中学二年生の孟夏、割れた花瓶から生まれる友情 上
「あのさあ、ケン、もしかしてタマキのこと好きなの?」
隣からかけられた声が唐突で、賢はびっくりするよりは、呆けたようになった。
中学校までの朝の通学路である。
五月の空は綺麗に晴れ渡り、それを見る人に、何かいいことがありそうな予感を抱かせる。
そんな空の下、賢は隣を見た。
幼なじみの倉木日向が、探るような目をしている。
賢は歩きながら、何のことだよ、と訊き返した。それは本心からのものである。
「だって、この頃いっつも教室でタマキのこと見てるじゃん」
タマキ、というのは、日向の友だちで、クラスメートの女子の名前だった。川名環。校内ではちょっとした有名人である。成績優秀、容姿端麗。才色兼備というやつである。加えて、性格も良い。
「好きなの? タマキのこと」
幼なじみの瞳に、誤魔化しは許さないとでも言いたげな、強い光が差した。
賢は、正直に答えた。「嫌いじゃないっていう意味なら好きだけど」
「じゃあ、女の子としては?」
朝っぱらからいきなり何なんだ、とは賢は思わなかった。日向とはほとんど生まれたときから一緒だったせいか、自分に向けられた彼女の行動を疑問に思ったり問い返したりしようという気持ちがなくなっていた。なので、すぐに、
「ちょっと苦手かもな。整いすぎてて近づきがたいっていうかさ」
率直なところを答えた。
川名環は文句なしの美少女なのだが、その完全性にこそ難があるような気がするのは、賢が単に女の子慣れしていないというそれだけのことなのかもしれないが、とにかく、近くにいるとプレッシャーを感じる子である。
「タマキって男子からはそんな風に見えてるんだ」
「みんながそうかは知らないよ。ただ、オレにとってそうってだけで」
「苦手だっていうならさ、なんでこの頃、タマキのこと見てるの?」
横断歩道の前に来ていた賢は、歩行者用の押しボタンを押した。
川名環のことを見てる?
身に覚えの無い話である。
「苦手だけど、可愛いから見たいみたいなことなの?」と日向。
「オレ、川名のこと見てるか?」
「うん」
「ふうん」
「ふうんって……それで?」
そんなことを言われても、何とも答えようのない賢は、勘違いじゃないのか、と言ってみた。
「勘違いじゃないわ」
なるほど、じゃあ見てるんだろうな、と賢は思った。
「無意識なのかなあ。よく分からないけど」
信号が変わったようである。歩き出そうとする日向の手を賢は握った。ちょうど近づいて来ていた車がちゃんと信号で止まるのを確認してから歩き出す。
「ちょ、ちょっと、ケン」
「ん?」
横断歩道を渡り切ったところで、日向が焦ったような声をあげた。
「て、手を放してよ」
「ん、ああ」
つないだままだった手を賢が放すと、日向は、胸先まで伸ばした髪の中で目元を染めるようにしていた。
「熱でもあるのか?」
「だとしたら、たった今出たんだよ」
「なんで?」
「恥ずかしいでしょ! 誰かに見られたらどうするの?」
「オレは別に気にしないけど」
日向の手を取ることは、賢にとって特別な意味を持たない。その特別な意味を持たないということ自体が実は特別なのであるが、賢にはそこまでの意識は無かった。
日向は、はあ、とため息をついた。
「幸せが逃げるって言うぞ」
「逃げたら追いかけて捕まえるわ」
「できそうだな」
ははは、と笑った賢は、とげのある目を向けられて、
「じゃあさ、タマキのことは特に何とも思っていないとして、他に好きな子いる?」
そんなことを訊かれた。
賢は軽く首を横に振った。
「いや、大体さ、そもそも女子は苦手なんだ」
「苦手?」
「そう」
「もしかして、わたしのこと男子だと思ってないよね?」
「何バカなこと言ってんだよ。当たり前だろ」
「じゃあ、わたしのことも苦手だってことになるけど」
「ヒナタはヒナタだろ。何でオレがヒナタのこと苦手になるんだよ」
「……それはそれでフクザツなんだよね」
そう言うと、日向は、はあ、とまたため息をついた。
賢は、「はあ?」と分からない声を出した。何も複雑な話ではない。日向のことは、男子とか女子とかそういうフォルダに分類されるのではなく、第三のフォルダに分類されるというだけの話である。というより、そういう分類を許さないと言うべきか。
坂道に差しかかる。
ここを登っていけば校門が見えてくる。周囲に、同校生の制服姿が増えて来た。
何やら淡い憂いを漂わせている幼なじみに、賢は、
「女子じゃないなら、気になるヤツはいるけど」
言うと、日向は、その大きめの瞳をぱちくりさせた。
「どういうこと?」
「加藤のことがちょっと気になるんだよ」
「加藤……誰?」
「覚えてないのかよ、クラスメートの名前」
賢は呆れた。
新しいクラスになって一カ月になる。クラスメートの人となりはともかく、名前くらいは覚えておくべきだろう。
「女子は全員覚えたけど、男子はさ。で、誰?」
「誰って言われても……ほら、川名がよく話しかけてるだろ」
日向は考える素振りを見せた。
しかし、うまくいかなかったらしい。
「まあ、いいや。それで、その加藤くんのことが何で気になるの?」
「何でって言われてもさ」
それは賢にも分からない。
加藤怜とは、今年、二年生になってクラスが同じになり初めて面識を持った。たまたま初めに席が近かったことでちょっと話すようにしていたところ、興味を持ったのである。何かが特別優れているというわけではない。勉強やスポーツで目立つというわけでもなく、話が面白いというわけでもない。しかし、どこか魅かれるものがあって、もしかそれは一目惚れに似た感覚なのかもしれなかった。
「そういう言葉使いやめてくれないかな。不愉快なんだけど」
「ん? なにが?」
「男の子に一目惚れとか、そういうのだよ!」
いきなりテンションを上げてきた日向に、賢は慌てなかった。
「はいはい、分かりました」
「『はい』は一回!」
「へい」
「……どの人か教えてよね、教室入ったら」
「先に来てたらな」
坂を登り切ったところで、校門前に立つ先生に挨拶した賢と日向は、生徒用玄関で上履きに替えて、廊下を歩いた。
あ、と思いついたことがあって、
「川名を見てるんじゃなくて、加藤を見てるんじゃないのか、オレ」
隣に訊くと、
「タマキがいっつもその加藤くんと一緒にいるみたいな言い方じゃん」
日向は答えた。しかし、なるほど、と一応納得したようである。
「じゃ、その加藤くんを紹介してもらおうかな」
賢がうなずいたところで、教室についた。
「なんだろ」
日向が言う。
教卓周りにクラスメートが集まっている。
教室に入った二人が事情を訊くと、いつも教卓の上に置かれている花瓶が割れた、ということだった。
なるほど、確かに、いつもあるはずの花瓶が無い。
「何で割れたの?」
日向が訊くと、それは不明であるということだった。
花瓶は、その水を日直が取り替えることになっていた。日直が来た時には既に割れていたという。
割れた花瓶はといえば、
「そこにあるよ」
と言って、教壇のわきを示したのが、件の川名環だった。
すらりとした立ち姿が朝日を受けている。
「タマキ」
日向は喜びの声を上げると、彼女にじゃれつくようにその手を取った。
「おはよう、ヒナちゃん。おはよう、西村くん」
「おはよう、川名」
環に挨拶を返した賢は、彼女が示したところを見た。
新聞紙が何かを包むように畳まれている。その中に花と、花瓶の残骸があるのだろう。
「先生に知らせようとしたんだけど、朝の会議中みたいで知らせられなかったの」
「それで……誰がやったの?」
日向は、周囲のクラスメートを見回すようにした。
誰も名乗りを上げる者はいない。「お、おれじゃねえよ、信じてくれえ」などと、おどけた振りをする男子の声を聞きながら、賢は自分の机に行って、肩下げかばんをその上に置いた。ちょっと離れたところに、怜の姿があるのを賢は見た。怜は、クラスの喧騒をよそにして、自分の席で新書を読んでいた。
「おはよう」
賢は声をかけて、彼の顔を向けさせた。
怜は、新書に栞を挟んで、挨拶を返してきた。
「どういうことなんだろうな?」
賢は、花瓶の件に関する、怜の解釈を聞きたかった。
「どうって?」
「いや、何で割れたのかなと」
「床に落ちたからだろうな」
「それはそうだろうけど、なんで床に落ちたのかってさ」
「さあ、それはオレに聞かれても分からないよ」
分からないよと言われて、賢は、怜にこの事件の解決を求めている自分に気がついた。名探偵よろしく、怜が事件をまたたくまに解いてくれるのではないかと期待していた。何でそんな期待を抱いたのかは、分からない。
こほん、という咳払いの音がして、見ると、近くに立った日向が促すような目をしていた。
「あのさ、加藤。こいつ、オレの隣に住んでいるやつで、倉木日向って言うんだけど」
「よろしく、加藤くん」
日向が笑顔で言う。
怜は、座っていた席からわざわざ立ち上がると、
「加藤怜です、よろしく」
と言って、軽く頭を下げるようにした。
日向が慌てたように、「こ、こちらこそ」と頭を下げ返すのを見て、賢は内心で微笑んだ。もちろん、外には表していない。怜が席に着くと、
「いくらくらいするんだろうね、あの花瓶」
環が話に参加してきた。
それは担任に訊いてみないと分からない。花瓶は担任教師が持ってきたものである。殺風景な教室に花を添えようという粋な計らいであったが、毎朝水を換えるのは日直の仕事になって、余計な仕事が増えた日直からの評判はよろしくない。
「弁償って話にはならないだろう」
「どうして?」
日向が訊く。
「花を愛でるような人だから、きっと典雅な心の持ち主だろうからさ。人の火傷を心配しても、馬のことは心配しないだろう」
怜は答えた。
日向は分からない顔をした。
賢も分からない。馬って何のことだ?
環だけが分かっているようで、くすりと笑っていた。
「てんがって?」
「上品ってことだよ」
環が答えた。
なるほど、と賢はうなずいたが、担任教師が上品な人かと言えば、どうだろうか。
とにもかくにも担任の到着を待つしかない。