3. マジョラム
石造りの細い通路に私たちの足音と、少年の持つ自身の背丈より長い棒をつく乾いた音だけが響く。
通路脇に連なるランプの小さな炎は、通路に吹く僅かな隙間風にちらちらとなびきながら、ぼんやりと通路の先を照らしている。
ここは一体どこなのだろうか?
あのおぞましい花を見てからの記憶が曖昧になっている。
……もしかしたら誘拐されたのかもしれない。
そうだとしたら、母は月曜日の朝に帰ってきて私がいない、と驚くだろうか。いつまでも帰らない私を、心配……してくれるだろうか。
私を――――想って、くれるだろうか……。
『あの子、あなたが引き取ってくれるでしょ?』
『お前が生んだんだから、責任くらいとれよ』
『あなただって父親でしょう? あなたの方がよっぽど懐かれてると思うわよ? 私にはちっとも懐きゃしないんだもの』
『父親、ねえ。全然似てないのによく言うな。お前に瓜二つなのも腹立ってしょうがないんだよ。……とにかく俺は引き取る気はないぞ。他のやつの種かもしれない子なんて、死んでも嫌なんでな』
『私だって嫌よ! あんな可愛げの無い子!』
それは忘れるには近すぎる、焼きついた記憶。
鼻の奥をツンとした痛みが走る。
ああ、あまりに今の状態が現実的じゃなくて、つい……忘れてた。
私は――――〝いらない子〟なんだって事。
母はきっと心配なんて……しない。
無意識に繋いだままの先生の手を、軽く握り返す。
少しだけ驚くような表情をした先生は、すぐに大丈夫、と言いたげに微笑んだ。その笑みがあんまり暖かいせいで、目頭が急に熱くなってやり過ごすのに苦労するはめになってしまった。
階段を上り少し歩いたところに古い木の扉が見えてくる。
「銀月の間に到着いたしました。どうぞ、お入りください」
少年は扉を引き、私たちに入るように促す。
部屋に入れば大きな窓から差し込む青白い月の光が目に入る。
敷かれた灰色の絨毯を照らす薄明かりの中に、ちらちらと雪の影が舞っていた。
「お寒いでしょう? 今、明かりと暖炉をお付けしますので」
トン、と長い木の棒を床に一突きすると、部屋中の照明器具に火が灯り、暖炉はごうごうと音を立てて赤く燃え出した。
暗く冷たかった部屋は一気に心地よい暖かさに包まれる。
私はやはり夢でも見ているのだろうか?
目の前で起きた事柄を上手く処理できずに、唖然とするばかりだった。
「お座りください。すぐに陛下も参ります。あ! その前に、自己紹介がまだでしたね! ぼ……じゃなくて、私はアニュアス・ヘリアンサスと申します。この度の聖女様の召喚を任されました宮廷筆頭魔術師です。アニって呼んでください! 聖女様!」
「……百合さん、とりあえず座りましょう」
白藤色の瞳をキラキラさせ、息継ぎ無しで自己紹介をする少年を一瞥した先生に促されるまま、ソファに座る。
ソファは予想以上にふかふかで、体が半分以上すっぽりと埋まってしまう。
私の隣に先生は腰掛け、見極めるように目を細め少年を見ている。
「……君に少し、質問してもいいですか?」
「はい! 僕……違う、私に答えられる範囲の質問でしたらなんでもどうぞ!」
「まず一つ。ここは一体どこですか? 二つ。〝聖女〟とはなんですか? 三つ。彼女に……何をさせるつもりですか?」
冷静な口調は、普段の先生と同じものだ。
日常と変わらないそれに、私は少しだけ落ち着きを取り戻す。
「私もまずはここがどこなのか、教えて欲しいです。えっと、アニ……さん?」
「『さん』などと付けないでください! アニ、と呼び捨ててくださいませ! 敬語も不要です!」
初対面の人を呼び捨てできるほどの勇気を私は持ち合わせていない。……が、傷ついた子犬みたいな表情をされて、なんともいえない気持ちになる。
「……じゃあ、アニ君で……」
君呼びもどうかと思ったが、引く気配のしない彼に、私は折れるしかなかった。
アニ君のぱあっと明るくなった顔と、喜びをかみ締めるように何度も頷いている様子に、この妥協案が彼にも受け入れられたのだとわかって、ほっと一息ついた。
一連の流れを見ていた先生は、微妙な顔をして溜息をついて少年――アニ君に解答を促した。
今、そんな悠長な事してる場合じゃない、とか……思われてしまったかな……。呆れられてたらちょっとへこみそうだ。
「……すみません。ここはクリサンセマム・モリフォリウム帝国といいます」
「つまり、私たちが先ほどまでいた場所――日本ではない、という事ですか?」
「はい。信じていただけるかはわかりませんが、ここはお二方がおられた場所……というより〝世界〟が違います」
アニ君は言った。ここは〝世界〟が違うと。
そもそも〝世界〟というものは、大樹になる果実のようなものなのだそうだ。
私の〝世界〟とアニ君の〝世界〟は、大もととなる大樹が違うらしい。
「――ですから、本来はお互いに干渉どころか、存在すら認識出来ないのです」
「認識出来ないはずが、なぜこのような事態に?」
「帝国には大昔から異世界にある程度干渉できる術があるのです。それがお二方をお呼びした〝召喚〟という魔法です」
――――魔法。
私達の世界にはありえないモノ。
「さっき……明かりや、暖炉に火をつけたのも魔法……?」
「はい。本当は呪文の詠唱が必要なんですが、大抵はこの杖の中に溜め込んだ魔力を媒介にして、無詠唱でできるんです」
アニ君は杖でまた床をトン、と軽く突くと、備え付けの華奢な銀の飾りのついたキャビネットからティーカップが二脚、ふわりと浮いて私と先生の前のテーブルに置かれた。
瞬きする間もなく、カップの中が琥珀色の熱い液体で満たされる。
「どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
「……いただきます」
カップを持ち顔へ近付けると、スパイシーな香りが鼻をくすぐる。
恐る恐る口に含むと香ばしさと甘さを感じ、そして少しだけ苦い。でも――
「……美味しい。これ、ハーブティー?」
「はい! マジョラムっていうハーブで、お茶にして飲むと頭がスッキリするので、僕の……ではなく、私のお気に入りなんです!」
さっきまで凍えていたのが嘘のように体がぽかぽかしてくる。
暖かく美味しいものを口にしたからか、張り詰めた神経が少し緩む。
もう一度、口に含んでゆっくり味わう。
「どうやら、ハーブの効果があったようですね」
「……? どういう事です? 先生」
「このマジョラムというハーブには、鎮静作用と安眠効果があるんですよ。私たちの世界にも同じ物があって、私もよく飲んでいました。完全に同一の物かどうかまではわかりませんが……」
「日向先生って、ハーブ詳しいんですか?」
「…………そう、ですね。小さい頃から慣れ親しんでいますからね」
昔を懐かしむように細められた瞳の奥に、一瞬だけ悲しみが浮かんだように見えた。
でもそれは本当に一瞬で、すぐに消えてしまった。
「百合さんがあまりに緊張して青白い顔をしているから、アニ君が気を利かせてくれたんですね」
「えっ! いやっ、僕は! そんな! えっと……あの……」
「そうだったの? ……ありがとう、アニ君」
アニ君の気遣いが嬉しくて。
この世界に来て、私ははじめて素直に笑った。
「わっ………………」
「……アニ君? どうしたの? 顔真っ赤だけど……」
「!! ……だだだだだだだんろ! 暖炉が! 暑過ぎますね!」
「そう? 先生、暑いですか?」
「まだ少し肌寒いくらいですかね」
「……あ、あうう……」
顔どころか耳まで真っ赤にしたアニ君は、酸素を求めて彷徨う金魚のように、口をパクパクさせっぱなしだった。
「さて、話の続きをしましょうか。ここがどこか、という事についてはわかりました。次は――」
「〝聖女〟様について、ですね」
せっかく少し暖かくなった私の周りの空気が、すっと下がったように思えた。
遮ったのは扉をノックする音だった。