星あかりの温度
15話でザクラスが企んだ計画が、実行に移された時のお話です。
その日は、エガルテ国王妃であり王弟の妃でもある柚真が、母国の日本に帰る日だった。表向きは、エガルテで暗殺未遂事件に遭ったため、心身の安定のために時折療養に帰ることになった、とされている。
神殿側の帰還の準備が整うまで、王弟ザクラスと共に庭に出ていた柚真が、吹き抜けのホールを全速力で走って戻ってきた。
「どうした、ユマ」
神殿の奥、『響弦の間』の前で神導長と話をしていた国王リドリースは、驚いて声をかけた。準備を終えて『響弦の間』から出てきた神官のラメルも、柚真に視線を向ける。
「何でもありませんっ」
頬を上気させた柚真は、珍しく乱暴な口調でそう言うと、
「リドリース陛下、それでは失礼します、また二ヶ月後に!」
と、日本から着てきたワンピース姿でリドリースに頭を下げた。続いて、
「神導長さまも、ラメルさんもさよならっ」
と他の二人にも声をかけ、身をひるがえすと、すでに帰還準備の整っている『響弦の間』に飛び込んだ。
竪琴の澄んだ調べに満ちていた部屋は、たちまち光に満たされ、柚真の姿は溶け込むようにして見えなくなった。
光が収まると、そこにはもう誰もいない。柚真は日本に帰ったのだ。
再びこちらから柚真を呼ぶ術を行い、彼女がそれに応えるまでは、彼女はこちらにはやって来ない。
「どう……なさったのでしょうな。妃殿下のご様子が……」
神導長が豊かな顎髭を撫でながらつぶやく。
リドリースは口を引き結ぶと、細い眉を逆立てて踵を返した。
神殿の中を早足で抜け、庭へと続く大階段の上に出ると、柱にもたれるようにして王弟ザクラスが立っていた。腕を組み、物憂げにリドリースを見る。
「……ユマは帰りましたか」
「帰った。様子がおかしかったぞ。お前、一緒にいたのだろう? 一体何が」
「何もありません。俺は先に失礼します」
柱から身体を起こすと、ザクラスは短いマントをさっと翻して階段を降りて行ってしまう。
「ザクラス! ……何なんだ、一体」
立ちつくすリドリースを追って、ラメルと神導長が歩いて来た。
「陛下」
「……ユマとザクラスに、何があったのだろう。明らかに様子がおかしかったな?」
「そ、そうですね。心配です」
そう言うラメルも視線が泳いでいるのだが、遠ざかるザクラスの後姿を睨みつけているリドリースは気づかない。
「それなら陛下、お二人の最近の様子など、少し聞かせて下さい。あの、王室の話はここではなんですから、どうぞ僕の私室へ」
「ああ……」
考え込むリドリースを促し、ラメルは神導長に向き直った。
「神導長、失礼します」
「うむ。ご夫妻のお力になれるよう、真摯に耳を傾けなさい」
「はい」
ラメルはうなずくと、リドリースを案内した。
「神殿に来る時にも、あまり会話がなかったんだ。単に離れるのが寂しいだけだと思っていたんだが」
ラメルの自室に入るなり、眉をひそめて話し始めるリドリース。ラメルは扉を閉め、苦笑した。
「陛下」
「もしも二人の間に何かがあって、決裂してしまったら……ユマはもうこちらに来てくれなくなるかもしれない」
「陛下、あの」
「そうなったらもう、私にはユマを取り戻す術がない。世界が分かたれているというのは、もどかしいものだ……。ザクラスの奴、一体何を」
「リダ」
ラメルの柔らかな呼びかけに、リドリースはようやく我に返った。
「ああ……済まない」
「いえ、僕こそ……な、何だか、まだうまく呼べません。……陛下、とにかくお掛けになって下さい」
リドリースはようやく、ゆったりとした肘掛椅子の腰を下ろし、背をもたせかけた。
ラメルの私室は、神殿の隣の建物の上階にある。縦長の窓から陽光が射しこみ、丸い木製のテーブルに木の皮を編んで作られた肘掛椅子、本のぎっしり詰まった本棚を照らしている。
「ラメルが優しくリダと呼んでくれるのを聞くと、母も幼い私にそう呼びかけてくれたのだろうと思うよ。もちろん、養父と養母がつけてくれたリドリースという名も、とても好きだけれど」
リドリースは微笑んだが、すぐにまた視線を落としてため息をついた。
「しかし、どうしたものかな。……ユマはもはや仮の『妻』などではなく、私の大切な友人であり、本当の妹同然でもある。それを、ザクラスの奴は一体何をして怒らせたのか」
「その、ことなのですが、リダ」
ラメルも肘掛椅子に腰を下ろすと、軽く咳払いをして言った。
「演技です」
「何がだ」
まるで睨むようにラメルを見るリドリース。
その迫力に、ラメルは思わず顔を伏せる。
「で、ですから……ユマ殿とザクラス殿下が喧嘩しているように見えるのは、演技です。そうすれば、僕と陛……リダが、対策を相談するでしょう?」
「……話が見えないのだが」
「つまり、神導長に怪しまれることなく、そのう……二人きりになれると、ザクラス殿下が」
――リドリースはしばらくの間、わずかに唇を開いたままあっけに取られていた。
やがて、リドリースはテーブルに片肘をつき、手を額に当ててうなだれた。
「………………言葉もないな。ラメルも知っていたのか」
「は、はい……リ、陛下、お怒りはごもっともですが、ザクラス殿下は気を遣って下さって」
リドリースは額に当てていた手を離すと、肘をついたまま手のひらに顎を載せ、指で口元を隠すようにした。軽く顎が上がり、視線がラメルを見下ろす。
「怒ってなど、いないが。……私も確かに、わざと用事を作ってザクラスとユマを二人きりにするなどしてはいたが、演技してまでとは……」
白い首筋が上気しているのを見てとって、ラメルはホッとして微笑んだ。
「僕たちが特殊な関係だからこそ、考えて下さったのです。ユマ殿とお二人で」
柚真の名前が出ると、リドリースの表情がほころぶ。肘をテーブルから離して後ろにもたれ、リドリースは微笑んだ。
「そうか。ふふ……次にユマに会った時、どんな顔をすればよいやら」
「僕もです」
二人はぎこちなく視線を交わし、微笑み合うと、それぞれ自分の手に視線を落とした。
――短い沈黙が、部屋を温かく満たす。
「……こうして黙っていても、気づまりではないのが不思議だ」
リドリースは下腹のあたりで手を組んで、つぶやいた。
「初めてラメルと会った時は、少々居心地が悪く感じたものだったのに」
ラメルも同じ姿勢だったが、リドリースの言葉を聞いてわずかに身じろぎする。
「あ……あの時は、僕が陛下を無遠慮にじろじろと見つめてしまって。……ザクラス殿下が『王を見つけた』とあなたをここに密かにお連れになった時、あなたは僕に額の星紋をお見せになりましたね」
リドリースが視線を上げてうなずくと、ラメルは歌うように続ける。
「夜でしたし、ランプの灯りは小さくしてあったので、うっすら輝く星紋はすぐに確認できました。……でも、僕は星紋より、まるで額飾りのようなそれを着けた神々しい女性に、目を奪われてしまいました」
「それはきっと、星紋の光の効果だね」
リドリースは目を伏せ、苦笑した。
「私は逆だ。地方領主の騎士団で従騎士となり、武器の修理の仕事をしていた私は、質素な身なりだったし日々の仕事で手も荒れていて……。自分が王の血筋だということは知っていたから、ザクラスが私を探しに来た時いよいよこの日が来たのかと思ったのに、ここで神の使いのようなラメルの姿を見たら……やはり自分が王というのは何かの間違いではないかと思ったな。一瞬」
「けれど今は、ご立派な王になられた。その陛下を、まさか……リダとお呼びする日が来るなんて」
二人は再び、視線を合わせて微笑んだ。
ふと、ラメルがテーブルの上を見て立ち上がった。
「あ、申し訳ありません、お茶もお出しせず」
「いや、いい」
リドリースも立ち上がる。
「そろそろ戻らないと従者が心配する。またそのうち来るよ、ザクラスとユマの喧嘩についての『相談』にね。……夜でも構わない?」
扉の前でラメルに尋ねると、見送りに近づいて来たラメルは笑顔でうなずいた。
「はい、いつでも。神官は無休ですから」
「そうか、そうだな。いつでも我らを見守って下さる神にお仕えしているのだものな」
リドリースが微笑む。
ラメルは少しためらってから、リドリースの左手を両手で包みこんだ。
捧げるようにして、軽く、唇を当てる。
儀式の時などに、貴婦人に対して目下の者が行う礼。表向きは男性であるリドリースは、初めて受ける仕草だった。
ラメルが手を離すと、リドリースは思わずといった様子で、その左手を握り締めて胸に押し当てた。それから、さっと手を下ろして扉を開ける。
「…………」
何か言おうとして唇を開いたが、リドリースは結局軽く手を上げただけで、足早に廊下に出て行った。ラメルは軽く頭を下げ、見送った。
廊下の向こうで待機する神殿の護衛兵の方へと向かいながら、リドリースはやや冷たい手の甲で熱い額を抑え、小声でひとりごちた。
「化粧などできないが、夜に来れば、また光の効果で多少はマシに見えるかも……などと思ってしまう私は、少々邪かな」
そして部屋では、ラメルが閉まった扉に額をつけて火照りを冷ましながら、
「あんなに赤くなられて……思い切って口づけて良かった」
と密かなため息をついていたのだった。
【星あかりの温度 完】




