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中学二年生の季秋、遊園地のドタバタ その4

 昼食が終了。

 口元をぬぐってブースから外に出ると天気は相変わらず良い。

 青空に秋風がそよ吹いている。

「秋風吹きて尽きず」

 環がそんなことを口ずさんだ。

 それは子夜呉歌という、李白という詩人が作った漢詩の一節だった。

「漢詩、好きなのか?」

 怜が言うと、環はびっくりしたような顔をして、

「漢詩だっていうことをどうして知ってるんですか?」

 言うので、

「この前授業でやったろ」

 怜は適当な答えを返した。

 本当は祖父から昔暗唱させられた詩だった。

 高校の国語の教師をしていた祖父は、勉強しろというようなことは一度も言わなかったけれど、しばしば幼い怜に、名文の暗唱をさせていた。

「漢詩というか美しい言葉が好きなんです」

 怜はちょっと考えると、

「我が袖にまだき時雨の降りぬるは」

 と口ずさんで、言葉を止めた。

「君が心にあきや来ぬらん……どなたかこういうことを言いたい方がいるんですか?」

「いや、秋関連でぱっと思い出した和歌だよ。他意は無いから。ていうか、よく知ってるもんだ」

「和歌は母が好きなんです」

「雅なお家だなあ。お父さんは何が好きなんだ?」

「一番下の妹に夢中です」

「なるほど」

 楓が紅葉していた。

 真っ赤な手のような葉が空をつかもうとしているかのようだった。

 次は何に乗ろうかということになって、観覧車ということになった。男女で二人づつで乗ろうということを太一が言い出して、例の二人のことを考慮したのだろう、なるほど二人で乗れば親密な話がしやすい空間である。しかし、こちらは環以外は見知らぬ子で、なんとも気まずいことになりそうだと思っていたところに、

「うわっ!」

 と叫び声が上がった。同行メンバーの一人があげたものらしい。

 何事が起こったのかと思って様子を見に行ってみれば、声の主は山田くんのようである。愕然とした彼の視線を追ってみると、青色のジーンズがあって、そこにべったりと白色のものがくっついているのが見えた。どうやら、ソフトクリームらしい。

 山田くんのそば近くから子どもの泣き声が上がった。地面に突っ伏した格好である。ソフトクリームの持ち主だったのだろう。ぶつかった拍子に折角のスイーツを山田くんのズボンにプレゼントしてしまったというわけだ。

 周りの男子がアクシデントをはやしたてるようにすると、おさまらないのは山田少年である。

 好きな女子の前で恥をかかされたこともあってか、

「なにすんだよ、このガキ!」

 と大きな声を上げた。

 その声にますます泣き声をひどくする子どもは、五、六歳くらいだろうか。背中にこの遊園地のマスコットキャラなのか、今いちなんの動物をモチーフにしたのか分からないゆるキャラのバルーンをつけていた。

 男子はともかくとして、それよりずっと大人であるはずの女子も雁首を揃えるだけで一向に動こうとしないので、怜はすっと割って入るようにすると、膝をついて泣きじゃくる子どもを立たせた。長袖長ズボンを着ているので怪我はしていないようであるが、えーんえんと泣きやまない。

 よくよくと見てみると、電車の中で会った子である。

 怜は、よしよしと子どもの頭を撫で続けた。

「くそ、なんてことだよ、ちくしょう!」

 山田少年の怒声が上がった。

 大きな声にびくりとしたように子どもの泣き声がさらに高くなる。

 ズボンにソフトクリームがついたくらいのことでぐずぐずうるさいヤツだ、と思った怜は、はっきりとそう言って口に出した。

「ティッシュで拭いて、濡らしたハンカチでぬぐえばどうにでもなるだろ。ジーンズっていうのはもともと作業着だ」

 下から見上げる格好で付け加えると、山田くんの顔が見る見るうちに赤くなる。

「お前はされてないからそんなことが言えるんだよ!」

 つばを飛ばすような勢いで叫ぶと、濁った眼でにらみつけてくる。

 怜は、山田氏から子どもへと顔を向けると、その子の小さな背に手を当ててとんとんと軽くタップするようにした。

 ひっくひっく、としゃくりあげる子ども。

 母親はどこにいるのだろうか、と周囲を見ても、どうもそれらしき人の影が無い。迷子になったのかもしれない。子どもに訊きたかったが、ショック状態の今は難しい。とんとん、とタップを続けて落ち着かせようとしていると、突然、ピシャっという音がして、自分の太ももに何かがかかるのを怜は感じた。

「大したことないんだろ」

 どうやらかかったのはジュースのようで、そのジュースがかかった原因は山田くんのようだった。

 手に持っていたペットボトルの蓋を開けて、中身を怜のジーンズにぶちまけたのだ。

 振り向いた怜は山田くんの顔に、まるで何事か素晴らしいことでも成し遂げたかのような得意満面な笑みを見た。

 ここに来たことを、怜は今初めて後悔した。

 山田くんのあまりな行為に対して、誰も注意の声を上げる者がいない。そういう人間と一緒に過ごす時間というものは、山田くん自身と過ごす時間はもちろんのこととして、無駄以外のなにものでもなかった。

 怜は、人間の価値はみな平等だ、などという考えは全く持っていない。人には明らかな位階がある。しかしそれは富や権力やルックスによるものではなくて、魂の位階とでも言うべきものであり、その位階の上下により人の優劣は決まる。そうして、位階の低い人間とは関わらないのがベストである。

「なんとか言えよ、佐藤」

 せせら笑うような山田少年と話すことはもうない。もう一生無いだろう。

 ただし、怜は魂を磨く意志を持てるという一点においては、人はみな平等であるとも信じているわけなのだが、そういう意志を持つ気になるようにと山田くんのために祈る気は無い。

 ジュースが沁みて太ももがじんわりとするのを感じながら怜はあるものの到来を待っていた。

 すっと横から差し出されたものがあって、

「バニラ味でよかったのかな」

 軽やかな声がかけられると、うつむき加減だった子どもの顔が上がる。

 真新しいソフトクリームが綺麗なくるくるを保っており、それを見た子どもの涙がぴたりと止まった。

「ありがとう、おねえちゃん!」

 子どもが遠慮なくソフトクリームに手を伸ばした。

 怜の隣にしゃがんだ環が、ソフトクリームにかぶりついた子どもに、

「お母さんはどこにいるの?」

 訊くと、

「分かんなーい」

 と明るい声が返ってくる。

 どうやら迷子であるようだ。

 怜は立ち上がって、太一を見ると、

「この子を迷子センターまで連れて行く」

 努めて平板な声を出した。

 太一は笑っているようだった。

 何も面白くない怜は、自分が瀬良太一という人間に多少は期待していたのだということを思い知って、己の浅慮を呪った。

――このまま帰らせてもらおう。

 山田くんのために何事かを為す気はもう無かった。今回の件を頼まれたのは太一からであり、山田くんからではないわけで、それを徹底すればまだ帰るべきではないだろうと、一応そう考えることもできるけれど、今日はもうあれやこれやで胸がむかついている。リタイアさせてもらおうと怜は思った。途中退場は何も恥ずべきことではない。

「お母さんを探しに行こうか」

 怜が言うと、うん、とぺろぺろとソフトを舐めながら機嫌良さそうに子どもはうなずいた。

「わたしも行きます」

 環が言った。

 怜は断った。二人も必要な仕事ではないし、何よりこそっと帰りにくくなる。

「ソフトクリームはわたしが買って来たんですよ」

 思い出させるような環の言葉に、怜は、む、と口をつぐんだ。

 怜はそれ以上は、同行メンバーに一言も与えず一瞥もくれず、子どもの手を取って歩き出した。

「何か出来ることがありますか、レイくん?」

 彼らから少し離れたところで、隣から環が言った。

「一つあるよ」と怜。

「なに?」

「一人にしてくれないかな」

「それはできません」

 断固とした口調である。「それ以外では?」

「ハンカチを貸してもらえると嬉しい。泣きたい気分なんだけど、自分のハンカチは別のことに使わないといけないから」

「それならお安いご用です」

 何かのアトラクションのようにも見える可愛らしいトンガリ屋根の小屋に迷子を預けると、預けただけで帰るようなことはせず、怜は、洗面台を借りてジーンズの汚れをぬぐったあと、センターに留まることにした。親が来るまで子どもの相手をするつもりだった。後は帰るだけなので急ぐこともない。

「おにいちゃん、おねえちゃん、つみきやろう!」

 マットが敷かれた遊びスペースがあって、子どもが、こっちこっちと手を振っている。

 怜は環に、みんなのところに戻るように言った。

 環はそのほっそりとした首を横に振ると、

「レイくんは自分がそうしたくないところに、人をそうさせようとするんですか?」

 非難するようでもない透明な声でそう言った。

「それはオレと川名が同じじゃないんだから当然だと思うけど」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないでしょう。どうして、そうじゃないかもしれない方の可能性は考えてくれないの?」

「……分かった。じゃあ、この子の親が来たら一緒に帰るか?」

「はい!」

 環の淑女らしからぬ元気の良い声に、怜の心は少し晴れた。

 やがて三十分くらいしたあとに、息せき切って駆けこんで来た女性がいて、迷子の母親である。

 子どもはそれまで怜と環と機嫌良く遊んでいたのが、母親の顔を見た途端に、一転ウソのように泣き出して、母にしがみついた。

「本当にありがとうございます!」

 センターの係員に事情を聞いた女性は、怜と環が電車内で会った中学生だったことを認めて驚きの声を上げながら、感謝の言葉を何度も口にした。

 怜は、どういたしまして、と返しただけだったが、隣にいた環は、

「頼れるのはお母さんだけなんですから、今度からはその手を放さないようにしてくださいね」

 と、まるでその母親よりも年上のような大人びた口調で言った。

 言われた女性は、まるで子どものようにうなずいた。

 センターを出ると相変わらずの秋晴れである。

 怜の気持ちも清々しい。母子の再会を見たことで、気持ちはすっかりと晴れていた。

 携帯を確認すると、太一からメールが来ていたが、開く気はなかったし、まして返信する気も無い。

「じゃ、帰るか」

「はい」

 環と一緒に出入り口の門へと向かって歩き出そうとしたところで、こちらに向かってくる影があって、

「様子を見に来たんですけど」

 小谷さんである。

 見ると、少し離れたところから、ぞろぞろとした少年少女の一団の姿があって、彼らも怜たちの元へとやって来るようであった。

 怜は、環を見た。

「お任せします」と環。

 怪訝そうな顔をする小谷女史の前で、怜は、どうやら帰る機を逸したことを認めざるを得なかった。

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