小学四年生の仲夏、月光の降る草地の誓い
月が出ていた。
円になりきらない不格好な月が、冷え冷えとした光を、地上に投げかけている。
その下に、澪はいた。
草地である。
あたりは一面夜の色で、周囲には誰もいない。
虫の音がりんりんと響いている。
澪は泣いていた。
草の上にうずくまって。
母が死んだ。
突然の死であった。
葬儀が終わって三日目の夜。
澪はふらりと家を出て、この草地に来た。
小学三年生の澪には、死の意味がすぐにはうまく理解できず、しかし、どうにか理解できたときに、彼女にとっての地獄が訪れたと言ってよい。
いない。
母がこの世界のどこにもいない。
最も親しかった人が、最も愛した人が、もう話すことも触れることもできない存在になってしまったのだという理解は、澪の心を思うさま引き裂いた。
引き裂かれた心を抱いてふらふらと向かった先が、母とよく一緒に来ていたこの草地だった。
ちょうど昨年の今時分、初夏の頃、蛍をよく見に来ていた。
「蛍はね、亡くなった人の魂なのよ」
母が、うふふ、と笑いながら脅かすような声で言うのを、澪は、しかし、怖がったりはしなかった。闇をうがちふらふらと飛ぶその光は、確かに何かおさまっておくべき所から抜け出たもののように思われた。
澪は、立てた膝の間に顔をうずめた。
そうしていると、全てが闇に閉ざされて、少しだが心が落ち着いた。
――もうこのままでいい……。
このままこうしてうずくまってじっとしていたい。何にも考えずにこうして永遠の夜の中で生きたい。そうして、母の所に行きたかった。
――わたしも死ねばいいのかな……。
そんなことを思った。
そうすれば、死後の世界で母に会えるかもしれない。
それは甘美な誘惑である。
どうやって死ねばいいんだろう、と思ったとき、あたりが漆黒の闇に塗りつぶされた。
月が隠れたのである。
「ミオー」
不意に、自分の名を呼ぶ声がどこか遠くからしたようだが、澪はぴくりともしなかった。
それは母の声ではない。
であれば、澪にとっては何の価値もない声だった。
答えず、下を向きながら、どのくらいそうしていたことだろう。
ふと顔を上げると、まだ夜である。
少し呆けていた澪は、母のいない夜であることに気がついて、またさめざめと涙を流した。
しかし、死への誘惑は夢の中に置いて来たようである。
ただ悲しみだけが、彼女の胸を浸していた。
月はまだ隠れている。
重たい暗闇の中で、さくっ、さくっ、と草を踏み分ける音がした。
澪は、何かが近づいてくるのが分かったが、慌てなかった。母がいないのである。その事実以上に、怖いものなど澪には無かった。
すぐそばで音はやみ、
「お母さんに会いに来たの?」
代わりに、透明な声が聞こえた。
それはまるで月光のようにさやかに、澪の胸をひとさし染めた。
澪はその明りをかき消すようにして、
「わたしのお母さんは死んだのっ!」
大きな声を出した。
「死んだ人にはもう会えないんだからっ!」
続けた言葉の強さは、澪自身を打ちのめした。
両の瞳の奥がじわりと熱くなる。
声の主は、隣に腰を下ろしたようである。
「みんな心配しているよ」
闇の中、声だけで判断できたところからすると、子どものようだった。男の子らしい。
「帰ろう」
澪は、ぶんぶんと首を横に振った。
「わたしはここにいる!」
てこでも動く気は無かった。
母のいない家に帰ってどうしろというのか。いるはずの人がいないということの理不尽に耐え切れずこの草地に来たのであれば、帰ることなど思いもよらないことである。
男の子は少し口を閉ざすようにして、そよ風が草を揺らすに任せていた。
この子は誰だろう、と隣の男の子の素性を疑問に思う気持ちは澪にはなかった。誰だろうと興味の外である。
「お母さんってどんな人だったの?」
突然の問いかけに、澪は、反応した。
澪は世界で一番の母を自慢げに話した。
「お母さんは何でもできるんだよ。お料理もお洗濯もお掃除も上手だし、わたしのクマたろうを手術することもできるし、サッカーも木登りも上手だし、英語も話せるの。優しいし美人だし、それからそれから――」
一息に話し終えると、男の子は、「すごいな」と感嘆の吐息をついてから、
「うちのお母さんとはえらい違いだな」
冗談でもないように言った。
それが返って澪には可笑しかった。
うふふ、と少し笑って、しかし、すぐに心は沈んだ。
この男の子にはお母さんがいるんだ、という事実が、そうではない彼女を打ち倒した。
こみあげて来た感情に、澪は嗚咽した。
「ミオのお母さんはちゃんと生きているよ」
男の子の声は、はっきりとしていた。
澪はハッとして顔を上げて、拳をぎゅっと握りしめた。
「どうしてそんなうそ言うの!?」
母は死んだのである。
それが否定しようのない事実であることを認められるだけの分別が澪には備わっていた。
「うそじゃないよ」
男の子の声は軽やかだった。
澪は握りしめた拳を、隣にいるはずの子に打ちおろした。
澪の拳は闇の中でちゃんと実体をとらえた。
「うそ言わないでよ! お母さんは死んだんだっ! もう会えないんだからっ!」
涸れることの無い泉のように、瞳に涙がにじむ。
澪は両の拳で、男の子の体を叩いた。
そうして、空に向かって泣き声を上げた。
風が止んだ。
澪も手を休めた。
「ミオ」
「……なに?」
澪は、男の子の息を感じた。
自分の胸に触れるものがある。
その子の手のようだった。
「お母さんはちゃんとここにいるだろ」
「……え?」
「そうじゃなきゃ、おかしいだろ。ミオはミオのお母さんの子なんだから」
「お母さんが……?」
「うん。ミオの中にちゃんと生きているはずだよ」
子どもの澪でも、それは子どもだましの慰めに過ぎないと感じた。しかし、感じてなお、その子の手を振り払えないのがどうしてか、澪には分からなかった。男の子の手から確かなぬくもりが伝わってくるようで、それは澪の体をじんわりと温めていた。
男の子の言葉が続く。
「ここにちゃんとお母さんが生きていると思って生きていくんだよ。それができなくなったとき、ミオのお母さんは死ぬんだ。ミオが殺すんだよ」
その声はあくまで穏やかである。
それはただ事実を確認するような声だった。
澪は、男の子が慰めを言っているのではないということを理解した。
――お母さんを殺す? わたしが……?
「そんなことしないもんっ!」
澪はすっくと立ち上がった。
燃えるような気持ちがある。
「本当に?」
立ち上がったらしい男の子の声が近い。
「絶対にしない!」
澪は宣言した。
体中が熱かった。
「じゃあ、帰ろう」
男の子が言った。
それはまるで母の声のように聞こえた。
そう聞こえたということが、心に母を持つそのことだということに澪は気がついた。
そのとき体がふわりと浮かび上がるような感覚を得た。
同時に、家族のことが心に浮かんだ。
父に、妹、祖父母に、おじおばは、澪がいなくなって、どんなにか心配していることだろう。
家族に心配をかける自分を母は許してくれるだろうか。
――怒るかも……。
そう思った澪は、男の子の声に、うん、とうなずいた。
男の子の手が、自分の手の中にそっと滑り込む。
彼の手はあくまで軽く、澪が自分でその手を握ろうとしなければすぐに離れていくほどのはかなさだった。
男の子の先導に従って草地を歩きながら、澪は思った。
ここにお母さんはいない。どこにもいない。自分の中にこそお母さんはいる。そうしていつも自分を見ている。その目に恥じないような自分でいなければならない。
そこまではっきりと言語化できたわけではなかったが、澪は歩く力を手に入れたことを知った。
悲しみがすっかり拭われたわけではないし、拭われることは決してないだろう。
しかし、その悲しみとの付き合い方を、澪は唐突に悟った。
草をかき分けて前へと進む。
前へ、前へ。
足がゆるやかな上り坂をとらえたとき、
「あんた、なんて言うの?」
澪は、初めて男の子の名を尋ねた。
「レイだよ、ミオ」
「レイ?」
どこかで聞いたことがある名前だった。
「ミオ、蛍だ」
土手を登り切ったとき、男の子は言って、澪の手を放した。
闇の中に一つ、二つ、三つと灯りがともり、その光はふわふわと宙を漂っていた。
――綺麗ね、ミオ。
昨年の母の声が確かに聞こえた。
澪は、うん、とうなずいた。
光の一つが澪の胸元へと向かって、澪はその光を両手で胸に抱くようにした。
胸の灯りはすぐに澪の元を離れて、飛び去った。
それを眺めているうちに、やがて雲が切れて、現れた月の光が澪を白く染めた。
隣の男の子はもしか消えているのではないかと疑ったが、意に反して彼はちゃんとそこにいた。
どうやら人間のようである。
そのことに、返って澪はびっくりした。
「さ、帰ろう、ミオ」
男の子が言う。
澪はうなずいた。
月光は辺りを白々とさせて、もう手をつないでもらう必要はなさそうだった。
男の子を隣にして歩き出したときに、
「ミオー」
道の前から彼女を呼ぶ大きな声が聞こえ、懐中電灯の光が見えた。
「お父さーーーーん」
澪は、父の声に応えた。
どたどたという足音が近づいて、顔を照らされた澪は、一瞬後に、父の腕の中にあった。
「ミオ! ミオ! ミオ!」
それしか言葉にならないような父の髭がちくちくするのを、澪は自分の頬に感じた。
他の大人が数名現れる。
「よかった、本当に。本当によかった……ミオ、ああ……」
父の体が小刻みに震えていた。
父は泣いているのではないかと感じた澪は、
「ごめんね、お父さん……ごめんなさい……ごめんなさい」
何度も謝って、謝りながらしゃくりあげた。
「で、でもね、お母さんに、会って、来たんだよ」
「うん、うん……ただ今度はお父さんと一緒に会いに来ような」
「もう来ないよ」
「そうか、そうか……」
ぎゅっと痛いくらい抱きしめられた澪は、近くで、男の子が叱声を落とされているのを聞いた。
「心配したんだぞ、レイ。まったくお前は」
ごめんなさい、と謝る男の子の声を聞いて、澪は、父に抱きしめられたまま、
「おじさん、レイを叱らないで! レイはわたしを探しに来てくれたの! 悪いのはわたしなの!」
大きな声を出した。
その声は力強く夜に響いた。
ともかくも家に帰ろうということになって、澪は、おんぶでもするかという父の申し出を丁重に断ると、自分の足で歩き出した。
月はまた雲間に隠れ、行く道は暗く、しかし、澪には、はっきりと自分の歩く道が見えるような気がしていた。
(『小学四年生の仲夏、月光の降る草地の誓い』了)