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幕間~彼女がいても、いなくても

「ユマ、もう休め」

 ザクラスの声に、柚真は背筋を伸ばしてパッと顔を上げた。しかしその俊敏な動きに反して、黒い瞳はまどろみの誘いにあらがえないでいる。

「ご、ごめんなさい、いつも先に眠くなっちゃって……たまにはお仕事が終わるのを待っていようと思ったのに」


 国王、王弟、そしてその妃の居間の窓はすでに暗闇に沈み、カーテンが引かれている。すでに夕食も済んでいたが、リドリースとザクラスは昼間にやり残した書類仕事を片付けていた。


「私たちに合わせることはないよ。毎日慣れないことばかりで大変なのだから」

「今日は初めて馬にも乗ったしな。疲れてるんだろう」

 リドリースとザクラスに口々に言われ、柚真はためらいつつも腰を上げた。

「それじゃ、お先に失礼します……おやすみなさい」

 彼女が寝室に入って行くのをティキアが追い、寝支度を手伝ってから「おやすみなさいませ」と出てきて扉を閉めた。

 振り返ったティキアが、リドリースに声をかける。

「陛下、そろそろお湯を使われますか?」

「そうだね。今日はどうも頃合いを逃してしまったけれど、休む前に使っておくことにしよう」

 卓の上の書類を揃えて重しで抑え、リドリースは立ち上がってティキアと居間を出て行った。控えの間の侍女に声をかけているのが聞こえ、やがて足音が遠ざかる。


 居間には、ザクラス一人になった。


 夜着姿のザクラスは書類を脇へ押しやると、両膝にそれぞれの肘を載せて手を組んだ。そのまましばらく考え事をしていたが、やがて立ち上がった。

 寝室へと向かい、静かに扉を開く。居間から射し込む光が寝台に届かないよう、ザクラスは隙間から身体を横にして滑り込んだ。


 大きな寝台の脇にはランプが灯りを小さくして灯されており、その反対側の隅の掛け布が盛り上がっている。天蓋から下がる布を手の甲で避け、彼は寝台を見下ろした。

 柚真はわずかに開いた唇に片手を寄せ、ザクラスの方を向いて眠っていた。こちらの女性には見られない長さの、顎下くらいまでの黒髪が、頬にかかっている。


 彼女の寝顔を見つめていたザクラスは、わずかに身体を屈めた。


 そして手を伸ばすと、寝台の天板の隅にひっかけられていたチョーカーを手に取った。

 


 星歌宮と異なり、本宮の夜の庭は暗い。

 ザクラスは渡り廊下の灯りが届く植え込みの間を抜け、東屋に入ると石の卓にランプを置いた。宵闇に、湧水の池の水音がざあざあと大きく響いている。遠くに星歌宮の建物がぼんやりと明るく見えていた。


 昼間、ここで柚真がやっていたように、チョーカーの竪琴を手に持ったまま弦を弾いて、ザクラスはラメルを呼び出した。

『ユマ殿? どうしました』

 すぐに応えがある。

「俺だ。ユマはもう休んだから、竪琴を借りてきた。遅くに悪いな」

『ザクラス殿下……? リドリース陛下も?』

「今は俺一人だ。……昼間、ユマと話しただろう? ユマは大丈夫だったか?」

 尋ねると、ラメルが苦笑する。

『ああ、大丈夫そうです。このまま協力を続けてくれると思います』

「なぜそう言い切れる? 逆らったら元の世界に帰してもらえなくなる、そう思いながら協力しているなら無理を」

『殿下。彼女は僕たちが思っているより、ずっとしなやかな方でした』

 ラメルがやんわりと、ザクラスの言葉を遮った。

『ユマ殿は、リドリース陛下を傷つけないための計画だと理解して、協力してくれていたんです』


 ラメルは、昼間柚真と話した内容をかいつまんでザクラスに語った。

『――僕たちは、ユマ殿を連れて来て、利用してさっさと帰す方が、彼女にとっても割り切ることができて傷が少ないと思っていた。反対にユマ殿は、裏の事情を自分なりに深く理解することで、穏やかな気持ちで協力できていたのです』

 ザクラスは一瞬、黙り込んだ。そして独り言のようにつぶやく。

「陛下にはともかく、ユマは俺にも、何も聞いてこなかった」

 ラメルが答える。

『僕たちが全てを話さずにいたので、彼女の方から突っ込んだ質問はできなかったのかもしれませんね。それでも、裏にあるものを察して対応する……何となく、ですが、ユマの国の国民性なのかもしれないなと僕は思いました』


 少し間があり、ラメルが尋ねた。

『……彼女が最後までやりきれるか心配で、僕に連絡を?』

「…………」

『……殿下?』

「そんなところだ。城の者もそうだが、神殿の者たちにユマが白い目で見られていないかと思ってな」

『複数の夫を持つなど、神の教えに反する不道徳な女性だと? ふふ、その点も、彼女は「絶対言われるに決まってる」と覚悟して対策を考えていましたよ』

「対策?」

『竪琴の使い方を教えた時の話なんですが。心ない言葉をぶつけられるような時は、扇を広げる振りをしながら素早く弦を抑えることにする、と。そうすれば言葉がわからなくなって、何を言われても平気だから、と』

「それで、扇をねだったのか……」


 仕事の報酬も求めず、着飾ることも苦手としていた柚真が唯一リドリースとザクラスに求めたのが、実は扇だった。こちらでは高齢の女性しか持ち歩く習慣のないものだ。


『ユマ殿は頑張ってくれています。殿下、彼女との距離をうまくはかって下さいね。彼女の役目もあと少しですから、精神的な負担を負わせたまま元の世界に帰すようなことにならないように』

「わかっている。……そろそろ戻る」

『はい。おやすみなさい』

 ザクラスが弦を抑えると、竪琴は沈黙した。


 居間に戻ると、リドリースはまだ戻っていなかった。

 ザクラスは再び寝室の扉を細く開け、中に滑り込んだ。天蓋から降りる布をよけると、柚真は先ほどと同じ姿勢でぐっすりと眠っている。

 ザクラスはチョーカーを元の位置に戻した。そして、寝台の脇にゆっくりと屈みこんだ。

 彼はしばらく柚真の顔を見つめていたが、やがてそっと頬を撫でるようにして髪をよけ、ささやいた。

「今日は、悪かった」



 ザクラスが寝室を出るのと同時に、リドリースが居間に戻ってきた。

「寝室でユマと二人きりは、感心しないな」

 半ば冗談のように言うリドリースに、ザクラスも同様の口調で答える。

「抜け駆けはしませんよ」

 そして、隣の控えの間にいるのがティキアだけであることを確認してから、リドリースにラメルと話した内容を伝える。

「そうか。……お互い、建前しか見せないでいたんだな。そもそも今の状況は、私の秘密を建前で守ることから始まっているわけだが、ユマも建前の裏では深く考えてくれていたのか。……眠っている間だけでも、穏やかにいられるといいが」

 寝室の方へ視線を向けるリドリースに、ザクラスは尋ねる。

「陛下こそ。無理をなさっているのでは」

「大丈夫、ありがとう。私にはこの星紋があったからね。子どもの頃から、いずれ運命と向き合うことになるだろうという予感があった。現在の自分にはなるべくしてなったと思っている。逆に、今ユマという女性と女同士で楽しく過ごしていることの方が、とても意外で……不思議だ」

 リドリースが、わずかに目を伏せる。

 ザクラスはその様子を見て、言った。

「……もし、ユマがこちらに残ったら、何かが変わるでしょうか」

「駄目だ、ザクラス」

 リドリースが真っ直ぐにザクラスを見る。

「私は王の使命を全うし、お前は王家の血を継いでいく。これは、エガルテのために守らなくてはならないことであって、私たちもそれを受け入れている。ユマが帰っても残っても、それは変わらないだろう? 彼女の人生をねじ曲げるようなことをしては駄目だ。私のために……いや」

 ふと、リドリースが何かに気づいたように言葉を切った。

「……ザクラ」

「もしユマが陛下の心の支えになるのなら、と思い、言ってみたまでです。申し訳ありません」

 ザクラスは微笑んだ。

「そろそろ休みましょう。……明日あたりから、ユマと陛下で人前に出る時間を増やしますか? 計画を先へ進めて、ユマを早く帰してやらないと」

「…………」

 リドリースは何も言わず、ただうなずいた。


 控えの間のティキアに声をかけてから、二人は寝室に入った。

「結局、なし崩しに三人で眠ることになっているな。ユマは複雑そうだけれど」

 リドリースが苦笑しながら寝台に近づくと、ザクラスは扉を閉めながら軽くため息をついた。

「なるべくユマより先に起きて、寝台から退散するようにします」

 リドリースが上がった動きで寝台がわずかに揺れ、柚真が寝返りを打って二人の方を向いた。しかし、やはり起きる気配はない。

「おやすみ、ユマ」

 柚真の寝顔にリドリースが微笑みかける。

 ザクラスも寝台に上がり、リドリース越しにちらりと柚真を覗き込んだが、すぐに反対側に身体をひねった。脇の小卓に置かれたランプを消す。


 三人の眠る寝室は、闇に沈んだ。


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