4. 証
「陛下がいらっしゃったようです」
子供らしい表情から一変して〝宮廷筆頭魔術師〟の顔になったアニ君が、さっと扉を開ける。
なんとなく座ったままでいる事が憚られるような気がして、私は急いで立つ。真横に座っていた先生も立ち上がったのが気配でわかった。
入ってきたのは先ほどの翡翠の瞳の青年と、勿忘草色の豊かな腰までの髪に、星の輝く夜のような濃紺の瞳の女性。
「遅くなってすまない。アニ、どこまでご説明した?」
「はい、陛下。ここが聖女様たちの世界ではなく、帝国である事までご説明いたしました。次に聖女様ご自身の事をご説明する所でした」
「そうか。まずは先ほどの非礼を、もう一度詫びさせてください」
そっと頭を下げる動作にあわせ、ゆるく編まれた金糸の三つ編みと、それを束ねる黒いリボンがふんわりと揺れた。
「私も随分と失礼な物言いでした。申し訳ありません」
日向先生も丁重に頭を下げる。
「いえ……あなたに言われた事は正しい。さあ座ってください」
私たちの向かいに座った美男美女に、アニ君が新しくお茶を二つ用意したが、それもまた一瞬で、私はその様子から目が離せなかった。
「では〝聖女〟について説明を――」
「お待ちくださいヴァイス様。その前に自己紹介くらいした方がいいですわ」
「ん? それもそうだな」
きっと、この二人はお互いを信頼しあっているんだろうな。
見つめあって笑みを交わす翡翠と濃紺の瞳が、それを雄弁に物語っている。
「私はヴァイス・クリサンセマム・モリフォリウム。亡き父からこの国を受け継ぎ、治めています」
国を治める? それは、つまり――
「お……王様?」
「はい。まだまだ経験の足りない未熟な王ですがね」
ただの中学生が、王様と話しているなんて……。
なんだがとても場違いな気がして、綺麗に微笑みかけてくれる彼の顔を、なんとなく直視できない。
「そしてこちらが――」
「カレンデュラ・オフィシナリスと申します。若輩者ながら、この国の神官長をしております。カレン、とお呼びくださいませ」
すっと立ち上がり、流れるような仕草で一礼をする勿忘草色の髪の女性――カレンさんは、繊細で控えめな金の刺繍が施された詰襟の白いワンピースと、胸元で輝く大きな宝石のついた首飾りが良く似合っていた。
「百合さん。私たちもちゃんと名乗っておきましょうか」
「あ……、はい!」
自分たちがまだ名乗っていないのだと先生に言われるまで気が付かなくて、思わず弾けるように立ち上がると、王様に「座ったままで結構ですよ」と苦笑されてしまった。
恥ずかしくて、おずおずとソファに埋まりなおす。穴でもあればいいのに。
「私は黒鳥 百合です。黒鳥は苗字で、百合が名前です」
「…………ユリ、……ユリ様……」
アニ君がぼそぼそと繰り返している私の名前は、どことなくイントネーションが違う。
そういえばこちらに来てから、私は日本語しか話していないし聞いてもいない。……これも魔法? なのかな。それならばイントネーションの差異にも理由付けられる気もする。
「まあ、アニったら。顔が緩みきってますわよ」
「えぇっ! そんな! そんな事! な、無いです……」
カレンさんの軽口に、またしてもアニ君は顔を赤く染め、頭を抱え込んでしゃがみ込み、みるみる縮んでいった。
「私は日向 葵といいます。教師をしていて、彼女は私の教え子です。……が、事態が事態ですし、保護者と思ってもらってかまいません」
「ユリ様に、アオイ様ですね。どうぞ仲良くしてくださいませ」
胸に手を当てて、柔和な笑みを浮かべるカレンさんは、同性の私から見てもどきりとするほど綺麗だ。
「では〝聖女〟についてですが――」
「その事なんですけど……」
話の腰を何回も折るのは非常に気が引けたが、私はずっと考えていた事を口にすべく、おずおずと小さく挙手をする。
「私は、その……皆さんが言う〝聖女様〟では無いと思います」
聖女。聖なる女性。
きっと慈愛に満ち溢れて、誰からも愛される。……そんな人の事。
――――私だって嫌よ! あんな可愛げの無い子!
私にはどうしようもなく…………遠い。
「間違いなんかじゃないです! ユリ様は聖女様です!」
誰より早く、私の言葉に反応したのはアニ君だ。
バン! と大きい音を立ててテーブルに手を付き、身を乗り出す。
「召喚魔法は手違い無く発動させました! それに、古からの伝承で、聖女様はこの世界のどこにも存在しない黒髪に黒い瞳の、清らかで美しい女性だってちゃんと書いてありました! ユリ様はとてもお美しいから間違いなんかじゃありませんっ!」
その場にいた全員の目が、息を切らしたアニ君に注がれる。
呆気にとられた他の人を尻目に、カレンさんは「あらあらまあまあ」と、自分の頬に手を当て、嬉しそうに微笑む。それはさっきの大人びた表情とは違って、いたずらっ子が新しいターゲットを見つけたと言わんばかりの、どこか子供っぽいものだった。
「アニは意外に情熱的なのね。私、知らなかったわ」
しばらく肩で息をしていたアニ君は、落ち着きを取り戻すと同時に、再び真っ赤な金魚に変身してしまった。
なんだか微笑ましい空気の中で、私は一人、取り残されている。
アニ君の「間違いではない」という言葉だけが、ゆらゆらと頭をもたげていた。ほかも何か言っていたような気がするけど、私の頭には残っていない。
アニ君が嘘を言っているとは思えないけれど……。
しかし、王様は言っていたはずだ。
――――この国を救ってはくださいませんか? と。
一体私に何が出来る?
普通に平和な日常を過ごしてきた私に。
いや、普通より幾分〝ツイてない〟日常か。
……何も、出来やしない。
自分が出すポジティブゼロの回答に、心の中で苦笑する。
「ユリ様」
私を見つめてそらさない濃紺の瞳には、何も言わずともお見通しである。そう、言われているように感じてならなかった。
「これをご覧ください」
カレンさんが自身の胸元で輝く首飾りを指し示す。
暖炉の火の揺らめきを受け、まるでそれ自体が光を放っているかのように見える、その宝石。
「……これは、エリュトロン・アダマスといいます」
微かな金属音を立て、首飾りがはずされる。
「一部の人間は紅の夜光石、とも呼んでいますが……」
「……紅?」
私に歩み寄り、よく見えるようにとカレンさんはそれをそっと差し出す。
直径三センチ程の大きな宝石を中心に、そのまわりを六方向に華奢な土台が伸びていて、その上にも小さな宝石がいくつかちりばめられている。
彼女のほっそりとした手の中で、それは煌いていた。
「雪の結晶みたい。……綺麗」
「ええ。これは雪の結晶を模して作られたのです」
でも紅ではない。
真ん中の宝石は少しだけ虹色のように見えるが、他の小さな宝石もどこまでも澄んだ透明に見える。ダイヤモンドだろうか。
「この大きな宝石に…………触れてみてくださいませ」
言われるまま触れようとする私に、カレンさんは一言付け加える。
「それが、あなた様が〝聖女様〟である――証となりましょう」
心臓が、びくんと跳ねた。
でももう指は止められず、吸い寄せられるかのように宝石の表面に置かれた。
変化が現れるのに、僅かな時間も必要ではなかった。
宝石は二つ目の自分の心臓になったかのように脈打ち、じんわりと熱を持つ。そして虹色の宝石はその身を紅く、紅く染め上げていく。
血にも似たその色はとても恐ろしく、それでいてどこまでも――美しい。
――――――私は――――
「この宝石は〝聖女様〟が触れられると、このように紅くなるのです」
あれ……? カレンさんの声が、とても……遠い。
――――私は、あなたを――――
「……百合さ……どうし…………した?」
日向先生が、私の肩をゆすって何か言っているけど、聞こえない。
――――――許しはしない。
頭の中で反響を繰り返す、知らない女性の声。
憎悪ばかりが満ちる言葉。それでいて、それは美しい歌のようだ。
誰にも捧げられる事の無い、誰かの虚ろな歌。
その激情の濁流に、いとも容易く私の意識は刈り取られていった。