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大学二年生のクリスマス、駅前の奇跡 下

 香ばしい匂いがして、二人の前に、鉄板に乗せられたハンバーグセットが現れた。

 肉汁がジューシーで美味である。

 怜が舌鼓を打っていると、向かいで環がハンバーグを切り分けながら言った。

「さっき父から電話があったんだけど、レイくんが明日のパーティに本当に来るのかどうか念を押すのよ。よっぽど来てほしいみたい」

 二人はこれから郷里にクリスマス帰省をする予定だった。怜は、明日のイブのパーティに彼女の家にお呼ばれしていた。

「それはありがたいけど、お前のお父さんの前だとどうしても緊張するんだよな。初対面のときがどうもな」

「いつ父に会ったか覚えてるの?」

 忘れもしない中三の夏である。

 カノジョの父親に紹介してもらえる運びになって勇んで向かったわけだが、ほとんど歓迎されなかったことを良く覚えている。環は三人姉妹の長女であって、父からしてみれば、娘が初めてカレシを連れて来たわけであろうから、それに対するに仰々しくなるのは仕方なかったのかもしれない、と今はそう思えるし、それから何度か会う機会があって悪い人では無いと理性では分かっているのだが、最初の印象が尾を引いて、本能が彼女の父を避けるのだった。

「へえ、父に初めて会ったときのことは覚えてるのね。わたしと初めて会ったのがいつかは覚えていないのに」

 環の声に非難の色がある。

 どうやら藪に手を突っ込んでしまったようだ。しかし、怜は慌てなかった。なにせ彼女との間には、藪はそこいら中にあるのだ。いちいちびっくりしてはいられない。

「公平じゃないわ。父に初めて会ったときのことは覚えてるのに、わたしに初めて会った時のことを覚えていないなんて。差別!」

 彼女はしばしばこの話題を持ち出す。

 初めて環に会ったのがいつなのか、怜は覚えていなかった。初めて会ったときに電撃的に恋に落ちたりしたのであれば格別、そういうわけでもなかったのだから、やむを得ないことだろう。

「それでも覚えてるべきです」

「じゃあ、教えてくれ。教えてくれたら思い出すかもしれない」

「教えません。だって、この思い出はわたしのだもの」

「共有したっていいだろ」

「これはいくらレイくんでもダメ……でも、そうだな、ずっとずうっとしたら気が変わるかもね」

「じゃ、それまで待つか」

「……結構かかるんじゃないかな。一年、二年じゃきかないかもよ」

「その十倍でも百倍でも待つよ」

 怜ははっきりと言った。そうして満足した。環の星を湛えた瞳が驚きを含んだのが分かったからだ。怜が笑みを見せると、環は慌てて紙ナプキンで口元を拭い、取りすました顔を繕った。

「そうなんだ。でも、ただ待ってるだけじゃだめよ。まめにカノジョにメールしたりとか、まめに本を贈ったりとか、まめにカノジョを月や太陽に例えたりとかしてくれないと」

 そんなことをまめにできるかどうか自信が無かったが、自信が無くともやらなければいけないことがある。怜はうなずいた。

「まだあったわ。まめにランチをご馳走してね」

 ランチタイムは終わった。彼女が化粧を直している間に怜は会計を済ませた。

 外に出ると空が低かった。見渡す限りの曇天である。新幹線の発車時刻までまだ多少の時間が残されていた。腕時計を確認した怜は、このスキマ時間に、女の子得意の小物アクセサリーツアーに付き合わされることになりそうだと内心辟易した。

 歩き出して店から数歩離れたところでふと立ち止まる怜。隣にあるべき姿がない。怜は、いまだカフェの前で所在無げに佇んでいる少女の所に戻ると、手を差し伸べた。

「一人きりでどこに行くつもりだったの?」

 ぐっと強い目で見られて、怜は不作法を詫びた。「悪かったよ」

「常に、右手にわたしの左手があるか確認してください」

「常に?」

「そうです。今日みたいにやましいことがあるときだけじゃなくてね」

「その必要はあんまり無いと思う」

 えっと見開いた彼女の目に、怜は微笑みかけた。

「オレの右手がお前の左手を握ることはそうは無いから。逆はあってもな」

 そう言うと、怜は左手で彼女の右手を取った。

 環は首を傾げた。「左か右かってそんなに大事な問題ですか?」

「問題だね。お前がオレの右側にいたら、いつ車道に飛び出すんじゃないかと思って気が気じゃない」

 そう言って、怜は彼女の手を引いて歩き出した。

 少し歩いたあと、環は立ち止まって、怜とつないだ手にもう一つの手を重ねた。

「ねえ、レイくん」

「ん?」

「神を感じるときってある?」

「神?」

「祈りを捧げたくなるときよ」

 環は唐突なことを言ったが、どんなに突然のことを言われても彼女の言葉なら対応できてしまう、そんな自分をどう考えればよいか怜は分からなかったが、

「祈りか、結構あるな。カノジョがあんまり無茶を言いませんようにってね」

 冗談をやると、

「そういうんじゃなくて」

 真面目な声を聞いたので、怜も「あるよ」と真面目に答えた。

「どんなとき?」

 環がまっすぐに向けて来る視線を、怜は受け止めて、

「これを言うと、絶対にお前が調子に乗るからあんまり言いたくないんだけど――」

 と前置きしてから、

「いや、やっぱりやめた」

 言うと、環は微笑した。そうして、口をつぐむ怜の代わりに唇を開いた。

「世界がとても美しく見えるとき、ああ、これは人の手が作ったものじゃないんだって思えて、そういう風に思える自分がね、今ここにいるっていうことにふと祈りたくなるのよ。そういうときってある?」

 その問いに、怜は自分の手の中にある彼女の手を少し力を込めて握ることで、答えとしておいた。

 環は目だけで笑うと、怜にすっと身を寄せた。少々寄せられすぎたようで、ちょっと歩きにくくなった怜は一応注意をしてみたが、彼女は当然のごとくそれを無視した。

 アクセサリーショップで暇をつぶしてから、そろそろ駅に向かおうとしたときのことである。ぐっと冷気が増したような気がして、次の瞬間、目の前にひらりひらひら舞い降りる天のかけら、周囲から小さく感嘆の声が上がった。

「奇跡ってのは起こるもんだな」

 手の平を広げて雪片を受けた怜は呆れたように言った。自分で願ったことながら、まさか本当に降るとは思っていなかった。人生に何度起こるかしれない奇跡を一つ無駄に使ってしまったような気がした。

 ハア、という吐息が隣から聞こえてきた。それは歓喜を表現しているにしてはいかにも重たげだった。

 怜もため息をついた。

「何が欲しかったんだよ?」

 環は怜の方を見ずに首を横に振った。

「いいから、言えって」

「いい、言わない」

「らしくない」

「だって雪を降らせてくれたんだもの。もう十分よ」

 それにしては全く満足げな様子ではない。怜がなおも追及すると、不意に環はこちらを向いて、目をつぶり、心もち顎先を上げた。怜は心の中でゆっくり三つ数えたが、なおも彼女は目を開けようとはしなかった。

「なんでそーなる」

 怜はうめき声を上げた。何かがおかしい。なにゆえ彼女の願いを聞き出すために、彼女の要求を呑まなければいけないのか。このねじれた構造がいつか解析されるときがあるのか。いつか彼女のことが分かる日が来るのか。どうにも可能性は薄そうに思えたが、希望は持ち続けたい。

 怜は軽く辺りを見回すと、そっと少女の頬に口づけた。寒風に吹かれた彼女の頬は、しかし滑らかだった。さいわい周囲は舞い降りる雪に見とれているようで、こちらを気にするような目は無かった。なかったと思いたい。

 環はまだ瞳を閉じたままで、あろうことか人さし指で自分の唇にちょんちょんと触れた。怜はいい加減にしろという意を込めて、今しがた唇をつけた彼女の頬を軽くつねった。目を開いた環は一瞬不満そうに唇をとがらせたが、怜としては精一杯譲歩したつもりである。これ以上は無い。

「父に会って欲しかったの」

 歩き出しながら環が言った。

「分からないこと言うなよ。明日会うって言ってるだろ」

「会うだけじゃなくてね、そのときに父に言って欲しいことがあるんです」

「自分の口から言えよ。なんでオレを通す」

「だって、わたしが言うとカッコ悪いもの。レイくんの方がうまくできる」

 何だか嫌な予感がした。

 そのあと続けられた父親への伝言内容とやらを聞いて怜は愕然とした。予感的中。聞かなければ良かった。なるほど彼女が言い淀むのも納得である。

「わたしの大学とレイくんの大学、そんなに離れてないからどっちがどっちにしてもいいし。今住んでる所がお互いあともう少しで契約切れるでしょ。だから、新しく探してもいいわ」

「おい、事務的な話に持ってくなよ。そんなのお父さんにどうやって許しを請うんだよ?」

「がんばる」

「……お前、まさか、もう根回し済みなのか?」

「母にだけはね。父はあなたに任せます」

「カレシにかっこつけさせてくれるってわけか、泣けてくるな」

「いつでも胸を貸しますよ」

「お父さんに殴られる」

「大丈夫。わたしが二人の間に割って入るから」

「……いや、それはいいよ。かっこつけさせてくれるんだろ。一発なぐられてみるさ」

「いいの?」

「仕方ないだろ」

「そっちじゃなくて」

 環は目を伏せていた。

 改めて訊かれると不思議である。彼女の提案を考えもせず早々に受け入れてしまっている自分がいて、しかも、

「まあ、一緒にいた方が早く分かるかもしれないしな」

 そんな自分への言い訳さえ考えていたのだから。

 何のこと、ときょとんとした目を向けてくる環に、怜はこっちのことだと返した。

 彼女の根底にぜんたい何があるのか。もう一度天に祈れば分かるだろうか。怜は小さく首を振った。奇跡をもう一つ望むのはさすがに気が引ける。それにこの謎は自分で解いてみたかった。厄介極まりないことだが、少なくとも退屈はしなさそうだ。

「何を考えてるの?」

「変なヤツだと思ってたんだよ」

「わたしのこと?」

「いや、自分自身のこと」

「あら、今頃気がついたの? レイくんは大分変わってるよ」

「人のこと言えるのか? 変なヤツに付き合えるヤツだって変なんだぞ」

「わたしも変なのかな?」

「だと思うね」

「だったら、変でもいいわ。だって、レイくんは、そんなわたしのコトが好きなんでしょ?」

 環は自信たっぷりに微笑んだ。

 怜は何とも答えようがなく思わず天を仰ぐ。

 振り仰いだ空は、美しい白一色だった。


   (『大学二年生のクリスマス、駅前の奇跡』了)

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