2. 異世界へ
誰かが泣いている。
その声はとてもか細くて、小さい。
誰にも聞かれないようにと、必死に声を押し殺している。
でも、その悲痛な泣き声は確かに物語っていた。
――――助けて、と。
知らない声の正体を突き止められずに、私の意識は浮かび上がっていく。
耳がざわつく声と衣擦れの音を拾う。
体に何かが巻きついていて身動きがとれない。僅かに身じろぐと、それに返すかのように更にきつく戒められた。
「……気がつきましたか?」
耳元でそっと囁かれた言葉は、私の知っている人のもので――
「なっ! 先生!?」
なぜこうなっているのか、理解ができない。
私は向かい合う形で、日向先生に抱きしめられていた。離れようとしても先生の腕はびくともしない。
「今は、少し大人しくしていてください」
この状況で言われるまま大人しくしているのは、私には不可能だ。
顔を真っ赤にしながら暴れると――と、いってもほとんど動けないのだが、それでも背に回された先生の腕にまたぐっと力がこもる。
こんな明るい所で、誰かに見られたら先生の立場だって危うくなる。
…………明るい?
私はさっきまで公園にいたはずだ。太陽の沈んだ、夜の公園に。
それがどうしてこんなに明るいのだろう?
思わず先生の顔を見上げる。先生は私ではなく、周りを窺うように目を細めていた。
その瞳はいつもの冷静なものでも、私を見る時の柔らかさを含んだものとも違う、まるで凍てついた氷のように、どこまでも鋭く冷たい瞳だった。
冷たく睨むその視線を私は追った。
そして言葉を失う。
そこに広がるのは、小さく寂れた公園などではなかった。
私たちを囲むように、たくさんの人達の目がこちらを凝視していた。
恐れを大いに含んだ瞳で、ぎらりと光る剣の切先を私たちへと向けている。
向けられているのはそれだけではない。
これは、まぎれも無い――――〝敵意〟そのもの。
肌がぞわりと粟立つ。
「――剣を、おさめなさい」
凛とした声が室内に響き、剣がおさめられ目の前の群集がさっと二つに割れる。
そこへ一人の青年が、私たちの前へと歩み出た。
「このような無礼を、どうかお許しください――聖女様」
淡く桃色がかった金糸の髪と紺青色のマントを、ふわりとなびかせてその人は恭しく跪く。
周りを取り囲む人々のざわつきが一層大きくなった。
「どうか、この国を救ってはくださいませんか?」
顔を上げ、私をしっかりと見据えるその人は〝美しい〟という表現が良く似合っていた。こんなに整った顔立ちをした人を、私は今まで見た事がない。
男性にしては高めの甘い声が、綺麗な見た目と妙にマッチしている。
そんな人が跪きながら、私をその輝く翡翠色の瞳で見ている。
『この国を救ってはくださいませんか?』
それは私に向けられた言葉なのだろうか?
唐突過ぎる展開に、頭はぐわんぐわんと回り、まともな思考を紡げなくなる。
「聖女様……どうか」
「や……やめてください! 私は聖女なんかじゃ……」
ここはどこなの?
なぜ私を聖女なんて呼ぶの?
これからどうなってしまうの?
疑問ばかりが浮かんでは消えていく。
私の頭はおかしくなってしまったのだ、とさえ思う。
「…………大丈夫」
その声は小さいのに、とても強い響きを持っていた。
「……せ、んせ……?」
「大丈夫。私が……、私が、守ります」
決意にも似た言葉。
私たちの常識が通用しなさそうなこの空間で、一体何ができるのだろう。
でもその言葉は、ただ私を宥めるためだけの嘘ではないと、なぜか……信じられた。
ちらりと私を見て微笑む先生の瞳の奥に、痛みにも似た切なさを見たような気がした。
先生は私を戒めていた腕を解き、それでも手だけは離さずしっかりと繋いだまま、眼下で跪く彼を見た。
「いきなり連れてこられて剣を向けられ、その上『聖女』などと言われ、彼女は酷く混乱して怯えています。あなたがどこの誰かは存じませんが、まずはどこか落ち着ける場所で、しかるべき説明をするのが筋ではないでしょうか?」
先生の強い口調に、ざわついていた周りはしん、と静まり返る。
翡翠の瞳の持ち主がそっと立ち上がる。
その小さな動作の一つでさえ、彼の育ちの良さを感じさせた。
「……至極、ごもっともな意見ですね。配慮が足らず申し訳ない。すぐに準備をさせましょう。――アニュアス」
周囲の視線が一斉に一人の少年へと注がれる。
草色のローブをまとった、色素の薄い蜂蜜色の癖っ毛の少年は、掛けられた声に気が付いていないのか微動だにしない。ぽかんと口を開けて、ただただ真っ直ぐ白藤色の両の目で私を見つめていた。
「アニュアス」
「…………あっ! はい! 陛下、只今!」
二度目の呼び掛けでやっと気がついたのか、アニュアスと呼ばれた少年は大慌てで駆け寄ってくる。
「お二人を銀月の間にお連れしてくれ。私もすぐに行く」
「はい陛下。仰せのままに。ではこちらへ」
私たちは歩き出す少年の背を追って、細く暗い通路へと歩き出した。
背中に多くの刺すような視線を感じたが、私が振り返る事は無かった。