小学五年生の終わり頃、バレンタインの悲喜 その1
暦の上では春を迎え幾日か経った二月の中旬。とはいえ、まだまだ風冷たく、油断すれば雪さえちらちらするような時季。曇り空の下を、怜はランドセルを背負いながら身を縮めるようにして家路を取っていた。かじかむ手はポケットへ、すくめた首は前かがみ。ちょっと先の地面を見ながら急ぎ足。道行く人が見れば、まことに子どもらしくないと思われるかもしれないが、それは怜の知ったことではない。よく世間では、「子どもは風の子」などというスローガンを掲げて、やたらめったら子どもに対して元気の良さを期待する風潮があるが、冗談ではない。百歩譲ってやるとして、風は風でも、春風の子になりたいもんだと怜は思った。
「お帰りー、お兄ちゃん」
玄関のドアを開けて、ようやく学校からの長い旅路も終わり、一息つこうとしたところで、ドタドタという賑やかな音がした。靴を脱いだ怜の前に、一歳年下の小四の妹が両手を広げてにこにこしていた。一見、お帰りのハグをしてくれという風に見えないでもないが、彼女とはそんなホームドラマチックな関係ではない。
「わたしがお兄ちゃんのこと大好きだってこと、今日、伝えたっけ?」
警戒している怜に、外の空気よりなお寒々しい言葉が吹きつけてきた。怜はぞっとした。妹との蜜月は彼女の幼稚園卒業をもって終わりを告げている。仲良しこよし期間にはピリオドが打たれ、後に残ったのは終わりの見えない倦怠期であって、できるだけ早く別れたいもんだと、双方が切望している関係なのだ。怜は一歳年上の誇りから、好意は日々ひしひしと感じているので、
「伝えてもらう必要はない」
冷静に言って、立ちはだかる妹の横をすり抜けようとした。その瞬間、
「お兄ちゃんもわたしのこと好きでしょ」
怜は、恐ろしい力でランドセルが固定されて、身動きが取れなくなった。
「それでさ、好意を行動で示してもらいたいの」
妹が兄のランドセルにがしっと、しがみつきながら言う。
無茶を言いやがる、と怜は思った。無いものをどうやって示せと言うのか。
妹は兄からランドセルをひっぺがすと、身軽になった怜に、メモ用紙を押しつけてきた。
「好きということは相手の幸せを願うことなんだって。そうして、妹の幸せを願うなら、そこに書いてあるものを買って来て」
「オレが?」
「他に誰が? わたしのお兄ちゃんはお兄ちゃんだけでしょ」
それは大分前から知っていることだった。そしてさして知りたくもない事実でもある。
チョコレート。
無塩バター。
ココアパウダー。
オレンジピール。
…………。
メモ用紙に書かれてあるものに目を落としていると、怜の顔の前にちっちゃながま口が突き出された。
「ちょっと材料足りなくなっちゃってさ」
「何作ってるんだよ?」
妹のばちっとした瞳に憐みの色が浮かんだのを怜は見た。妹は、話にならないと言わんばかりの顔で首を振ると、今日が二月十三日であるということだけ教えてくれた。それで分からなければ分からなくてもいいらしい。
「とにかく行って! ハレの日に学校で妹が恥かいてもいいの?」
別に構わない。そう返す間もなく怜は、有無を言わさぬ勢いで玄関から蹴り出された。折角たどりついた安息の地から再び荒野へ踏み出さなければならない少年に、ひゅるりひゅるりと寒風が吹きつけてくる。なるほどバレンタインデーかと気がついた怜は、誰でもいいから妹のチョコを受け取って、早く自分の代わりになってくれないものかと心の底から願いつつ重い足取りを引きずって歩き出した。
十五分ほど寒空の下を歩き近所のスーパーの自動ドアを跨いだところで怜はほっと息をついた。中に入ると自然の猛威が完全にシャットアウトされ空調は行き届いている。人工空間、万歳である。流行りの曲が流れる中、お目当ての売り場を探すと、すぐに見つかった。明日にバレンタインを控えたチョコレート売り場の一角はやたらときらびやかになっていて、まるでアイメイクだけバッチリきめた中学生女子の目もとのように他から浮いていた。
「どれにするー?」
「わたし、コレ」
「えっ、そんな高いのにするの?」
「フフ、付き合ってもらえればお釣りがくる」
売り場には高校生くらいの女の子が数人おり、純情な男心をたぶらかさんと邪悪な計画を練っていた。怜はきゃいきゃいと楽しげな彼女らを横目にして、チョコレートの材料コーナーへ向かった。怜がメモを片手にして、床に置いた買い物かごに、頼まれたものを入れていると、
「お兄ちゃん、コレ買って」
今最も聞きたくないワードが聞こえてきてどきりとした。もちろん自分のことが言われたわけではない。売り場の中でも、ひときわ豪奢なチョコレートたちが燦然と光を放っている棚の前に、妹と同じくらいの年の少女とその兄らしき少年が立っている。怜は首を捻った。少年の方にはどこか見覚えがあって、もしかしたら同じ小学校かもしれなかった。はっきり覚えていないのは、怜が人の顔と名前を覚えるのが大の苦手だからである。
「オレの記憶に間違いがなければ、バレンタインっていうのは女が男にチョコをあげる日だろう」
少年が言った。
それは怜の記憶にも合致した。
「やだなあ、お兄ちゃん。何にも知らないんだから。欧米では逆なのよ。男の子が女の子にあげるんだから」
「ここは日本だろ」
いっそ外国なら良かったのにと怜は思った。妹の手先になることもなく、今頃はおコタでみかんを楽しめていたものを。
「本場にならおうよ。それにさ、お兄ちゃんがお小遣い溜めてるの知ってるんだからね。アレ、どーする気? 庭付き一戸建てでも買うつもり?」
「チョコを買うよりは有意義だろ」
少年は高級そうなチョコを手に取ると、うさんくさそうなものでも見るかのような目つきをした。
少女は垂涎の態である。
「チョコじゃないよー。妹の心を買うんだよ」
「随分と安い心だな」
「安いなら買ってくれるよね、ソレ!」
「クルミ。可愛い妹にこんな『ゴディバ』なんていうゴツイ名前のヤツは買えない。お前には似合わない。こっちにしよう。ほら、童話にでも出てきそうな名前だろ」
そう言うと少年は、バレンタイン特集の棚に背を向けて、近くにあった子ども向け菓子の棚へと向かった。そこに置いてある小さめのチョコをいくつか手に取る。「チロル」というのがそのチョコの名であった。なるほど確かに愛らしい。
瞬間、少女は泣き出した。手に顔を埋めてしゃくりあげるようにする。
怜は心の中でふうと息をついた。
というのも、彼女の兄の少年が、妹のいかにも見え透いた泣き真似に乗せられた風で高級チョコを改めて手にしたからである。それからのことはとてもとても見るに忍びなかった。
怜は再びメモに書かれてある名前と、目前の棚にある材料の名を突き合わせ始めた。しばらくして全部集め終えた怜は、買い物カゴを手に持つと、その中身に向かってしばし哀悼の意を表した。ちゃんとした人に使われればどんな男性もゲットできる無敵のアイテムに変身できるものを、妹に使われたら毒物にしかなれないのが哀れである。
レジで精算するときに、うら若い店員の女性にカゴの品物を見られちょっと恥ずかしくなった怜は、買ったものを袋詰めするカウンターにカゴを置くと手早くビニール袋に詰め込み始めた。それが半ば過ぎたときのことである。不意に隣から名前を呼ばれて、怜はどきりとした。声がした方に顔を向けると、もう一度ドキッと胸が鳴ったが、一度目とは違ってその音はかろやかに怜の全身に響いた。
春を告げる梅花のように愛らしい――
詩心の持ち合わせに一抹の不安を覚える怜が、しかし思わずそういう形容をしたくなるような少女である。同じくらいの年だろうか。先ほど妹の計略に自ら落ちた少年と同じく、どこかで見た顔であるがはっきりと覚えていなかった。
少女のつややかな瞳に笑みが浮かんだ。
「こんにちは。加藤怜くん。五年二組の川名です。名前は環。もしどっちかしか覚えられないなら、名前の方でお願いします」
怜はほっとした。彼は三組である。少なくともクラスメートではなかったわけだ。
「今覚えたよ、川名」
「ひどいな。この前、委員会活動で一緒になったのにさ」
「悪い。でも、他の委員の名前も覚えてないからさ」
「それで許せって?」
「いや別に許しを請うつもりはないね。自分にとって本当に大事な人だったら嫌でも名前を覚えてるだろうからな」
「あら、聞いてみたいな。どなたの名前を覚えてるのか」
「家族と親戚くらいのもんだよ。でも、この頃なぜか妹の名前を忘れそうになる」
環はくすくすと笑ったあと、怜のカゴに視線を向けた。
「お菓子作りが趣味なら今度ご一緒しませんか? わたし、クッキーが得意なの」
「趣味じゃないよ。明日はバレンタインデーだろ。誰からも貰えそうにないから自分で作ろうかと思って」
環は微笑みを収めた。
「……あの、それ本当?」
怜は天を仰ぐ振りをした。
「そんなわけないだろ。自分で自分にプレゼントを作るヤツがどこの世界にいるんだよ。妹に頼まれて買いに来ただけだよ」
「あ、そうじゃなくて、誰からも貰えないって」
「それは本当」
見栄を張っても仕方ないし、別にチョコなど欲しくもないしで、怜は素直にうなずいた。
「じゃあ、去年とかも?」
「ああ」
「その前は?」
「ないよ」
さして面白くもない話題にどこまで突っ込むつもりなんだろうかと怜は思いつつも、少女の目は冗談をやっている風でもなかった。
「生まれてからこの方他人からチョコを貰ったことはないね」
ついでに言うと身内からももらっていない。母はチョコ代を惜しんでおり、妹はくれるにはくれるが、彼女が寄こすのはチョコというよりはチョコの形をした何か別のモノである。
環は少しためらいを見せたあと、
「じゃあ、貰いたい人とかいたりして?」
分からないことを言い出して怜を困惑させた上、
「もしいなかったら、わたしのチョコを貰ってくれる?」
と継いで怜の混乱に拍車をかけた。