大学二年生のクリスマス、駅前の奇跡 上
街路を彩った霜葉が冬の風にさらわれて寂しさを増す頃になると、街は装いを新たにする。赤や黄の落ち葉の代わりに色とりどりに明滅するイルミネーション、晩秋の風の音に代わって流れる楽しげなメロディ。メランコリックに面を伏せていた若者たちがこぞって笑顔になり始める。
クリスマスの季節。
怜はコートの襟を合わせるようにした。街のお祭り気分も彼の寒がりをゆるめてくれるようなことはない。お昼近くの駅前広場には華やかな喧騒が満ちていた。若いカップルたちが、クリスマスイブを明日に控えて、前哨戦を行っているのである。かく言う怜もそのうちの一組だった。いや、より正確に言えば、そうなっているはずだった。十五分前に、待ち人が時間通りに来てくれていれば。
「わたしを待つあなたにちょっと見とれてたのよ。かわいらしい乙女心のなせるわざです」
耳によみがえる恋人の声。この前の遅刻の理由。怜は、バカバカしいとは思ったが、念には念を入れて、周囲を見回してみた。当然のことではあったが、街路灯や立ち木の陰からこちらを一心に見つめる怪しげな少女の姿など、どこにもなかった。
その彼女とは付き合ってもうすぐ六年になる。中学の同級生として付き合い始めて、大学生になった今まで付き合いがずっと続いている。これを人に話す機会があると、反応は二つに分かれる。純情を褒められるか、それとも呆れられるか。前者は後者をオブラートに包んだものであるので、どっちもあまり変わらない。
「六年も一緒にいてよく飽きないよなあ」
彼らが言いたいことはそういうことだろう。
一人の人間と付き合うのに六年という期間が長いかどうか怜には分からないが、少なくとも飽きるということはなかった。飽きるどころか、彼女のことは良く分からない。彼女が何を考えているのか。どういう行動指針を持っているのか、六年付き合ってもさっぱりだった。怜にとって彼女ほど複雑怪奇なものはこの世にない。
「どんなに複雑に見えるものでもね、必ずその発生は単純なものよ。わたしはすごく単純な女です。ただ一つの原理で動いているんだもの」
と彼女は言う。それは謙遜だと思いたい。でないと、そんな単純なことにいつまでも気がつかない怜はよっぽどアホな男ということになってしまう。
とんとん、と軽く肩を叩かれて、怜は振り向いた。
目前に、一人の女の子の姿がある。
彼女を見た瞬間に、怜の体の中のどこかで綺麗な音がした。
首周りにふわふわとした毛のついた青いファーコート。コートには星や花をモチーフにした刺繍がいれられており、それを身にまとった少女に幻想的な雰囲気を与えていた。二十歳くらいの年の彼女は、まるで永遠の冬の国から人間世界に迷い込んだ妖精のように可憐だった。
「お兄さん、一緒にお茶しませんか?」
桜色の唇から白い息がのぼる。
怜は微笑みながら、首を横にした。
「悪いけど人を待ってるんだ」
「恋人ですか?」
「そのようなもの」
「その人が来るまででもいいわ」
「キミみたいな可愛い子と一緒にいるところを見られたらあとが怖い」
「その人のこと好きなんですか?」
「どうかな。だとは思うけど、時々いらいらすることがある」
「あら、たとえばどんなとき?」
「待ち合わせに遅れてきて、謝りもせず、唐突にゲームを始めるときとかかな」
「女の子は色々大変なんですよ。カレシにいつも綺麗だと思ってもらいたくてその準備に時間がかかるんです。だから遅れるんじゃないかな」
「何もしなくたって綺麗だと思うんだけどな」
「それ、カノジョさんに言ってます?」
「言わなくても、分かってくれてると思う」
「どうだろう。疑わしいと思うよ。ううん、多分分からないんじゃないかな。いつもじゃなくてもいい、でも、せめて一年に一回くらいは言葉にした方がいいよ。ちょうど聖なる日も近いし。最高のクリスマスプレゼントになるんじゃないかな」
そう言うと、少女は笑いながら、「ごめんね、待った?」と訊いて来た。
「いや、今来たところだよ」
答える怜は、自分で自分の顔色が改まるのが分かる気がした。最後の彼女の言葉で思い出したことがあったのである。思い出して良かったという気持ちと、思い出さない方がひょっとして良かったのかもしれない、という微妙な心もちになることを思い出した。
内心を外にあらわさないように素知らぬ風を装って答えたわけだが、じいっとこちらを見る少女の目に疑いの色が濃い。怜はついと目を逸らすと、
「再会のあいさつはもういいだろ、タマキ。じゃあ行こう。あんまり時間も無いしな」
できる限り平板な声を出した。
少女は腕を組んで試すように怜を見ていた。
彼女こそ誰あろう、怜の自慢の恋人だった。誇りたい所は色々とあるが、
「まだ新幹線の時刻まで三時間もあるわ。何を急いでるの?」
勘の良さは折り紙つきである。
怜は無駄だと知りつつもあらがってみた。運命にあらがうところに人間の尊厳がある。
「三時間しかないんだよ。三時間なんてさ、何か食べて、食べたあとにお前が化粧を直してたらすぐだろ」
そう言って差し出した手を、環はなかなか取ろうとしなかった。さもありなん。普段は自分から人前でカノジョの手を取ろうとなどしない恥ずかしがり屋さんのカレシが突然積極的になったのだ。怪しんで当然である。
怜は構わずに彼女の白い手を取ると、歩き出した。駅前広場を出ようとしている一組のカップルのあとに続いてみる。なお怪訝な面持ちで隣を歩くカノジョに、
「しばらく会わないうちにキミはまた綺麗になった」
できるだけ声に実感を込めて言った。
「一週間前に会ったばかりですけど」
「じゃあ、この一週間で更にキレイになったんだな」
怜は足を止められた。
つないだ手の相手が足を止めていたのだ。
「ねえ、レイくん。正直に答えてもらいたいんだけど」
固い声で前置きする環に、彼女に嘘をついたことは一度も無い、と厳かに告げる怜。
「誰か好きな人ができたのね?」
「何だって?」
「男の子が優しくなるときは浮気してるときだっていうもっぱらのウワサよ」
そう言って誤魔化しは許さない、と言わんばかりの厳然とした目をする少女に向かって、怜は覚悟を決めた。浮気者の汚名を着せられてはたまらない。
「タマキ、どうか心穏やかに聞いてもらいたいんだが」
慎重な出だしから、
「努力はします」
との答えを得て、怜はすっと息を吸うと、
「まだプレゼントを買ってない」
勇気を吐き出した。
つないでいる彼女の手から思いが伝わってくるようであった。怜の考えるところ、それはあんまり良い感情ではなさそうだ。なにせ、握られた手がギュウと締め付けられている。そうして、まるで痛みに耐えるかのように彼女の目が閉じられていた。怜は嫌な予感がした。イブ前の差し迫った時にクリスマスプレゼントを買い忘れている男。思いきり非難すれば良いのに、なぜ彼女は我慢などしているのか。
「……ユキ」
答えはすぐに分かった。
「雪がいいわ」
目を閉じたまま彼女が言う。
何を言っているのかさっぱりの怜に、
「雪を降らせてくれたら許してあげる」
開いた瞳に笑みを乗せる環。
どうやら許してくれる気はないようだ、と怜は悟った。見上げた空には雲がかかっているものの、晴れ間が見えていて、ちょっと雪が降りそうな景色ではない。
「『降らせて』って言ったのよ」
「なるほど」
怜は雨乞いよろしく天に雪を乞うた。
心の中で祈りなど捧げてみる。
天上にまします恋の女神よ、恋人にいつも翻弄されている我を憐れみたまえ。
「……もし降らなかったら?」
怜が訊くと、
「そのときは雪に見合う別のものをいただきます」
そう答えて綺麗な笑みを見せられた。雪と同等のものとは? 街中の恋人たちのロマンチックムードにひとはな添えるものと同程度のものとは一体なんだろうか。想像したくもないことだった。
怜はもう一度祈りを捧げると、環の手を取りつつ、駅前広場を抜けて他の無数のカップルの群れに交じり、商店街へと歩いて行った。軽食を取るため入ったカフェが人いきれでむわっとしている。混雑した店内で空いているのは、あいにく窓際の席のみだった。彼女がコートを脱ぐのを手伝うと、背の中ほどまで伸びた黒髪に室内の光が跳ねた。
「もうショートにはしないのか?」
怜が華奢な背に声をかけると、
「短い方が好み?」
席についた環が軽く畳んだコートを隣の椅子に置いた。
別に好みというわけではなかったが、中学、高校の間、彼女はずっとショートボブにしていたので、たまにちょっと違和感を感じるのである。
「失恋したらバッサリと切ろうかなって思ってる」
「誰かに恋をしてるなんて初耳だな」
「そうでしょうとも」
怜が向かいに座ると、ウエイトレスが床をスキップして注文を取りにきた。勧められるままにクリスマス期間特別仕様のランチを頼むと、ウエイトレスを帰してから、怜は呆れたような声を出した。
「どこもかしこもクリスマス一色だな。クリスマスが特別な日だっていうなら、クリスマスじゃない日だって特別だと思うけど」
クリスマスでもそうでない日でも同じ一日である。どちらも同じように貴いのでなければウソだろう。
「でも、そう思う為にこそ特別な日があった方がいいんじゃない?」
「そうか? ちょっと鈍いような気もするけど」
環は少し身を乗り出して、
「カノジョへのプレゼントを忘れてる人に言えることですか?」
テーブル越しに辛辣なことを言った。
怜は切り返すことにした。そうそう言われっぱなしでもいられない。逆に、カレシへのプレゼントは用意しているのか尋ねてみると、
「わたし自身じゃ足りませんか?」
平然とそんな言葉が返ってきた。
「じゃあなんで逆はダメなんだよ。不公平だろ」
「女は欲張りな生き物ですから」
「自分ひとりの話を一般化するなよ」
「その人にとって女は自分ひとりなんだって思い込むのも女なんだよ」
澄ました顔で言う環。
強い風が窓を打ったようだ。窓ガラスがかたかたと抗議の声を上げた。