中学二年生の季秋、遊園地のドタバタ その6
矢島くんは駆けて来た風である。
「ちょっと話があるんだけど」
環に言う。
これが他の人であれば、怜はもちろん遠慮してすぐにその場を立ち去るところだったが、どうにもこの矢島くんと環を二人きりにしたいとは思わなかった。
「佐藤はいてくれていい」
矢島くんがそんなことを言ったので、怜は内心で首をひねりつつも、ホッとする気持ちがあったが、隣の環が、何でしょうか、と話を促すと、
「おれさ、川名のことが好きなんだ。おれと付き合ってくれないかな」
矢島はいきなり告白したので、怜は絶句した。
――なんだ、コレは……。
いてもいいと言われたので、自分がいても差し支えないことなのかと怜は思ったが、バリバリのプライベートである。どいつもこいつも私的なことをどうして公で行おうとするのか。精神の露出狂と言うべし。
彼女の方を見ているわけではないが、隣の少女が動じた風でもないことが怜には分かっていた。どうして分かるのかと訊かれてもそれは分からない。
環は、少し間を取るようにした。矢島くんにまだ何か言いたいことがあるなら、言わせようと思っているように。そのあと、
「ごめんなさい」
環が軽く頭を下げる。
「矢島くんとはお付き合いできません」
上げた顔をまっすぐに矢島くんに向けた。
「好きなやついるの?」
諦めきれない様子の彼に、
「はい」
と返す環の声は澄んでいる。
それは告白を断る方便ではなく、本当にそうなのだろう、と怜は思った。伝えられた好意に対して、誤魔化しを行うような子ではない。
「でも、おれずっと好きだったんだよ、川名のこと」
矢島くんが半歩前に出るようにして悲痛な声を上げる。
それがどうしたんだよ、と怜は思ったが、もちろん自分の出る幕ではない。幕でもないのになぜここにいるのかと問えば、矢島自身が望んだことである。是非もない。
「ありがとう、でも、ごめ――」
「せめて少し考えてくれないかな?」
環の声を遮るようにして、矢島が言う。
何とかして希望をつなごうとする彼の気持ちの正確なところは怜には分からない。同じ立場に立ってみないとその立場の人間の気持ちは分からない。分からないことの前では、さっき環に言われた通り、謙虚でなくてはならない。そうして、謙虚な気持ちで考えた怜だったが、
――聞き苦しい。
という結論にしか達しなかった。
投げかけられた気持ちに対して、環は誠心で対応した。その気持ちは受け取れない、と断っている。それに対して重ねて気持ちを投げるということは、相手を無視した独りよがりの行為である。そういう行為は、行為者の価値を押し下げて、さらにはそういう人間の告白を受けた相手の価値をも押し下げることだろう。
「わたしにもずっと好きな人がいます。だから、考えることはありません」
環はあくまで静かであるが、断固とした意志を感じさせる声で言った。
矢島くんの顔が見る見るうちに歪むようになった。舌打ちをして、
「お前さあ、自分がちょっと可愛いからって調子に乗ってんじゃねえの?」
汚い声を出した。
見事な変貌ぶりである。
そう言われてもどう返すこともできない、というか、おそらくはもう一言も交わす気もなくなったのだろう、環が黙っていると、
「好きなやつって誰だよ?」
訊いても詮無いことを訊いて、矢島くんが迫る。
その瞬間、怜は、今日の集まりに参加した意味を唐突に悟った。まさにこのために今日ロクでもないパーティに参加したのであることが分かったのだ。そうして、ここに確かに太一の意志を感じた。太一が自分と環を今回のグループデートに参加させた真の狙いはこの件だったのであると。
怜は、環と矢島くんの間に割って入るようにすると、
「もういいだろ」
言った。
矢島はエネルギーのはけ口を見つけたかのように嬉々とすると、
「お前には関係ないだろ。ほっとけよ」
と返してくる。
関係ない人間を留め置いたのは彼自身であろうが、それは多分、太一の指示である。
「川名に告白するときはレイの前でしろよ」
と、それに対してどんな理由付けをしたかは分からないが、そう指図したのだろう。
つまり、太一は、今日二人の少年の恋路を実らせようと画策したのだった。そうして、一方はともかくとしても、もう一方は難しいということが分かって、そのもう一方の処理を怜に任せようとしたのである。呆れかえる男だった。もはや笑うしかない。
こちらの言葉を待つ矢島に、
「関係はあるね。オレも川名のことが好きだから」
怜としては、二人の間に立つことについて、そう言うほかないところである。
「お前が?」
信じられないというよりは、せせら笑うような格好で、矢島が言った。
「悪いか?」
「悪いね、お前みたいなやつが」
「そういうお前はどんな大した人間なんだよ。電車内で騒ぐことくらいしか能が無いくせに」
「……何だと」
矢島が睨むような目をする。
環が後ろから割って入ろうとする気配を感じた怜は後ろ手にそれを制した。
「とにかくもうお前は断られてるんだ。諦めろ」
はっきりと言ってやると、憎々しげな視線が返される。
「レイくん」
怜は後ろから肩が叩かれるのを感じた。
「今はオレが話してる」
怜は素っ気なく言ってから、前方に向かって、
「それで? お前がいなくなってくれたらオレが川名に告白するつもりなんだけど。オレはお前と違って、自分の告白を他人に聞かせる気は無いよ」
続けると、矢島くんはいっそう憎しみを深くした濁った眼をしたが、地面にぺっと唾を吐いたあと、荒々しく踵を返した。
「矢島くん」
立ち去ろうとする気配の彼に、怜の陰から現れた環が、声をかけた。
その声に振り向いた矢島くんに、
「わたしはその人のことがずっと好きなの。矢島くんがわたしのことを好きになってくれたときよりずっとずっとずっとずっと前から好きなんです。だから、ごめんね。矢島くんの気持ちは嬉しいんですけど、でも、お返しします」
与えた環の声に熱がこもっている。
その情熱の炎が、矢島くんの鬱屈した気持ちを浄化したようだった。
「…………分かったよ、じゃあな」
瞳を平静な色に戻すと、矢島くんは去っていった。
その背がすっかりと見えなくなってから、怜は環の方を向いた。
環は微笑んでいたが、その微笑に影がある。
矢島くんに疲労を覚えたのか、それとも、自分で処理できるのに横からしゃしゃり出て来た男にげんなりしたのか。おそらく、両方だろう。
「ありがとう、レイくん」
げんなりしていてもなお礼儀を通すことができるのが、環という少女である。
「歩けるか?」
「難しそうって言ったら?」
「どこかで休むか、人目が気にならないなら背負ってもいいけど」
環は、ふふ、と笑って、瞳に楽しそうな色を与えると、大丈夫です、と言って歩き出した。
怜は、環の隣に来ると、その手を取った。
環が問いかけるような目である。その問いに、
「これでもまだタイチと付き合うべきだと思うか?」
答えずに、怜が別件を持ち出すと、
「それはレイくんにお任せします。でも、矢島くんのことは全然分かりませんでした」
環が答える。
とすると、太一は環をも出し抜いたことになる。
大したやつだ、と怜は思った。もちろん、皮肉である。
環は少し視線を下げるようにすると、何かを考えているかのような風であり、ただ手は放さなかった。
環がずっとずっと想いを寄せている人というのはどんな人だろうか、と怜は思った。彼女が好意を持つ人であれば相応の人だろう。その想いが叶うように願うべきか、怜には分からなかった。
西の空が藍色に染まりつつある。
風は止まっていて、黄や赤に色づいた木の葉がそよとも揺れない。
晩秋の一日が暮れなずむ中を、怜は環の手を引いて、このまま彼女の手を引いていれば、時でさえ超えられるのではないかと、そんな妙なことを考えた。
これまでに何度か送っていったことがあるので、環の家は分かっている。
家に着くまで、環は思いの中に沈んでいるようで、一言も口を開かなかった。それはいつもの沈黙とは違う気がして、
「レイくん」
怜の予想は当たっているようだった。
洋風の瀟洒な二階建ての門前で、環は、怜の手を放した。
「取り消して欲しいの」
そう言うと、その言葉を発するために多くのエネルギーを使ったかのように、ふう、と大きく息をついた。
「何を?」
「さっき、わたしのこと好きだって言ったでしょう。その『好き』っていう言葉です」
環の澄んだ瞳に自分が映っているのを見た怜は、分かった、と答えた。それ以外に答えようが無い。さっきの「好き」は、怜としては方便として言った言葉に過ぎなかったが、環からしてみれば不快だったのだろう。
「取り消すよ」
環は目をつぶるようにすると、少しして開いて、
「今日はありがとう」
明るい声を出した。
「ありがとうって、オレは何もしてないけど」
「ううん、してくれたよ」
「何を?」
環は、ひらひら、と手を振った。
「病人の介護か」
怜が笑って言うと、
「確かに、病気かもしれません」
と答えた声が冗談という風でもないので、怜が眉をひそめると、
「一生治らないかもしれない病気にかかっているんです」
環の口元から、不治の病にかかっているにしてはむやみと綺麗な微笑がこぼれた。
「なるほど、恋の病か」
「はい」
「川名はいつ、その子に想いを告げるんだ?」
環は、ふるふると首を横に振った。
「分かりません」
そうして、
「告げられるかどうかも分からないの」
と続ける。
「川名にも分からないことがあるのか」
「この件に関しては分からないことだらけです。でも、それがわたしにはとても楽しいの。楽しい分だけ、とても苦しくもあるんだけれど。レイくんにはそういうことある?」
「女の子を好きになったことがないからな」
「その予定はありそうですか?」
「どうかな。オレにとって女の子っていうのは二種類しかいないから」
「どんな種類?」
「まずは、怖い子」
環は笑った。「もう一つは?」
「もっと怖い子だよ」
環はいっそう笑みを深くすると、
「レイくん、わたしが女の子だっていうこと、まだ言ってませんでしたっけ?」
言ってきたので、
「そう言えば、確か訊いてなかったような気がするな」
とぼけると、
「よかった。実はわたし、女の子だったんですよ」
環が黒髪の先を払ってちょっと気取った様子を見せた。
「じゃあ、タイプ3だな、川名は」
「特別なタイプですね。でも、どんなタイプかは訊かないようにします。想像した方が楽しいから」
そう言うと、環は、じゃあまた明日ね、と別れを告げて、身を翻した。門の脇にある通用口をくぐって中に入ると、彼女が手を振って来たので、怜はそれに手を振り返した。そうして、怜も家路を取ることにした。歩きながら自分の手を見ると、そこに春のような暖かさを感じて、その暖かさをくれた少女に想いを馳せ振り返ると、門内に入ったはずの彼女がもう一度門外に出て、こちらを見ているのに気がついた。
怜が何とはなしに手を振ると、環は手を振り返した。
うっすらと夜の気配が現れる中で、少女の立ち姿がどこまでも鮮明である。
立ち去りがたい気持ちがどこから来るのか、怜には分からず、家路についたのは、しばらく手を振っていたあとのことだった。
(『中学二年生の季秋、遊園地のドタバタ』了)