中学二年生の仲春、不合理主義の愉悦 上
「五十嵐くん」
名前を呼ばれた俊は、振り返った。
初春の午後の光が柔らかく射し込む、学校の廊下でのことである。
声をかけてきたのは、同じクラスの女の子だった。
俊は心持ち視線を上げるようにした。
彼は男子としては小柄な部類に入る。
「どこ行くの?」
少女は、つかつかと近づいて来て言った。
細い三つ編みを肩に垂らした大人しそうな子である。
俊は、帰るんだよ、と答えた。
今は放課後であり、今日は部活がない。
寄り道しないとしたら、向かうところは家しかない。
「道草しないでちゃんと帰るよ」
俊が請け合うと、女の子は、慌てたように、
「道草がどうとか、関係ないよ。何で帰っちゃうの?」
訊いてきた。
何で、と問われても困ってしまうのだが、その困惑状態は、
「今日みんなでバレーボールの練習をする日でしょう?」
次の一言ですぐに解けた。
なるほど、と俊はうなずいた。
春先の四月、新学年が始まって間もない頃に、「球技大会」という学校主催のイベントがある。各クラスは用意された種目に人数を割り当ててチームを作り、種目別トーナメントを勝ち抜かんとする。俊が割り当てられたのは、バレーボールチームだった。その練習に、彼女は誘っているのだろう。
「ボク、パスするね」
俊は、はっきりと言った。
「え、何で?」
「出たくないんだよ」
「どうして? バレーボールが苦手なの? だったら、わたしが教えてあげるから。まあ、わたしも得意じゃないけどね。でも全然できない人に教えることはできると思うよ、うん!」
そう言って、さらに半歩近づくようにしてくる少女から、俊は半歩距離を取った。
「まあ、バレーボールは確かに得意じゃないけど、だから出たくないってわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして?」
俊がそれに答える前に、
「分かった! アレでしょ! 『めんどくさい』ってヤツ! ああいうのさ、カッコイイって思ってるなら、五十嵐くん、はっきり言っておくけど、全然カッコよくないからね! 一生懸命やっている男子の方が断然カッコイイから!」
少女は、先回りした。
俊は、中学生のこの時期特有の――いや、男には生涯を通じてありがちだが――クールぶりたいという欲求などさらさらなかった。違うよ、と一言いうと、彼女はきょとんとした。彼女にまた別の解答を作り上げられてしまう前に、俊は言葉を差し挟んだ。
「無駄だからだよ」
「無駄?」
「うん」
少女の瞳がぱちぱちとした。「どういうこと?」
俊が答えようとすると、
「練習すれば上達するんだから、無駄なんかじゃないじゃん」
彼女が先走る。
ペースが速い子である。
「上達したとしても、他のチームには勝てないから、無駄なんだよ」
俊は、断言した。
「そんなの分かんないでしょ」
確かに、大体の場合、試合はやってみるまでは分からない。だからこそ、やるわけである。しかし、時には、やってみる前に結果が分かる試合もあって、俊のクラスのバレーボールチームの試合がまさにそれだった。チームのメンバーは、あまりスポーツが得意な顔ぶれではなく、対して、他のクラスのバレーボールラインナップを伝え聞いたところによれば、かなり充実しているようなのである。多少の練習をしたところで、勝ち目は無い。
「練習っていうのは試合で勝つためにやるものでしょ。試合で勝つ可能性が無いのに練習しても無駄じゃないか」
俊は、平静な口調でそう言った。球技大会自体は学校のイベントとして用意されたものなので、学校に通っている以上出なければならないだろうが、そのための準備段階としての「練習」は、参加が強制されるべき類のものではない。練習は勝つためにやるものだろうから、勝てる芽が出て来るのなら練習に参加してもいいが、その芽が出ないならやる意味が無い。砂漠に水を撒くようなことはしたくない。時間とエネルギーの無駄である。
そう言われた少女は、一瞬たりとも返答に詰まったりしなかった。
「仮に勝てないとしても、勝つために努力をすることが大切でしょう。努力すること自体が大事じゃん」
なめらかに続ける。
「砂漠に水を撒き続けることが大切なの?」
「そうだよ。砂漠に水を撒き続けても芽は出ないけど、そうしてがんばったことそのこと自体が、次のことにも活きてくるわけでしょ」
「ボクは、今回の件でがんばらなかったとしても、自分ががんばりたいことに対してはがんばるから大丈夫だよ」
そう言って俊はクルリと背を向けて、歩き去ろうとした。
上靴のゴム底がペタペタ、ペタペタペタッと軽快に響き、俊は前方に回り込む少女の姿を見た。
「まだ話は終わってないよ!」
俊は驚いた。もうこれ以上何を話すことがあるというのだろう。
「どうして、五十嵐くんはそんなに我がままなの?」
「え? 我がまま?」
「そうでしょ!」
自由参加の練習に、出たくないから出ないということのどこが我がままなのだろうか。我がままというのは、自分の思うままにするために他人の迷惑をかえりみないことだと思っていたが、意味が変わったのだろうか。
「あ、もしかして、ボクが参加しないとちゃんとした練習ができないってこと?」
そんなことも無かろうと思うが、俊は、バレーボールには造詣が深くない。素直に訊くと、
「そういうことじゃないの」
そういうことではないらしい。
「じゃあ、どういうこと? どうしてボクが我がままなの?」
「だって、みんなが練習する気になってるのに、五十嵐くんがそんな態度だったら、バレーボール班のみんなのやる気がなくなるじゃない」
なにゆえ、自分のやる気と彼らのやる気がリンクするのか分からないが、それよりも、
「みんな、やる気あるの?」
気になることを訊いてみると、
「あるよ、もちろん」
とのこと。それが本当だとしたら、不思議な人たちである。仮にそれが本当でなかったとしても、目前にいる彼女はやる気があるわけだろうから、彼女自身が不思議な人だった。
俊は、ほんの少しの間、考える時間を持った。決して逃がしてくれそうにない彼女と問答を続けてもらちが明きそうにない。だとしたら、ここでこうしてグダグダと続けるのは、それこそ時間とエネルギーの無駄である。
「分かった。参加するよ」
「ホント!?」
パッと瞳を輝かせた少女が、実に嬉しそうである。
「佐伯さんには負けたよ」
嫌味でなくそう言うと、
「負けとか、そんな風に言わないでよ」
ちょっと傷ついたような顔をする彼女。
佐伯さんから、再びターンする格好で、俊は、体育館へと向かうことにした。
その隣に、佐伯さんが並ぶ。
無言で歩いていると、
「怒ってるの?」
横から訊かれた。
「怒ってないよ」と俊。
「ずっと黙ってるから怒ってるのかなって」
歩き始めてからほんの30秒くらいのものだったけれど、それが彼女にとっては、「ずっと」になるようである。
「わたしのこと、うるさい子だって思ってるでしょ」
「いや、思ってないよ」
「絶対ウソだ」
「そう決めつけられると、何も言えないんだけどな」
「じゃ、はっきり言って」
「思ってないよ、別に。シャキシャキしてる人だなって思ってるだけ」
「しゃ、シャキシャキ? それって、褒め言葉?」
「褒めてもいないし、けなしてもいないよ」
ふうん、と佐伯さんは、若干疑わしげである。
ふと思いついたことがあった。
「加藤は来てる?」
「加藤くん? うん。参加するって言ってたから、ちゃんといると思うけど」
クラスメートである加藤くんも、同じバレーボール班である。
俊は意外な思いがした。加藤くんは、ニ年生になった今年から、同じクラスになった縁で話すようになったのだが、何事にも関心の無さそうな風であり、こういうグループ行動に参加するようには思われなかった。その評価を見誤っていたのか、あるいは、今隣を歩いている佐伯さんの誘い方が強力であったのか。
「帰ろうとしたの、五十嵐くんだけだからね」
佐伯さんは言った。どうやら前者だったらしい。
「やる気があるんだなあ」
「こうやってさ、一つのことにみんなで向かえば、仲良くもなれるし、それって、いいことでしょ?」
共同作業をこなせば仲良くなるのかどうか。
仮にそうなるのだとしても、相手が仲良くなりたい人なのかどうかということが問題だし、仲良くなりたい人だとしたらこんな機会を待つことなく、自分から仲良くしてもらいたいと申し出る意志が俊にはあった。
体育館に行くと、すでに練習は始まっているようだった。体育館の半分のそのまた半分のスペースで、かろうじて見知った顔の男女のクラスメートが体操着で、白いボールをもてあそんでいた。近くに別のクラスのバレーボール班がいて、残りのスペースは、バスケットボール部の部活動に当てられていた。
俊は、佐伯さんと別れて更衣室に入ると、持っていた体操着の袋を開いて、身軽な服装に着替えた。それから、合流して、佐伯さん主導の下、トレーニングに汗を流す。
「びしばし行くよ!」
鬼コーチの激が飛ぶ。
しかし、その特訓を受けるのは、バレーボールセンスが皆無の一団である。
「もっと高くジャンプ!」
「今の、飛び込めば、レシーブできたよ!」
「サーブは下からやって、きちっとコート内に入れて!」
いくら怒号を浴びせられても、そうそう上手くいくハズがない。一時間半の間、みっちり汗をかいたけれど、大した上達があったようには思われなかった。へとへとになった俊の耳に聞こえてきたのは、隣でやっている、にわかバレーボーラーたちのからかいの声である。
「このクラスには楽勝だな」
「ホントホント。ここと一回戦やりてえわ」
そんなことを言われても、俊は、それを自分でも認めているため腹も立たない。腹は減った。
「じゃ、ここまでにしましょう」
ひとりコーチだけは、涼しい顔をしている。
俊は、更衣室に引っ込むと、一緒に練習した男子二人と着替えの時間を持った。
「はあ、たく、何でおれがバレーボールなんか」
一人がぶつぶつと言い出す。
長身で髪も長くした男子である。
文句を言う割に来ているのだから、訳が分からないが、
「佐伯もあの性格じゃなきゃ、普通に可愛いのにな」
すぐに分かった。
どうやら佐伯さんと絡みたくて来たらしい。なるほど、佐伯さんの言った通り、親交を深めるという目的を彼はちゃんと持っているようである。
長身の少年は、一足先に着替えると、更衣室を出て行った。
もう一人残っているのが、加藤くんだった。ズボンを履いて、ベルトを留めているところである。ふと目が合うと、彼は、
「災難だったな」
と声をかけてきた。