイペリカムといいます」
「まあ、ヴァイス様。あなたの一番の忠臣に向かって大男は失礼ですわ」
「大男なのは事実だろう? 二人とも、ご挨拶を」
笑いあいながら互いに目配せする二人に〝一国の王と、神に仕える神官の長〟という事を忘れてしまいそうだ。
王様の後ろに控えていた大男と言われた人がまず一歩前へ出て、硬く握った右こぶしを胸の中心に押し当てる。
確かに……大きい。先生や王様も十二分に長身と言えるが、この人はその上をいく。二メートルは超えているだろう。鎧と服で隠れてはいるがわずかに見える体は筋肉質で、テレビで見た格闘家のようだ。
眉間と口元に刻まれた皺が、彼の貫禄を更に増しているように思えた。
「帝国騎士団、副団長ビオラ・マンデュリカです」
深々と一礼すると、すみれ色の短髪と緑青色のマントが動作にあわせて動く。
身を起こしこちらをちらりと見た瞳は、彼が身につけている銀の鎧とよく似た色をしている。
厳つい容姿と低い声が相まって、気後れしてしまう。
「怖がらなくても大丈夫。ビオラはこんな見た目だから勘違いされがちだけど、とても実直で有能ですよ。まあ、無口なのが玉に瑕ですがね」
心を読まれたかのような口ぶりに思わず王様の方を見ると、翡翠の瞳を優しく細め、優雅に笑っていた。
前と変わらず、心臓に悪い美しさだと思う。イケメンという言葉すらおこがましく感じる。
ビオラさんはこちらと、王様にまた一礼して元の位置へと戻る。それと入れ替わるようにもう一人が前へと歩み出る。
高い位置で一つに結ばれた緋色の長い髪が、この空間を漂う不思議な石から発せられる光で燦然と輝いている。意志の強そうなきりりとした切れ長の瞳は、この春の庭にぴったりな菜の花の色だった。
「帝国騎士団所属、ハイペリカム・エレクタムと申します。リカとお呼びください」
ビオラさんがしたように右こぶしを胸に押し当ててから、深々とこちらに一礼をするその人は、女性のわりには背が高く、先生よりも少し低いくらいだ。特徴的なハスキーボイスが耳に残る。
銀の鎧はビオラさんとほぼ同じだったが、彼女はマントのかわりに首元を自身の髪の色と同じ緋色のスカーフで飾っていて、成熟した大人の雰囲気によく似合っていた。
「リカは私が幼い頃から騎士をしていますの。男勝りで頑固で融通も冗談もきかないし、思い込んだら周りが見えなくなったりしますが、とても真面目で頼りになるんですよ」
「おいカレン、それは私を貶しているのか?」
「ふふ、ちゃんと最後は褒めてますでしょ?」
「最後以外は貶していると認めているのだな」
「終わりが良ければいいのですよ」
「良いわけないだろう……」
笑顔を崩さず結構酷い事をさらりと言ってのけるカレンさんに、最初に持っていたカレンさんのイメージがどんどん変わっていくのを感じざるを得なかった。……まあ、あのスケスケ下着事件ほどの衝撃ではないが。
不本意と眉をひそめるリカさんは、これがカレンさんの通常運転だと言わんばかりに、口元には薄い笑みを浮かべている。
二人の間に流れるあけすけな会話は、正直……羨ましい。
私にはそういう風に話をする関係の人は、一人もいなかった。特に欲しいとも、こちらの世界に来るまでは思ってすらいなかった。
「ハイペリカム、口を慎め。陛下の御前だ」
「失礼いたしました。……カレン、後で覚えていろよ」
ビオラさんの忠告を受けて、端整な顔で捨て台詞を吐いて一歩下がるリカさんに、カレンさんはますます美麗な微笑みを向けた。
「二人とも腕の立つ、私の信頼している者たちです。ユリ様、アオイ様。何かあれば彼らも頼ってください」
王様の一言に、新たに出会った二人は体ごと私と先生の方を向き、また挨拶のときに見せた姿勢をとる。二人の動きは寸分の狂いも無く、騎士団の厳格さを表しているようだった。
透明なガラスのポットのお湯の中で、大輪の花が咲いている。
その花のように、テーブルに座る私以外の四人は話を咲かせているのに、私は時々掛けられる声に曖昧な返答をするばかりだった。
あのお茶、昔テレビでみた中国のお茶にそっくりだなあ、などと余計な思い出ばかりが先行して、なかなか言うべき決意を伝えられずにいた。
私は自分の中の決心を、ここにいる人たちに伝えたいと考えていた。
でも……いざその時になると妙に言い出しにくくて、乾いた唇と喉を何度もお茶で潤さなくてはならなかった。
カレンさんは手紙で何も言っていなかったけど、このお茶会はきっと私のために開かれたものだろう。
部屋に閉じこもって、塞ぎこんでいる私を少しでも和ませるために。
――――それは、私が〝聖女〟だから?
頭にふとよぎる。そしてすぐに頭を振る。
すぐ良くない方へ考えてしまうのは私の悪癖だ。
悪い芽が育たないうちに、思いを口にしたい。でないと……言えなくなりそうで。
「あのっ」
変なタイミングだったかもしれない。
切羽詰って裏返った掛け声は、自分で思ったよりも大きくて一気に十二の瞳に晒される。
あれだけお茶を飲んだのに、また口の中がカラカラだ。
ああ。早く、言わなくちゃ。みんな忙しいのに。
早く、早く、と急かすほど、言葉は出てこない。
なかなか話さない私を、みんな心配そうに見つめている。
「……百合さん」
テーブルの下できつく握り締めた手の上に、そっと先生のそれが重ねられる。
柔く掴まれた手、その手の持ち主、と視線を上げれば、いつもの笑みがそこにはあった。
「ゆっくり。……大丈夫」
意を、決した。
一つ、大きく深呼吸をして。
「……私、何が出来るか、まだ……わかりません」
勝手に震える手に伝わる、温かさ。
それはそっと、背中を押してくれているようだ。
「でも、私……私! 皆さんの、役に立ちたいです!」
語気を強めた勢いそのままに立ち上がって、乞うような気持ちで頭を下げる。
先生の手をぎゅっと繋いだままなのは気付いていたが、今はこの手を離したくなかった。