7. 秘める
雪の降りしきる季節には珍しく、今日は地上に陽光の届く暖かい一日だったが、とっぷりと日の暮れた空からは、また大粒の雪がしんしんと舞い落ちてきている。
ゆっくりとノブを回し、周囲に人がいない事を確認する。
別に外出する事を禁じられているわけではないが、誰にも会わずに行けるのならばそれが最善だ。
扉から出て、すぐに閉じる。なるべく音をたてないように。
ここは元々国賓を泊めるための部屋で、城の中でも特に警備の厳重な区域だが、警備のほとんどは魔法の力によってなされているため、人の姿は少ない――と、説明を受けている。
怯える彼女に余計な不安を与えないための配慮、か。
扉の閉まる金属的な微音は、勢いを増してきた風の音でかき消された。
横目で隣の部屋の扉を見る。
私と彼女の部屋は隣り合っている。造りはほぼ同じだが、彼女の部屋が緑と銀を基調としているのに対し、こちらは紫と銀をそれとしている。
彼女の部屋から何か音がする事は、彼女付きの侍女――ベリスさんがいない場合を限定として、ほぼ無い。
一度だけ、真夜中にうなされている声を聞いた。すぐにでも傍らに行き、優しく起こして大丈夫だと宥めたかった。しかしそれをする事は立場上容易ではなかった。……彼女自身も、それを良しとはしないだろう。
胸によぎるものを感じながら、ラピスラズリを思わせる、通路に敷き詰められた青い絨毯の上を足早に歩く。
何度か曲がり、幾度か階段を降りると、一つの扉の前へと辿り着く。
ここへ来た当初、気絶した彼女を部屋のベッドに寝かせた後、話し合いをするべく戻った際に『何かあればここへ来てください』と小さな彼に言われた場所だ。
しん、と静まった空間に響かないよう、なるべく小さくノックをする。
扉の向こうからすぐに返事が聞こえ、こちらへと向かってくる足音がした。
「何かご用でしょうか……って、わ、びっくりした! アオイ様! どうかされましたか? とりあえず中へどうぞ」
「夜分遅くにすみません。アニ君がまだここにいてくれて良かったです」
案内されるまま部屋に入ると、壁いっぱいの備え付けられた本棚には所狭しと書物が並び、入りきらずに床にまで溢れている。
天井にはふよふよと光る物体が浮き、部屋を明るく照らす。
そんな中にぽつんとある机にも物が乱雑に置かれ、書類の類いが山をなしていた。
所々に埃がたまるその部屋は、古びたインクの匂いが充満し、自らの過去を思い出させた。
自分も、これと似た部屋でよく本を読んでいたな、と。
「物がいっぱいで……すみません……」
「気にしませんよ」
恥ずかしそうに少し顔を赤らめた彼が杖を一振りすると、散らばっていた羊皮紙や書物が片付き、空いた空間に小さめのティーテーブルと、椅子が二脚現れた。テーブルの上に二人分のティーセットを添えて。
暖かいと言えない部屋にもうもうと湯気が立ち上る。
「ジンジャーシナモンティーですか。温まりそうですね」
「ここ、私の執務室として自由に使っていたら、いつの間にか書物がいっぱいになってしまいまして。それで何度か小火騒ぎを起こしたら暖炉を使用禁止になってしまったのです……。お寒くありませんか?」
「寒いのは慣れていますから、平気ですよ」
笑みを作ると、彼もつられるように微笑んだ。
口に含んだ紅茶は、じく、と舌を軽く刺すように辛く、それでいて魅惑的に甘い。
脳裏に一瞬〝彼女〟を連想した。
「実はアニ君にお願いがありまして」
「お願い、ですか? 僕にできる事なら何でもどうぞ」
「百合さんの部屋に、誰かが出入りしたらわかる魔法をかけて欲しいんです。……もちろん百合さんには内密で」
「それくらいなら……って、え? えっと、……ええ?」
暗に〝百合さんの部屋に出入りする人を監視して欲しい〟と言っているのだ。しかも当の本人には内緒で。それはつまり、彼女の了承は得ていないという事でもある。
目に見えてうろたえる、言葉の意味を正しく理解したらしい彼の瞳をじっと見つめ、今しがた発した言葉の理由を述べる。
拒否させるつもりは――――微塵も無い。
「君とも話したでしょう? 聖女――つまり百合さんを利用しようとする輩が現れるかもしれないと。私はまだこの国をよく知りません。この国に住む多くの人も、この国を動かしている人たちの事も。……この際、はっきり言いましょう。現時点で私はこの国を信用していません。私は彼女を守らなくてはならない。彼女の……〝保護者〟として、なんとしてでも」
「そんな! ……アオイ様は、僕や陛下を信じてくださらないのですか!」
感情に任せるまま彼は立ち上がり、その振動でカップの中の鮮やかな紅い液体が揺れ落ち、繊細なレースのテーブルクロスに染みを作った。
ラベンダーアメジストを思わせる両の瞳は憤慨するような、悲嘆するような、そんな感情が渦巻いている。
「アニ君、私はあなたを信用しています。あなたとヴァイス陛下。それからカレン神官長とベリスさん。私の信用しているのはこの四人だけです」
「ならば……なぜですか?」
「逆を言えばそれ以外は信用ならない、という事ですよ。君は忘れましたか? 私と百合さんがこちらに来た時、剣を向けられた事を」
「それは……!」
「召喚は大変繊細なもので、失敗して何か良からぬものが出てきた時のための準備だった――そう、聞きました。それでも尚、私は思うのです。国を救う聖女を迎える、あれはそんな雰囲気ではなかった。あれは――恐れ。それも相当根深い。君は、そう感じませんでしたか?」
君にはわかりませんでしたか? あの場に満ちる恐れと――欺瞞が。
そう言えたのなら、事はもっと楽に運ぶのかもしれない。だが、リスクは少なければ少ないほどいい。
告げるためには、もっと確証を得てからにするべきだろう。
「それは……えっと……」
彼の顔には〝何を言っているのかよくわからない〟と書いてあった。
言葉の意図が読めずに、泣きそうになりながら。
「……ふふ、すみません。あなたを苛めるつもりはなかったのですが」
「え! い……苛め……」
「あの時もきっと、君は百合さんしか、見ていなかったのでしょうね」
「実はそうなんで……す…………って、ええーーっ! いや、その! え、うわっ」
慌てふためき大きく後ずさって、ぎゅうぎゅうの本棚にぶつかった彼の頭にいくつもの本が落ちる音を聞きつつ、彼の顔色とよく似た紅茶の残りを飲み干した。
「それでは……明日にでも扉に魔法をかけておきます」
「ありがとうございます」
「施術が終わりましたら、アオイ様にも感知できるよう、魔煌石をお渡しします」
「わがままを言ってしまってすみません。紅茶、ご馳走様でした」
多少強引だったのは否めないが〝お願い〟を押し通す事に成功した。
これであの部屋をよく出入りする百合さんと私。それから信用の置けるアニ君、ヴァイス陛下、カレン神官長、ベリスさん。この六人以外に誰かが出入りすれば、魔法を施したアニ君と、そして私はすぐに察知できる。
加えて素直すぎるが、とても優秀な彼の手にかかれば、それが誰なのかすら、いとも簡単に割り出すだろう。
「そうそう、百合さんが君に会いたがっていましたよ」
「ええっ! ほ……本当ですか?」
「はい。口には出していませんでしたが……。もし時間があったら会いに行ってあげてください。では、失礼します」
「はい! お気を付けてお帰りください。」
互いに軽く一礼をして、私は部屋へと帰る道を辿る。
来た時よりも幾分気温の下がった通路で、深く息をつく。
私にはやるべき事がある。そのためならどんな事でもするだろう。
たとえ誰に嘘を吐く事になろうとも。たとえ誰を傷つける事になろうとも。
君を、守るためならば。
「…………私が、必ず君を守ってみせる……」
呟きは、誰の耳にも届かずに消えていく。
激しい吹雪が、窓を叩く音だけが響いていた。