5. お伽話な現実
小鳥の囀りが聞こえる。
それ以外は自分の出す呼吸音、衣擦れの音。
物音は…………聞こえない。
眠りから覚醒して、目を開ける前にまず私がやるのは、こうして耳を澄ます事。
幼い時からの癖で、家の中に誰がいるのかの確認だ。
嫌なものを極力見ないためには、こうした馬鹿らしい努力が必要だった。馬鹿らしい、なんて思いながらも、私にとっては重要なのも事実だったわけで。
そうして今日が金曜日である事と、自分が中学生になっている事を思い出す。
両親は離婚して、私は母と二人暮らし。母は木曜日から月曜の早朝までほとんどいない。今も物音がしないからきっとそうなんだろう。
頭の中で過去を順序立てて、やっと今へと立ち返る。
安堵と落胆を混ぜ合わせ、溜息を一つだけつく。
早く学校に行く支度をしなければ。朝食は……なくてもいいか。
一連の作業を終えて、ようやく私は自分の瞼に開く許可を出す。
「…………何、これ」
たっぷりの白い薄布が天井を覆っている。俗に言う天蓋というやつだろうか。
同級生の女子が、休み時間によく読んでいるファッション雑誌の後ろの方にある通販のページでこれよりはるかに劣るが、似た物が売られていたのをちらりと横目で見たような気がする。
私の住むアパートにはもちろんこんなものはない。大体私はベッドより布団派だし。
上体を起こし部屋中を見渡しても、どこにも私が見知った物は無い。
一人で使うには広すぎる部屋に大きいシャンデリア。緑色と生成りの上質なシルク素材のベッドカバー。それに合わせたような深緑の絨毯とカーテン。壁と家具は白で、装飾は銀で統一されている。
一流ホテルのスイートでも、ここまで豪華ではないと思う。
「……あー……」
今、やっと合点がいった。
昨日の夕方からの記憶が、ダイジェストのように思い出されていく。
あの紅く、妖しい光を見た後、きっと私は気を失ったんだろう。
昨日の怒涛の展開を思い出すにつれ、頭が酷く痛んだ。
右手を額に当て、これからどうしたものかと考えてはみたものの、一向にいい考えは浮かんではこなかった。
起き上がって、ベッドの横の大きな窓から外を見る。
薄雲の向こうに太陽の輪郭がおぼろげに浮かんでいて、雪がちらちらと降り、知らない世界を白一色に包み込んでいた。
眼下に広がる町とおぼしき家々のほぼ中心に、ひときわ目立つ塔のような大きな建物が見える。歴史の教科書に載っていた、外国の聖堂に似ているとぼんやり思った。
――――コンコン
「失礼いたしますー。あ、もうお目覚めでしたかー」
ノックと同時に反射的に身を屈めてベッドの横に隠れたが、まるで意味は無かった。
隠れる意味も……特に無かった気がするが。
「お初にお目にかかりますー。ヴァイス陛下とカレン様より、ユリ様のお世話を仰せつかりました、ベリス・ペレンニスと申しますー。何かありましたらなーんでも、お申しつけください」
微妙に間延びした話し方のこの女性は、かっちりとした黒のワンピースに白いエプロンを着込み、赤茶色の長い二つのおさげを大きく揺らして深々とお辞儀をする。
「さーさーこちらへ。お召し物を選びましょうー」
顔をあげ、にっこりと微笑みつつ、私の手をとってやや強引に部屋の奥へと進む。
『お召し物』と言われて、自分の服装が制服でなく、前をくるみボタンで留めるタイプの、ゆったりとしたショッキングピンクのふりふりワンピースなのに気が付いた。
自分では絶対選ばないし、似合わないだろう物に「ひぐっ」と、思わず変な声が漏れた
「あ、あの。私の制服……着ていた服は?」
「お召しになっておられた衣類は、下着も含めてきちーんとお洗濯をして、後でお持ちしますー」
今、とんでもない単語が混ざっていたような気がするが、あまりに恥ずかしすぎて、私は深く考えるのをやめた。
部屋の奥にあった扉の中は、広いウォークインクローゼットのようになっていて、フリルやレースなど、凝った装飾のされた色とりどりのドレスや、テレビでしか見た事の無い大粒の宝石を使ったアクセサリー。靴や手袋、帽子などの小物から下着まで一通り揃っていた。
凄い、とは思った。でもこれを自分が着るとすればどうだろう。
…………ないな。うん。
「これなんかどうですー? ユリ様の白い肌がよーく映えますよー?」
即決回答を下した私の脳に反して、鶯色の瞳は、艶々した布地のエメラルドグリーンのドレスを手に、らんらんと輝いていた。
「……もっと、質素なやつ、お願いします……」
そう言うだけで、もう精一杯だった。
結局選んだのは奥の方にあった、比較的地味な黒茶色の膝丈ワンピース。多少レースや刺繍が施されているが、裾に少しだけなので妥協した。と、いうより妥協せざるをえなかった。
アクセサリーの類いは遠慮し、靴は自分のを履くからと、なんとか断ったが、ベリスさんは目に見えて不満そうだった。
彼女に任せていたら今頃どうなっていたか……。恐ろしすぎて鳥肌がなかなかおさまらなかった。
下着類は元の世界とほとんど変わらない構造でほっとした。
ただ、やはり……というか、華美な物や下着としての意味をなしていない物も多く、選ぶのに酷く気力を消耗する羽目になってしまった。
一体誰が総レースでスケスケな下着上下一式を着るというのか……。
これを準備した人の、頭の中が窺い知れない。
「ごちそうさまでした」
ベリスさんの持ってきてくれた朝食を食べ終え、手を合わせる。
「あらー。量、多かったみたいですねー」
「すみません……。元々あまり食べないので」
「そんな事じゃ、おっきくなれないですよー? もーっといっぱい食べないと。じゃーお腹が空いたらいつでも言ってくださいねー。ベリス特製のブルーベリーと胡桃のパイをすぐお持ちします」
「あ、ありがとうございます……」
――――コンコン
「はいー。ただいまお開けしますー」
本日二回目のノック。
すばやくベリスさんが扉を開ける。
「おはようございます、百合さん」
「おはようございます、ユリ様!」
日向先生とアニ君の挨拶が見事に重なった。
あまりのシンクロ具合にしばしぽかんとして、思い出したように朝の挨拶を返した。
「ユリ様、それでは私は所用を済ませてまいりますー」
お皿を乗せた銀のトレーを手に、ベリスさんは一礼して二人と入れ違いに出ていった。
「百合さん、体調はどうですか?」
朝食の皿を下げたラウンドテーブルと同じ装飾の猫脚のイスに、私を真ん中にして右斜め前に先生が、左斜め前にアニ君が座る。
「体調は大丈夫です。それより、日向先生その服どうしたんです? 私も人の事言えませんけど」
「ああ、これですか? 色々用意されていたので着てみました」
先生は基本的にいつもシンプルな格好で、昨日も白のシャツに榛色のベスト、セピア色のジャケットと、ベージュのチノパンといった服装だった。
今は生成りのシャツに、鈍色の腰丈で銀の一つボタンのフードつきケープを着ている。下は胡桃色のパンツに茶色のブーツ。
「中はこんな感じですよ」とケープをめくって、襟元に銀糸の刺繍が入った松葉色のベストを見せてくれた。
〝日向 葵〟という名前にしては西洋風な顔立ちの先生に、その服装はとてもよく似合っている。
「私たちの世界の服装は、こちらでは多少目立つと思いまして。注目されるのが良い事ばかりとは限りませんし。だから百合さんにも、なるべく制服を着るのは控えてもらいたいのですが」
着てみました、なんて軽く言うかと思ったら……。
日向先生って色々考えてるんだな。
「服装の事はわかりました。……あー、でもここに用意されてる服が……」
「何か、不備でもございましたか!?」
「不備……というか、個人的にもう少し地味な服がいいかな……」
アニ君の顔は、ダンボールの中でこちらを見上げる、捨てられた子犬みたいな表情だ。もしかしたら私は、こういう表情に弱いのかもしれない。
結構ドライな性格だと自覚してたはずなのに、実はそうじゃないのかもしれないな……。
「ほら、先生も言っていたとおり、派手な服装だと目立っちゃうから……」
「それに丈の長いフードつきのマントも欲しいですね。百合さんの髪と瞳は目立ちすぎます」
先生の言葉にアニ君は、はっとしてポケットから一枚の小さな紙を出し、文字を書くように指を滑らせ、杖の先で紙にちょん、と触れる。
すると紙は藤色の小鳥になり、窓をすり抜けどこかへ羽ばたいていった。
「今のも魔法?」
「はい! 今のは簡単な伝達魔法です! ユリ様のお召し物については、カレン様にお任せしておりますので、マントの件とユリ様のご希望を書いて送りました」
「え! あのスケスケ…………じゃなくて……ドレスとか、その他諸々も……カレンさんが?」
「はい! すべてカレン様ご自身で選ばれた品だそうですよ!」
脳裏に、昨日の淑やかなカレンさんの微笑みが浮かぶ。
私の平常心は……今、試されているらしい。
数分も経たないうちに、水色の蝶がひらひらと部屋へ舞い込んできた。
蝶はアニ君の差し出した掌にとまり、その姿を紙へと変える。
「カレン様からの返信ですね。……服とマントですが、すぐに用意していただけるそうです」
「なんか、申し訳ないです……」
あの服や小物だって、きっと物凄く高価なんだろうし。
「いいえ! 陛下からもユリ様とアオイ様に粗相の無いように、と仰せつかっています。ですから謝らないでください! ユリ様は聖女様です! これくらいは当たり前です!」
聖女様……か。
――――それが、あなた様が〝聖女様〟である――証となりましょう。
それを事実として上手く受け入れられずに、私の目線は勝手に下がっていく。絶対違うと思う反面、あの妖しくも美しい紅の光がちらついて……離れない。
「……あなたが気を失った後の事を、話してもいいですか?」
先生はずっとタイミングを待っていたのかもしれない。
トーンを少し落とした先生の声に、言葉で返事をする気持ちにはなれず、こくんと小さく頷く。
「あの宝石が紅く光った後、あなたはすぐに気を失ってここに運ばれたんです」
エリュトロン・アダマス――――紅の夜光石。
まただ。思い出すと胸がちくちくと痛い。
「その後、あなたのいない状態で聞くのもおかしいと思いましたが、ここにいるアニ君も含め、お三方はとてもお忙しいらしく、このままではまともに事情を聞けないと判断して、先に私がこの国の実情をお聞きしました」
真剣な眼差しを私に向ける先生の顔が、窓からの柔らかく差し込む光で仄かに照らし出される。そしてこの時、私ははじめて知った。
カレンさんの瞳が星の輝く夜の色なら。
日向先生のそれは、月も星も隠れた――闇の色だという事実を。
紫黒の双眸がとても綺麗で、思わず見惚れてしまう。
でもそれはほんの一瞬。その一瞬を悟られないよう、ゆっくり視線をそらす。
『先生はもしかしたら、純粋な日本人ではないのかもしれない』
前々から、学校中の女子の間で有名だった一つの噂を思い出した。紫黒の瞳を思いがけずに見てしまったからだろう。
何人かの生徒が、噂の真偽を確かめようと躍起になっていたが、いくら聞いても曖昧な答えしか貰えない! と、あのカフェオレ色の髪の女子も嘆いていたっけ。
ちなみに〝純日本人派〟〝ハーフ&クウォーター派〟〝元々外国人で帰化した派〟の三派が結構どうでもいいしのぎを削っていた。
そして今、あえてそこに触れようとは、私は考えなかった。
誰に聞かれても言わなかったのであれば、それはきっと先生の踏み込んで欲しくない領域なのだろう。
単純な興味でそこに片足を突っ込むなんて、私にはできない。それは自分がやられて、一番……嫌な事だから。
「この国がなぜ〝聖女〟と呼ばれる者を喚ぶ事になったのか……。どうやらこの国は、ある危機的状況に陥っているようです」
黙って続きを待つ私に、先生とアニ君は目配せをする。
「帝国には古来より、言い伝えがございます」
一呼吸おいて、アニ君がゆっくりと語る。
「帝国の影が濃くなりし時、呼応して姿現す三体の魔獣あり。
魔獣の慟哭は土を汚し、憤怒が民の心を狂わせ、虚無で陽光を穿つ。
これすなわち滅亡なり。
滅びを救うは、異世界より喚ばれし聖女なり。
この世に存在せぬ黒い髪、黒い瞳の清廉にして佳麗な少女なり。
魔獣を屠るは、その身に宿す膨大な魔力のみ」
まるで……お伽話の世界みたい。
「これが、帝国に伝わる魔獣と聖女の伝説です」
どれだけ現実味が無くても、これが私の現実なのか。
まだ心を占める戸惑いをなんとか閉じ込めようと、テーブルの下で固く手を握り締める。指の関節が白くなっても、爪が掌に食い込んで痛くても、力を緩める事はまだ出来そうにない。