小学四年生、今より神に近かったころ ~運動会の憂鬱~
夏休みが終わると、天高く馬肥ゆる秋、それは運動会の季節である。怜は、運動会があまり好きではなかった。運動すること自体は好きでも嫌いでもないが、ではなにが好きでないかと言って、運動会の練習が面倒くさいのである。それでも、競技の練習なら、する意味も分かる。分からないのは、入場の時の行進の練習や、組み体操の練習である。あんなものをやる意味は一体どこにあるのだろうか。あれらは、見せるためのものである。これでは、運動会は生徒のためのものではなくて、保護者のためのものではないか!
……と文句を言っても何も始まらないので、不満は胸に納めて練習はするけれど、もう一つ不満というか、今いち気分が乗らないのは、
「絶対、赤組に負けないようにがんばろうね、加藤くん!」
というこのテンションだった。体育の時間、怜は、体操服姿の紬を見た。白組の彼女は、どうしても赤組に勝ちたいようである。運動会の勝ち負けなんていうことには、怜は全く興味が無かった。こんなことで勝ったからなんだというのか。あるいは負けたからなんなのか。オリンピックだって参加することに意義があるのであれば、まして運動会の勝ち負けなんて、ほとんど価値が無いに違いない。
……と思いはするものの、それでも、とりあえずうなずいておいた。どうしても譲れないことでなければ、うなずいておけば大方は問題が無い。そうして、怜にとっては、どうしても譲れないことなど、ほとんど無いのだった
運動会の種目の中で、怜は借り物リレーにエントリーされた。怜は別に足が速いわけではない。リレーと言えば、運動会の花形競技であるはずなのに、どうして、さして俊足でもない少年が選ばれたのかと言うと、これが、「借り物」リレーだからである。借り物リレーとは、スタートを切ったあと、指示に従って、観客から物を借りてきて、そのものとバトンを抱えながら走るというものである。純粋な足の速さはあまり関係が無く、その借り物がすぐに見つかるかどうかという運の要素が濃い。つまりは、ほとんど誰にでも務まる競技だった。
とはいえ、一応、トラックを走ることになるので、そのための練習はする必要がある。
「絶対に勝とうね、加藤くん! 『かとう』だけに!」
自分のだじゃれに頬を染めた紬の走る姿は美しく、肉食動物を思わせた。
「どうして、普通のリレーにエントリーしなかったんだよ?」
「普通のリレーの方だと緊張しちゃうからさ。それでも、それがわたしだけの話だったら、わたしが失敗するだけだけど、クラスのみんなに迷惑かけちゃうし、もっと言うと、白組全体に迷惑がかかるでしょ」
まるで、自分の成績が勝敗に決定的な影響を与えるかのような言い方をしている紬に、怜は特に反論はしなかった。そういう感覚の方が、このような競技会においては正しいかもしれないと思ったからである。
クラスだけで何度か練習を行ってコツをつかんだあと、同じ学年全体での練習となった。エントリー種目ごとの練習である。キャップをかぶり、首から紐笛を垂らした男性体育教師は、
「怪我をしないように、集中して練習するようにな!」
訓示を垂れると、しかし、すぐに校内からアナウンスがかかって、
「先生が帰ってくるまで、休んでいるように」
と言って、足早にグラウンドを去ってしまった。
休めと言われたのだから、休んでいればいいものを、
「先生がいなくても、練習しようよ!」
と言い出した子が近くにいて、見ると紬だったので、怜はうんざりした。
「加藤くんもそう思うでしょ?」
「全く思わない。先生が休んでいろって言ったんだから、休んでいればいいだろ」
「先生のために練習するわけじゃないじゃん!」
紬は頬を赤らめて反論した。その反論は全くもって正論だったけれど、正論だけでこの世の中が動いているわけではないということは、怜は、もう齢10歳にして分かっていた。自分よりずっと頭が良さそうな彼女がそれが分からないというのが不思議でならない。
「みんなにも聞いてみるから!」
そう言うと、紬は体育座りをしている一団に向かって、練習したいと思う人は手を挙げるように言った。驚いたことに、メンバーのほとんどが手を挙げるではないか。ここは民主主義の世界である。怜も嫌々ながら従うしかなかった。
先生無しでの練習が始まった。借り物リレー組の練習に参加していた怜は、何度目かまでの練習が特に問題なく進行するのを見ていたが、しかし、その何度目かの次の時に、女の子同士が派手に接触して転んだのを見た。そうして、どうやら転んだ一人は紬のようだった。
やれやれと怜は、再度思いながら、転んだ二人の元へと近づいた。紬の周囲にももう一人の子の周囲にも人だかりはできていたが、「大丈夫?」と声をかけるだけで、何のアクションをするでもない。どうやら、二人は立ち上がれないようである。
怜は、誰か他に行動を起こす者がいやしないか見ていたが、誰も何もしようとしないので、やむをえず、紬の前に腰を下ろした。
「くじいたのか?」
「うん……」
「ちょっと触るぞ」
そう断ってから、怜が、ほっそりとした足首を確かめると、痛みが走ったらしく、声は出さなかったものの、紬は顔をしかめた。怜は、彼女の前に背を向けて腰を下ろした。
「保健室まで連れて行くから乗れよ」
「ええっ!?」
という声は、紬のものでもあり、他の子たちのものでもあった。
「いいよ」
と断られたら、怜としては次策として、保健室の先生を呼んでくる腹づもりだったが、紬は背負われてくれた。
「重くない?」
「別に」
紬を背負って立ち上がると怜は、もう一人座り込んでいる女子を見た。整った顔立ちの彼女は作り物めいた微笑を浮かべている。怜は、彼女を少し見たあと、
「お前は自分で歩くだろ?」
と声をかけた。少女は、瞬間ハッとした顔つきになったが、すぐにまた微笑を浮かべて、周囲の友人たちに、
「大丈夫だよ」
と声をかけて、立ち上がった。
怜は、紬を背負いながら歩き出した。日頃特別な運動をしているわけではないけれど、夏休みに、祖父に山登りに誘われたとき、重いザックを背負って歩いていることが役に立った。紬がしきりに、
「重くない?」
と訊いてくるのに適当に相づちを打ちながら、怜は、一歩一歩しっかりとした足取りで歩いた。幸い、保健室はグラウンドに面しており、段差も無いので、安全に目的地まで到着することができた。
「ちょっと待ってろ」
片足で立つ紬に、すぐに、もう一人の少女が肩を貸してくれた。
怜が外から保健室に声をかけると、女性の保険医は、怪訝な顔をしたが、すぐに事情が飲み込めたようで二人の少女を中に入れた。お役御免になった怜は、その場にいても何もできないので、グラウンドまで戻ることにした。別れ際に、怜はもう一人の少女のネームを見た。「川名」と書いてあった。
グラウンドのみんなの元へと帰ると、普段話もしない子たちが、怜の行為を半ば賞賛し、半ばひやかしてきた。怜は特に何を答えることもなく、さっきの場所に腰を下ろした。そのうち、長いお別れをしていた体育教師が帰って来たので、怜は代表して、起こったことを伝えた。すると、そのまま彼は保健室に行ってしまって、再び自習となった。こうなると、今日はもう一時間自習だったのと同じことである。全体練習の意味がまるで無かった。
紬は、先生に連れられて次の授業の時間に帰ってきた。どこかバツの悪そうな顔をしている。幸い、それほどひどい怪我では無いようだったが、歩いて帰るのは難しそうであるということで、放課後、親に迎えに来てもらうということになったらしい。
授業と授業の休み時間に、怜は、紬にお礼とお詫びを言われた。助けてくれたことに対するお礼と、忠告に従わなかったことに対するお詫びである。助けてくれたことに対する礼は受け取ったが、詫びの方は受け取らなかった。自分がそうするべきと信じてやったことなのだから、結果がどうであっても詫びるべきではないと思ったこともあるが、端的に、彼女にはもう忠告してもムダなのではないかと思ったからである。
以前、学校の遠足の山登りのときにも忠告して聞き入れてもらえないことがあった。何を言ってもしょうがないのかもしれない。これからも、一応言うだけは言うけれど、それは、まがりなりにも友人関係を結んだものの義理とでも言うべきものであって、それ以上の意味を持たせることはできそうになかった。
「あのさあ、加藤くん」
翌朝、登校してきた紬が、周囲に人がいることを気にしてか、声をひそめて尋ねてきた。
「どうして、川名さんじゃなくて、わたしのことを背負ってくれたの?」
怜は、彼女の言う意味が全く分からなかった。そもそも、川名というのは、誰のことだろう。
「誰って……昨日、わたしがぶつかっちゃった子だよ。ていうか、川名さん知らないの?」
「ああ」
「他人に興味無いにもほどがあるよ、加藤くん」
話によると、隣のクラス、というよりも、この学校内で一番の美少女ということらしい。隣のクラスのことなど、我がクラスのことさえはっきり知らないのに、まして知るわけもなかった。
「ああ、だから、わたしのこと助けてくれたんだ」
紬が納得したようにうなずきながら言った。
だから、ということの意味がよく分からなかったが、
「助けない方がよかったか?」
と尋ねると、
「また、ちょっと噂になっているけど……そんなことないよ。ありがとう」
と紬は屈託の無い笑顔を返してきた。
その後の全体練習では特に事故もなく、秋晴れの気持ちの良い空の下で、運動会は始まって、つつがなく終わった。運動会までには、紬の怪我も回復していた。怜は、スタートは遅れたが、借り物が簡単なものだったので、その遅れを取り戻して、クラスの一助となった。紬は治った足で、正規のリレーに出られたほどの俊足を惜しげなく披露して、大いに勝利に貢献した。
残念ながら、怜と紬の属する白組は負けてしまったが、怜としては別に残念でも何でもなかった。




